Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

物語と、文章の肉体としての「文体」

たった今、吉田修一『春、バーニーズで』を読み終えた。

春、バーニーズで

春、バーニーズで

4つの連作短編と、おそらくそれとは無関係の短編の計5編でスパッと読み切れる短さが魅力。
連作短編は、主人公に4歳の息子(とは言っても奥さんの連れ子)がいるという点が自分と共通しているだけでなく、なじみの深い京王線や新宿が頻繁に登場することもあり、どっぷり浸かって読めた感じだ。そういうとき、自分は文字を目でなぞりながら、文章が想起させるイメージを頭の中で進行させている。勿論、レトリックなどに気をひかれながらも、あくまで、ストーリーに重きが置かれ、文章はそのサポート役だ。
しかし、文章、もっといえば、文章の肉体としての「文体」に、ストーリー以上のものを感じざるを得ないような作品もある。たとえば、舞城王太郎だ。
これも、先日、『熊の場所*1を読み終えたばかりだが、「圧倒的文圧」という帯の惹き文句に偽りなし。読んでいて疲れる部分もあるので、短編3つというのはバランスがよかった。
熊の場所

熊の場所

3編並べると、自分は舞城作品に、「腑に落ちる」物語を求めていないことを知る。解釈先行のカタルシスとでも言おうか。別に、それは無くてもいいのに、「ピコーン」*2なんかは、無理矢理オチをつけようとするから、何だかレベルが下がったように見えてしまう。(無理矢理が度を過ぎているところも舞城流であるにしろ・・・)
舞城作品を読んでいると、それが想起させるイメージという以前に、文章を読む行為自体の面白さを強く感じる。言い回しの妙などという意味ではなく、文章を読んでいるという〜ing形の自分が意識される、というスポーツに似た感じだ。図書館に返してしまったので、引用できないのが残念だが、「ピコーン」以外の二つの短編「熊の場所」「バット男」は、「腑に落ちない」で、何となく気持ち悪いものが残るからこそ、むしろ「圧倒的文圧」を満喫したように思う。
そもそも、小説は、音楽とは異なり、ライヴが無い。それゆえ、同じ時間を共有することによる一体感といったものは皆無で、あくまで個別・個室的なものである。(前のエントリの言葉を使えば)

二つに分けてもう一度整理すれば、スポーツの持つ、一次的な意味での感動は以下のような要素に支えられる。

  • その時間限り(一期一会的)
  • (同じ時間を過ごす故の)観客側の一体感
  • 競技者が主役

それらの優位性は、生放送終了後のテレビメディアとして使うことのできないものであるから、これを編集する必要がある。そこで生まれるのが以下のような要素に支えられる二次的な感動である。そして、それは「物語」というかたちをとる。

  • 再体験(追体験)可能
  • (一体感とは対極の)個別的・個室的
  • (同じ物語に触れる故の)観客側の擬似的一体感
  • 競技者が主役と見せかけて、実は編集・解釈する者が主役

舞城王太郎のような、異常な文体は、それ(物語として消費されること)に抗するために出てきたものなのだろう。
例えば、古川日出男が、朗読ライヴ?をやったりするのは、そういう危機意識があってのことなのだろう。
ここら辺、文学批評などを全く読まないので、素っ頓狂な理解になっているかもしれませんが。
〜〜〜
ところで、文体といえば、中村俊輔『察知力』はよかった。

察知力 (幻冬舎新書)

察知力 (幻冬舎新書)

率直にいえば、全編を貫く「察知力」と言うキーワードは、それほど重要ではないと感じた。勿論、俊輔をめぐるさまざまなエピソードの背後にあるのは、確かに、「察知力」という言葉で説明できるものだろう。また、新書の読者層のど真ん中であるビジネスマンが身につけるべき「スキル」としても使い勝手のいいフレーズだ。
しかし、この本の魅力は、そういった読者が応用できるビジネススキルや心構えの部分には無い。内容よりは、文体が、皆が(少なくとも自分が)イメージする中村俊輔そのものであるからだ。

チャレンジすることで、自分に力がつくし、経験を積むことができる。
難しい状況に立ち向かい失敗し、「中村、ヤバイんじゃないか?」という状況になったとしても、そういうときは課題が出たということだから、「課題が見つかったぞ、よかったな」と僕は感じる。その課題を拾って、また考えて、練習すればいいと。
そうすれば、失敗も糧となる。(P82)

ふてくされる時間が一番無駄だ。その時間が生み出す“いいこと”なんて何ひとつない。精神的にイライラしていると、プレーの質も下がり、あっという間に、チームメイトに追い抜かれてしまう。悪循環という言葉通り、悪い方向へと転がっていく。(P159)

引用部分が、それほど適切とは思わないが、これらの文章を読んでいて、そのメッセージ以上に「中村俊輔」を感じた。伊藤潤二の漫画で、別れ際にボーイフレンドからもらったビデオレターの完成度の高さに狂喜した女性が、「これさえあれば・・・」とボーイフレンド本人を見殺しにする話があったが、それを思い出した。いや、たとえは適切でないかもしれないが、この本の「中村俊輔」度は、それほど高いように感じた。勿論、松井秀喜「不動心」も同様に思いながら読んだ覚えがあるので、そういうのにはまりやすいタイプなのかもしれないが・・・。


文章という「静的」なものが、「文体」そのものや「文体」から推し量れる執筆者のイメージによって「動的」に変わることによって、物語やメッセージが大きな力を生むということがあるのかもしれない。スポーツ選手の本を読んで、強くそれを感じたのは、やはりスポーツというライヴ的なものがそういう力を持っているからかもしれない。
ということで、「文体」というものが、文章の持つパワーに掛算で効いてくるということが、このエントリの結論なのだが、それは、このまえ議論のあった「グルーヴ」に近いものなのだろうと思う。

参考過去エントリ

*1:舞城は『好き好き・・・』『世界は密室で・・・』に続き、やっと3冊目です。新作が出たばかりですが新作を追いかけるほど、熱心なファンではありません。

*2:この物語で連呼されるキーワードはイニシャルで無いと自分には書けない。F、F・・・とことあるごとに書かれて、最後には「すべてがFになる」的なオチ(笑)