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なんでも知ってるつもりでも〜吉田修一『静かな爆弾』

静かな爆弾

静かな爆弾

吉田修一の小説は、改行が多く、分量も適当で非常に読みやすい。というより読み始めるのに、あまり意気込む必要がない。そこで「何となく小説が読みたい気分だが、特に候補がない」そういうときには、「よ」の棚に目を向けるのが、最近の自分の図書館での行動パターン。この本もそんな風にして選んだ本だ。
「静かな爆弾」と聞くと、「静かな時限爆弾」と呼ばれるアスベスト災害を思い浮かべる人もいるかもしれないが、そうではない。勿論、テレビ中継用のスポーツ選手のキャッチコピーでもない。直接的には「静かな」は、主人公の彼女である響子が耳が聞こえないことを意味し、「爆弾」は、テレビ局に勤める主人公が、その制作に心血を注いだ「タリバンによるバーミヤン大仏の破壊についての番組」を意味しているのだろう。

いきなり話は飛ぶが、少しググると、この小説の主人公のモデルは高木徹、主人公が制作に携わった番組は以下のNHKスペシャルをイメージしているであろうということが推測される。

2001年3月、アフガニスタン、バーミアンで1500年以上前に作られた巨大大仏が破壊された。数世紀の年月をかけて作られ、三蔵法師も訪ねた世界的文化遺産は一瞬で消え去った。破壊を行ったアフガニスタンの支配者タリバンには世界から非難が集まった。
 だが、破壊の3年前、タリバンの指導者オマルは「大仏保護」の指令を発していた。
 タリバンの“変心”の裏側には、半年後におきる9・11同時多発テロの首謀者、オサマ・ビンラディンがいた。当時アフガニスタンに潜伏していたビンラディンにとって、タリバンに深く食い込み、大仏破壊という「テロ」を行うことは、大きなメリットがあったのだ。オマルはなぜ変心し、タリバンは大仏破壊へと突き進んだのか?ビンラディンの関与はどのようなものだったのか?

大仏破壊―ビンラディン、9・11へのプレリュード (文春文庫)

大仏破壊―ビンラディン、9・11へのプレリュード (文春文庫)

大仏破壊 バーミアン遺跡はなぜ破壊されたか

大仏破壊 バーミアン遺跡はなぜ破壊されたか

⇒参考:著者インタビュー

『静かな爆弾』では、大仏破壊が重要なモチーフになっているはずなのだが、番組内容についての言及が少なく、なぜこの話でここまで引っ張るのか理解できない部分があった。全体としては不満はなかったが、小説としては、やや書き込み不足であるような気がしていたが、この番組と本の存在を知ってしまうと、「むしろ当然知っておくべきことなのでこの本を読め」という吉田修一の心の声が聞こえてくる。
〜〜〜
さて、話を小説の内容に戻す。
耳の聞こえない響子とのやりとりはメモ帳を介して交わされることになる。通常の会話とは異なり、モノを通して伝えるという点が、番組を通して視聴者にメッセージを伝える主人公の仕事と共通する。「静かな」と「爆弾」それぞれが指し示す「彼女」と「番組」の両方の点から、コミュニケーションに対して敏感な主人公の苦労が浮かんでくる。

実際、伝える(送り手)〜理解する(受け手)の難しさは、何度も似た文体で繰り返される。

ごめん、一人で残して。俺は、まだあなたの世界を理解していなかった。理解していると思い込んでいただけだ。ちょっと想像すれば分かったのに、それができなかった。
(P34)

タリバンのこともアルカイダのことも今まで知らなかったなあ、と同僚・上司と話したあとのシーン)
何も知らないわけではなかった。
なんとなく知っていることを、なんとなく知ったままにしていた。
大変なんだろうなとは思っていた。ただ、思うだけで、その大変さを想像しなかった。
苦しいんだろうなとは思っていた。ただ、思うだけで、その苦しみを想像しなかった。
(P162)

(連絡の取れなくなった響子の自宅を探すシーン)

知っている道だと思っていた。
一度くらい通ったことのある道だと思い込んでいた。
なのに、一度も足を踏み入れたことのない道だけが右に左に伸びていた。
(P175)

つまり「なんでも知ってるつもりでも ほんとは知らないことが、たくさんあるんだよ」((C)おでんくん)ということか。「知っている」ということは、相当に脆いことなのかもしれない。言葉で知識を得ることは、思っているほど簡単なことではない。
そんな中、響子を探して辿り着いた神宮球場で観客席を見上げるシーンは、小説の中で最も重要なシーンとして、ラストまで主人公の頭にフラッシュバックし続けることになる。

(同僚に向けた言葉より抜粋)
「・・・昨日から妙な感覚なんだよ。」
「ああ、なんていうかあの中に紛れ込んだまま抜け出せないっていうか・・・」
「あの中にさ、もし神様がいたとして、お前、見つけ出す自信あるか?
俺たちが作った番組、ちゃんと伝わるかな?ちゃんと見てくれる人たちに伝わるのかな?」
(略)
自分が何を言いたかったのか、どうしても言葉にできなかった。
とつぜん目にした無数の顔。
強いライトに浮かび上がった無数の観客たちの顔。
言葉にしようとしても、浮かんでくるのはその光景で、いっこうに言葉になってくれない。
(P99-101)

これほど多くの人たちが、それぞれ自分の考えを持っていて、それが誰かに向けて放たれたとき、無事に届くためには、送り手、受け手双方に相当の覚悟が必要となる。受け手自身さえもが、「無数の顔」の中に埋もれようとしている中で、送り手のメッセージを受け取り、相手のことを真に理解するのはほとんど不可能に近い。「言葉」はさも伝わったように見せかけるだけで、担保にならない。
ここで、タイトルの意味に戻るが、爆弾というのは、政治的メッセージを伝えるテロとして用いられる爆弾をイメージしているのだろう。確かに、それでは政治的メッセージは届かない。しかし、彼らをテロに走らせたのは、通常の手段でメッセージが届く土壌である「受け手」の無理解にも問題があった。
番組を通して、主人公が伝えたいと思っていることは、無数の顔たちの「無関心」によって、雲散霧消してしまうものかもしれない。しかし、一石を投じることに意味がある。つまりドキュメント番組自体が「静かな爆弾」なのだろう。
と、ここまで考えると、やはり、この小説は、先に引用したNHKスペシャルを見た上での吉田修一の個人的な印象をそのまま物語にしたもののように感じる。何だかな〜と思いながらも、『大仏破壊』は読まねばならないだろうな。