前のエントリで、オリジナル・ラヴの最近のアルバムに不足しているものを説明するものとして「リラックス」という言葉を使った。自分にとって、そのことが、特に痛感されるアルバムは『キングスロード』である。勿論、自分に馴染みの深い曲が少ないこともあるが、これを聴いても、アルファ波がほとんど出ない。(笑)
そもそも、カバーアルバムは、聴き手は勿論、ミュージシャンがリラックスして=楽しんで作ることのできるアルバムのはずである。それは、大雑把に言って、自分で全て背負わなくて良いからだろう。「曲が悪くても自分のせいじゃないもんねー」と逃げられる。また、大人数の人が知っている曲は、第一印象として受け入れられやすいこともあり、通常のオリジナルアルバムで高い壁となる「最初の一歩」は、クリアしやすい。
それにもかかわらず、『キングスロード』が、自分にとって「リラックス」から遠いアルバムになってしまっているのは、兎にも角にも、田島貴男自身が、(基本的に)全曲の訳詞を引き受けているということが大きいのではないかと考える。
以前のエントリ*1で、松田聖子のように、作り手と歌い手が異なる場合に生じるダイナミズムの話と絡めて、カバー曲の話をしている。
カバー曲というのは、あくまで歌い手の解釈にとどまり、ここでいう「歌謡曲」ほどには、作り手と歌い手が異なることによるダイナミズムが働かないといえる。このことからすると、作品制作に詰まった(もしくは飽きた)シンガーソングライターが、カバー曲アルバムを出しても、自曲を歌うのと同様、広がりは「同心円的」なものにとどまり、ミュージシャンにとっても「ひと休み」にしかならないのかもしれない。逆にいうと、シンガーソングライターである椎名林檎が、デビュー10周年を前にして、東京事変のサードアルバム『娯楽』で、全曲を他人に任せた(作詞は椎名林檎)のは、そういったダイナミズムを狙ってやっているのだろうが、正解であったように思える。
なお、このブログでよく扱うオリジナル・ラヴは、2006年にカバーアルバム『キングスロード』を出しているが、田島貴男本人がアレンジして歌うだけでなく、訳詞まで手掛けているという意味では、同心円状にすら広がっておらず、他のアルバム同様、自らの音楽志向をさらに掘り下げる作品になっていると思う。
ここでの評価の視点は、あくまでも「職業歌手+作曲家+作詞家 > シンガーソングライター」ということが前提になっているので、自分としては、全てがその通りだというつもりはない。しかし、『キングスロード』が、「広がる」のではなく「掘り下げる」という、音楽家というより研究者っぽいアルバムであることは、やはり言えると思う。
それと比較すると『踊る太陽』の“開いている”感じは、かなり対照的で、むしろ、このアルバムの方がカバーアルバムの雰囲気を持っている。『踊る太陽』は、10曲中4曲が田島以外の作詞で、ソロ以降のオリジナル・ラヴの中でも屈指の「田島度の低いアルバム」だからなのだろう。(それゆえ、最近、改めて聴き直してみても、このアルバムは、実に評価しにくいアルバムだ。異色作といえる。)*2そして、多くの人が参加しているため、他と比べると、外に開いている感じを強く受けるのであろう。ものすごく聴きやすいアルバムではないが、アルファ波が確実に出るといえる。
自分は、シンガーソングライターの田島貴男が好きなので、基本的に作詞作曲は、一人でやってもらいたいが、全てを自分で背負い込むのは、やはりキツイのだと思う。田島は、CaoCaoのラジオ番組出演時の話を挙げて、
収録スタジオの外からガラス越しに手を振るファンは9割方もっちー。ちやほやされる持田香織と、横にチョコンと座る自分を意識し、二人組の売れない芸人の方(オードリー若林など)の気持ちがわかった。でも、それはそれで、やったろうかという気になる(要出典)*3
というような話をしていたようだが、勿論、あの楽曲の良さには、田島貴男のアレンジ*4が効いていることは、曲を聴けばすぐにわかる。それだけでなく、メインボーカルを、持田香織に任せることによって、田島自身の歌唱も、いつも以上に光っていた。
全てのポジションを一人で背負い込むのではなく、複数で分け合った方が、クリエイティブなものづくりができることもある、ということが、聴く側としてもよくわかった。
繰り返し書くように、自分は、田島貴男が全曲の作詞作曲をすることを望んでいるが、プロデューサーは、一度、別な人に任せてしまった方がいいと思う。
そうすることによって、田島貴男もリラックスしたものづくりができるし、聴き手もリラックスして聴けるような作品が増えるような気がするのだが、どうだろうか。
(新作への期待については、また今度)