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「愛」の物語〜スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』

デッド・ゾーン〈上〉 (新潮文庫)

デッド・ゾーン〈上〉 (新潮文庫)

デッド・ゾーン〈下〉 (新潮文庫)

デッド・ゾーン〈下〉 (新潮文庫)

ジョン・スミスは人気者の高校教師だった。恋人のセーラとカーニバルの見物に出かけたジョンは、屋台の賭で500ドルも儲けた。なぜか,彼には当りの目が見えたのだ。愛を確認し合ったその夜、ジョンは交通事故に遭い、4年半の昏睡状態に陥った。誰も彼が意識をとり戻すとは思わなかったが、彼は奇跡の回復を遂げた。そして予知能力も身につけた。そして―、彼の悲劇が始まった。 (Amazonより)

デッド・ゾーンは、スティーヴン・キングの1979年発表の作品。
キングの作品は、クージョ、キャリー、ミザリーグリーンマイルを読んだことがあったが、この本も、それらの作品と同様、最後まで一気に読ませる。登場人物と地名が片仮名であるだけで苦手意識が先行してしまう自分だが、巧さゆえなのか、ストレスを感じることはほとんどなかった。久しぶりに、普段あまり読まないジャンルの中から、素直に読めて良かったと思える本に出会えた。*1

1970年代アメリカの不安と「愛」

解説(吉野美恵子)では、『デッドゾーン』について、「アメリカの1970年代という時代そのものを描いた小説と言っても言い過ぎではない」としている。

ケネディの「黄金の60年代」が過ぎて、アメリカは大きな転換期を迎えた。何よりもヴェトナム戦争アメリカの軍事力、経済力の限界を国民の目に明らかにし、アメリカ的価値観に対する自身を根底からぐらつかせた。72年にはニクソン大統領の政権下でウォーターゲート事件が起こり、74年のニクソン辞任を経てもなお、それは先のヴェトナム戦争とともにアメリカ社会全体に後遺症を残した。政治経済の混乱や旧来の価値観の崩壊にともない、社会全体をおおった強い不安感。それが後遺症の最大のものだった。

そのような70年代のアメリカを舞台に、不安感と不穏な空気が全編に漂うこの小説には、主人公が超能力者であるということ以外に、強いテンションで物語を引っ張り続ける要素として、「愛」というテーマがある。
具体的に言えば、主人公ジョン・スミスの両親との関係、そして恋人との関係なのだが、二つをまとめると「愛」という言葉がふさわしい。「恋人」役のセーラに対しても、「恋愛」というよりは「愛」という言葉が似合うのは、昏睡状態に陥った4年半の間に、セーラが別の男性と結婚し、子どもをもうけるためでもあるが、お互いを想う愛情の深さが、結婚や恋愛の枠を超えたものであると感じられるからだ。
また、両親との関係で言っても同様のことが言える。
終盤、主人公ジョンに父親ハーブが告白するシーンがある。母親ヴェラが亡くなったあと、自らが再婚することについて話すところだ。

「わたしたちはおまえを失うだろうと思ったんだ。とにかくわたしはそう思った。ヴェラは希望を棄てなかった。彼女はいつも信じていた。ジョニー、わたしは…
言っておかなきゃならないんだ。ここ一年半ばかり、こいつが腹の中に石みたいに居座ってた。わたしはおまえが死んでくれるように祈ったんだ、ジョニー。実の息子をだ、おまえを召してくれるように、神に祈ったんだ。…あとになって、なるほど神さまはわたしよりももうちっと分別があったんだなと思ったよ。」

非常に難しい話題だ。4年半の間に、ジョンの治療費が嵩み、一家は膨大な借金を背負うことになるし、母親は宗教に過剰にいれ込むことになる。ジョンではないが、そんな未来が目に見えてしまえば、呼吸器を外すという決断をしても誰も文句を言うことができない。そして、そんなジョンの両親の苦悩を知りながらも、別の男性との結婚という道を選んだセーラの悩みも深かっただろう。だからこそ、後半部での、ジョン、セーラ、ハーブは強い絆で結ばれる。その「強い絆」に連なる愛こそが、『デッド・ゾーン』の物語の核の部分になるのだ。

『おおきな木』『告白』『デッド・ゾーン』に見られる愛と依存

しかし、一方で、自分はこの「強い絆」を、日本っぽくないものと感じてしまう。その理由は、それほど強い絆で結ばれた3人が別々の道を歩んでいること、それぞれ個人として独立しているところにある。
これほどの大事故に遭ったあと、親子や恋人が結びつきを強くするという話は、世界共通であろうが、日本製の物語であれば、事故後に結婚をしたり、家族と同居して支え合いながら暮らすシーンにとつながるだろう。どうもそこには、「愛」と「依存」が分かち難いという事情があるように思える。格好いい言葉を使えば、それが多分「甘えの構造」だ。*2


先日読んだ絵本『おおきな木』は、確かに「愛」の話ではあるが、それは非常に西洋的な価値観に基づいて語られており、日本の親子関係の話に置き換えることは困難だ。*3反対に、ジャンルも親子の年齢も異なるとはいえ、同じく最近読んだ湊かなえ『告白』で示される親子関係には、非常に日本的な部分があると思う。親も子も未成熟であるがために、互いに依存が深くなるという部分だ。この差は、おそらく宗教的な部分(神についての考え方)が大きいのだろうと思う。

ジョンは正気だったか?

そして、『デッド・ゾーン』では、その「宗教」の問題に比較的多くページを割かれている。直接的には、母親の描写だが、物語全体としても、大衆の後押しで独裁的な指導者が誕生し、破滅への道を突き進むという終末観も、非常に「宗教」的なものだし、それを阻止するのが「預言者」であることもそうだ。
作品では、母親ヴェラは、過剰に「宗教」にのめり込む「愚かな者」として描かれているが、最終的にジョニーが決断して取る行動は、母親ヴェラの狂信的な行動と何ら変わるところが無い。

ジョニー・スミスは生涯の最後まで思考力もあれば理性もある人間でした。…彼は神のごとき恐るべき力を備えた人間だった。…だが狂気では無かったし、脳への圧迫から生じた妄想に踊らされたのでもありませんよ。
(P366)

「事件」のあと、スティルソン調査委員会でワイザック医師は、ジョニーの脳について問われてこう答える。そして、ヒトラーなどの名も挙げて、「彼らは正気だった」ことを主張する。つまり、ジョニーは、数々の凶悪犯罪者と変わらない。
ここに、自分は気持ち悪さを感じる。ジョニーが正真正銘の超能力者であったことは、読者は知っているし、アイザック医師なども分かっている。しかし、未来が破滅を免れたことは、実際問題として、ジョニーにしか分からない。自分は、この部分が晴れるラストを期待していたのだが、それがキングの狙いなのか、やや明るいラストシーンにも、不安な気持ちが残ったままとなった。


それはともかくとしても、物語に含まれるテーマは普遍的なもので、時代的な古さは全くなく、むしろ、1970年代のアメリカと同様、不安感が漂う現代日本でこそ、「時代を映す」物語として読まれてもいい。読んで良かったと胸を張れる小説だった。
(いったん締め)

補足・米国大統領と日本国総理大臣

主人公のジョン・スミスが、交通事故のあと、4年半の植物人間状態から目覚めたのは1975年。1975年は、10年以上に渡るベトナム戦争が終わった年であり、当時のアメリカ大統領は、

と変わる。物語の中では、大統領というのは重要な位置づけを持っている。そのため、作品の中で彼らの名前が何度も出てくるし、カーターとは直接言葉を交わすシーン*4すらある。(マスキー法で有名なマスキーも何回も出てきた)

今の日本に置き換えてみると、大変なことになる。小泉純一郎在任時に交通事故に遭ったジョン・スミスが4年半の昏睡から目覚めると、小泉以降に、政権交代が済んでいるだけでなく、自民3人、民主2人の総理大臣が生まれているという事実。『デッドゾーン』ではジョンは、目覚めてから政治に興味を持ち始め、政治おたくとなるが、今の日本が舞台ならどうだろうか?それどころか、一人の政治家に翻弄されるラストも変わってきただろう。やはり米国大統領は、それだけでドラマになるのだなあ、という思いを強くした。

*1:なお、この本は第二回スゴ本オフの「本の交換」コーナーでうすいさんより頂いたものです。これが回ってきて非常にラッキーでした。

*2:読んでません。何となく使ってもいいじゃないか!

*3:勿論実際の親子関係は似たりよったりであろうが、理想像として持っているものは大きく異なるように思う。

*4:下P156