夏の本が続いたが、大定番はこれ。
- 作者: ロバート・A・ハインライン,小尾芙佐
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/08/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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なんで夏なんだっけなあ?と思いながら読み直したが、物語は直接「夏」には関係がなかった。夏は「希望」の比喩であり、冬の季節であっても、開けばそこに夏が待っている「夏への扉」を探す生き方が、デイヴィス(ぼく)とピート(猫)の生き方なのだ。
1963年の作品で、物語は1970年から始まるが、序盤の展開でコールドスリープによって、30年後の世界(2000〜2001年)に行き着く。アーサー・C. クラーク『2001年宇宙の旅』が1968年というので、60年代の作家から考えれば、ゼロ年代などは、果てしない未来だったのだろう。『夏への扉』で描かれる2001年の世界は、映画は動映(グラビー:テーマパークにある座席が動くタイプのアトラクションのようなもの)に代わり、風邪は一掃され、お手伝いロボットが数多くの家事をこなす。既に2010年になってしまった今は、当時の人たちが描いた未来とはズレが大きくなってきていることを感じざるを得ない。
しかし、そんなことよりもショックだったのは、ラスト近くの独白に代表される主人公の未来観。
おそらくぼくの息子は(タイムトラベルを)したがるだろう、だがもしするというなら、過去よりは未来へ行けとすすめるだろう。“過去へ行く”のは緊急の場合にかぎる。未来は過去よりよいものだ。悲観論者やロマンティストや、反主知主義者がいるにせよ、この世界は徐々によりよきものへと成長している。なぜなら、環境に心を砕く人間の精神というものが、この世界をよりよきものにしているからだ。両の手で…道具で…常識と科学と工業技術で。(P345)
そもそも、デイヴィスは、11歳の女の子が10年経っても自分を好きでいることを信じて疑わないほどの楽観論者だから、発言者の性格あってこその台詞という部分もある。
したがって、時代だけの比較はできないにしても、「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」(村上龍『希望の国のエクソダス』)という言葉がことあるごとに引用されるゼロ年代以降の現代日本での感覚とは、あまりにも差がある。政治家たちが、殊更に「次の世代のために」と言うのは、年金にせよ環境問題にせよ、これから問題がさらに山積する上、問題の先送りが政策のデフォルトになっているからだ。無防備にデイヴィスのような発言をすることができるのは、俗人社会から外れた鳩山由紀夫のような人だけだろう。
しかし、楽観悲観という物の見方にかかわらず、誰もが「夏への扉」を探り続けなければならないのだろう。どんなに絶望的な状況に陥っても不死鳥のように蘇った小惑星探査機はやぶさの姿は多くの人の共感を呼んだが、あれが特別なのではない。安西先生の言葉を借りるまでもなく、試合を続けたいのならば諦めないこと、つまり「夏への扉」こそが全ての人が生きる原動力なのだから。
補足
今回読んだのは福島正実訳ではなく、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を訳した小尾芙佐さんが担当した新訳版。
当然、翻訳には相当な苦労があったと思いますが、猫のピートの毛色を変えた?表紙イラストの谷川夏樹さんもまた、かなりの覚悟が必要だったのかも、と思いました。自分にとっては全く違和感がないし、デザイン全体込みで旧版の雰囲気は残しつつ新しい感じがして良いと思いました。