Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「地味」だが面白い〜麻耶雄嵩『螢』

螢 (幻冬舎文庫)

螢 (幻冬舎文庫)

オカルトスポット探険サークルの学生六人は京都山間部の黒いレンガ屋敷ファイアフライ館に肝試しに来た。ここは十年前、作曲家の加賀螢司が演奏家六人を殺した場所だ。そして半年前、一人の女子メンバーが未逮捕の殺人鬼ジョージに惨殺されている。そんな中での四日間の合宿。ふざけ合う仲間たち。嵐の山荘での第一の殺人は、すぐに起こった。(Amazon紹介文)

インシテミルのときに名前を出したように、麻耶雄嵩という作家には、ちょっとした思い入れがあり、10年ぶりくらいに本を読んだ。
おそらくこれまでに読んだのは2作『翼ある闇』『夏と冬の奏鳴曲』で、10年前の記憶を辿れば、前者は、これでもかこれでもかという、よくできたサーカス?というよりはイリュージョンのようなのような、めくるめくエンタメ小説で、お腹いっぱいの内容。後者では、物凄く華やかで大技が次々に決まるも、最後まで読んでみて、オチというより物語の意味が分からず、呆気にとられてしまったという記憶がある。とにかくサービスが過剰で読者が地に足すらつかないという点で、他には代え難い作家という印象だった。
このような麻耶雄嵩評はある程度一般的なもののようで、巽昌章による巻末の解説でも触れられている。

麻耶雄嵩の書くものは、どれもたいてい不思議なのだが、『螢』がちょっと違うのは、突拍子もない趣向が少ないということだ。
・・・
彼は、この『螢』でだけ、作風を変えて地味作りに徹したのだろうか。

ここで書かれている『螢』の印象は、自分の読中の印象と非常に似ている。
過去作から麻耶雄嵩に期待していたド派手さは欠けており、ラストまで読んでも、「確かに面白かったが・・・。」と思ってしまった。


しかし、この解説では、むしろ麻耶雄嵩は「本格原理主義者」然としてふるまう彼を紹介しながら、以下のように評価している。

  • 麻耶が体現しているのは、むしろ、言葉の細工物としての本格推理小説が、そのままで常識を離れた何ものかに転化してゆく不思議なのである。
  • 本格推理小説が、言葉の細工物であるがゆえに招き寄せる残酷さに、作家麻耶雄嵩が同期して奇妙なハーモニーを奏でている。

つまり、本格推理小説が志向するパズル的な完成度と、登場人物たちが人間として抱える苦悩の調和・不調和が、麻耶雄嵩の作品の中では絶妙なバランスを持って示されている、というのだ。
自分は、この作品だけを持って、同じ評価を下すことはできないが、少なくとも、地味ではあるが不思議な『螢』の読後感の説明としては、納得できる解説だった。


さて、直接の感想に戻る。
読んだきっかけである以上、どうしても『インシテミル』と比較をしてしまうが、『インシテミル』の方がエンタメ性があるが、本格派としては作りが雑。『螢』は、逆に、推理の組み立ては、しっかり出来ているように思うが、特に前半部はもう少し派手さがほしいと感じた。

ただし、後半は怒涛である。
ポイントは3点あると思うが、特に2点目。大どんでん返しながらも「え?それが何か?」というかつて無い展開に目を丸くした。物語の展開上、それを入れる意味はあまり無いようにも感じたが、敢えて、コレが入っているのが麻耶雄嵩流なのかもしれない。
(以下具体的に書かないものの、ネタばれ)




3点のポイントは

  1. 叙述トリックその1:まるで彼女を語るかのように憧れの女性について語るストーカーである1人称の犯人
  2. 叙述トリックその2:性別を勘違いさせるような叙述
  3. 救いのないラスト

このうち一点目については、叙述トリックとしてかなり巧くできてはいるものの、ありがちであるし、中盤以降、登場人物の中で、非常に登場頻度の少ない(と感じる)人物がいることは、普通の読者には明らかであるため、多くの人が予想していた展開ではある。
しかし二点目は、見えないパンチでテンプルを強打されたような衝撃を受ける。これについては、Amazonレビューで巧く解説されている。

本作の核にあるのは、叙述トリックなのですが、オーソドックスなものに加え、
もう一つ、叙述トリックそのものを逆手にとったテクニックが使われています。


普通、叙述トリックとは、「作中人物には自明のことを、
読者が気づかないように誤導していく詐術」のことですが、
本作のトリックは、それとは逆で「読者には自明のことを
作中人物の大半が知らないということを読者が知らない」
ために成立するものとなっています。

つまり、読者と作中人物、双方にトリックが用意されており、
結果的に読者には、二重のトリックが仕掛けらていることに
なるのです。

多くの読者はボタンの掛け違えをしたような違和感を抱えながら、
結末で初めて、作品の構造や作者の企みを理解することでしょう。

ハイレベルにトリッキーな叙述トリックで、これだけでも、この本を読んだ甲斐があった。巽昌章の解説に惹かれたこともあり、麻耶雄嵩は最近の作品も読んでみたい。

隻眼の少女

隻眼の少女

補足1

たまたま、読んでいた斎藤孝の本*1和辻哲郎の著作から能面について書かれた文章の引用があった。

…人の顔面において通例に見られる筋肉の生動がここでは注意深く洗い去られているのである。だからその肉づけの感じは急死した人の顔面にきわめてよく似ている。特に尉(じょう)や姥(うば)の面は強く死相を思わせるものである。このように徹底的に人らしい表情を抜き去った面は、おそらく能面以外にどこにも存しないであろう。能面の与える不思議な感じはこの否定性にもとづいているのである。
ところでこの能面が舞台に現れて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことが起こってくる。というのは、表情を抜き去ってあるはずの能面が実に豊富きわまりのない表情を示し始めるのである。…(『和辻哲郎随筆集』P25)

巽昌章が書いていた「言葉の細工物である本格推理小説」は、ちょうど、この文章で書かれる「能面」に当てはまる。
インシテミル」の能面はきらびやかな絵柄につくってあるも、それが動いたときのダイナミズムが圧倒的に不足していたのかもしれない。つまり関水の動機部分と、若菜?の「謎のお嬢様」という記号的キャラクターは、やはりおざなりなのではないか。
ただ、「動き」が大きくなる映画という媒体を考えてみれば、これくらいでちょうどよいのかもしれない。かといって、映画が大成功!という話も聞かないのだが・・・。

補足2

『螢』のの一つ目の叙述トリックに使われたストーカーの愛情(まるで自分の恋人のように思い込み、全てを知ろうとする)は、ちょうど裁判員裁判で話題になっていた、いわゆる「耳かき殺人」の話とダブって嫌な気分になった。ストーカーと純愛は紙一重であり、今回の裁判の裁判員の方は、相当に悩まれたのだろうと思う。

*1:斎藤孝の速読塾』:水道橋博士巻末解説。読書術の本として非常に刺激になります