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水嶋ヒロに教えたい巧みなタイトル〜那須正幹『ぼくらは海へ』

ぼくらは海へ (文春文庫)

ぼくらは海へ (文春文庫)

ズッコケ三人組で有名な那須正幹による30年前の作品。本の雑誌の増刊「おすすめ文庫王国」で紹介されていたので気になって読んでみた。
まず、この作品がいかに児童文学史上、重要な作品かについて、巻末であさのあつこが熱弁をふるっているので引用する。(引用部分ではないが、熱が入りすぎて、完全にネタばれしている部分があるのでこれから読む方は注意)

当時、この一冊はどのように世間に迎え入れられたのだろうか。どのように拒まれたのだろうか。
児童文学、子どもが読む物とは、健全で明るく生きる力に満ちたものでなければならない。そんな既成概念に凝り固まっていた世間には、この一冊は毒を含んだ異物でしかなかった……のではないだろうか。考え過ぎだろうか。でも、少なくとも、わたしは毒を感じた。児童文学という枠をひょいとまたぎこし、毒を含んだ危険なものとして屹立する存在を感じた。
毒すらなくて、どうして文学だなどと名乗れよう。那須さんは、『ぼくらは海へ』に毒を盛った。心にしみこみ、思いを掻き立て、人を狂おしく彷徨わせる毒だ。人間の残酷さを教え、生きていくことの無慈悲さを教える毒だ。ゆっくりと効いてくる。
(略)
明るくまっすぐなタイトル、冒険の予感をはらませて始まる第一章、次々現われる個性的な少年たち。誰だって騙される。誰だって(とくに、児童文学かくあるべしという論の大人たちは)ここから先にあるのは、少年たちが力を合わせ何かを成し遂げ、成長していく爽やかな物語だと思いこんでしまうだろう。
そんなものではなかった。
そんな優しい、無毒、無害の代物ではないのだ。この本は。
少年たちは、それぞれがそれぞれの重荷を背負う。子どもであるが故の困難と苦痛を望みもしないのに背負わされているのだ。那須さんは、その荷がどういうものであるか一つ一つ、丁寧に描き出す。それは、とりもなおさず、少年たち一人一人を丁寧に描き出すことでもあった。

そう、まずは人物造形がしっかりしていることが作品の魅力の一つとしてあげられる。だからこそ、この、あまりにもビターな物語を読者は何とか拒否せずに受け入れることができる。
児童文学、しかも、ズッコケ三人組の作者による作品だから、類型的な小学生達が繰り広げるドタバタ劇なんだろうと考えたら大間違い。同級生を恐れ、嫉妬し、軽蔑する負の気持ちまで含めて、人間が丁寧に描き出されている。


人物造形の拙さこそ『KAGEROU』に全く深みが出ない大きな理由であることは、以前書いた通りであり、今回の副題は「水嶋ヒロに読ませたい100の人物造形」とでもしようかと思ったが、ここでは、敢えて「水嶋ヒロに読ませたい」シリーズの題材として「巧みなタイトル」を挙げた。
以下、『ぼくらは海へ』という絶妙なタイトルと、この物語の魅力を、内容を紹介しながら書いてみる。

ぼくら

あらすじを読んでも、目次を見ても、この物語は、間違いなく「ぼくら」の物語といえそうだ。

あらすじ
船作りを思い立った5人の少年。それぞれ複雑な家庭の事情を抱えながらも、冒険への高揚が彼らを駆り立てる。やがて新たな仲間も加わるが―。

目次
第1章 夏のはじめ
第2章 ジャンボ・シーホース号
第3章 それぞれの心の中で
第4章 空色の帆
第5章 新しい仲間たち
第6章 風にのる船
第7章 嵐
第8章 ぼくらは海へ
エピローグ

しかし、最大のミスリーディングは「ぼくら」にあることは間違いない。
確かに、船作りに熱中する5人の少年が物語の中心に据えられている。5章に入り、新しい仲間も増える。
だが、彼らの思惑は一致するときの方が稀なほどであり、実際には、「ぼくら」=5人(5章以降は7人)ではない。
場面場面で、それこそ日替わりで、船作りに励む「ぼくら」は変わっていく。
むしろ、5人を表わす円が重なりあった非常に小さいエリアが「船作り」だと言えるくらい、5人の物語はバラバラだ。そりゃそうだ。のび太のための人生ではない。スネオにもジャイアンにも個々の人生があるのだから。
だから、序盤では船づくりも一過性のブームで終わりかける。

「あああ、一か月苦労して、ばかみちゃった。」
「おれたちだけで大きな船つくろうってのが、やっぱりむりでしたねえ。」
(略)
嗣郎には、わけがわからなかった。つい一週間まえまで、あれだけむちゅうになってつくっていた船ではないか。それをたった一週間やそこらで、こうもあっさり投げだしてしまうのか。
P94

ぼくらは海

つまり、「ぼくら」が目指すものは一致していない。
皆が目指すゴールは、船の完成でも、いかだでの航海でも何でもない。
鉄塔武蔵野線』が描きだしたモノへの執着は、ここには無い。船作りに熱中しながらも、友達関係や家族との関係が絶えず頭にある。
たとえば、船づくりに熱中しつつも、友だちづきあい重視の卑屈な嗣郎。

嗣郎にとって、勇や誠史や雅彰や邦俊は、なにか人種のちがう雲の上の人間たちのような気がする。そんな子どもたちと、こうしていっしょにすごさせてもらうだけでも感謝しなくてはならないのだ。
子どもたちには<できる子>と<だめな子>の二種類があると、嗣郎は確信していた。
(略)
そんな嗣郎が、まったくひょんなことから、<できる子>のなかでも最高のグループと、つきあってもらえるようになったのだ。
P96

そして、それとは正反対に、「みんな」思考の”新しい仲間”康彦。

いままでいいかげんにつくってきた船は、康彦の力であっというまに素晴らしい船に変貌した。
康彦は、連中から感謝され信頼されるのが当然ではないだろうか。
(略)
そうかんがえたとき、康彦は、自分がいつのまにか、このいかだを自分のもののように思っていることに気づいてはっとした。
いけない、いかだは誰のものでもない、みんなのものだ。
P214

そして、友だちの問題よりも家族の問題に悩み、母に反発する誠史。

そんなのへりくつだ。誠史は心の中でさけんだ。父親がいるとか、いないとか、そんなこと、いまのぼくには関係ないことだ。
ふいに誠史は思った。もしかしたら他人から感心されたいのは、母さん自身じゃないだろうか。自分の手ひとつで子どもを育て、いい学校にかよわせて、ああ、あのお母さんはりっぱな人だとほめてもらいたいんじゃないだろうか。
(略)
誠史自身、いままで母さんとおなじように、うんと勉強して城南中学にパスして、やがてはいい大学を卒業して大きな会社の社員になりたい。そして母さんをらくにしてあげたいというのが夢だった。
だけど、それがはたして誠史自身のほんとうの夢だったのか。ただ、母さんの夢を、いつの間にか自分の夢のように思いこんでしまったのではないだろうか。
P182

単にパターンを避けてみましたという以上に、同じ夢に向かって力を合わせるということ自体が、ファンタジーなのだと否定するような話のつくりになっているのは、作者の狙いなのだろうか。

ぼくらは海へ

「海へ」で終わるタイトルが醸し出す“宙ぶらり感”は、この物語全体から受ける印象ととても近い。
そもそも物語は、本の中でクローズしていない。そのことは、基本的には夏休みを題材にした話であるのに、物語のエピローグが9月の終わりであることからもわかる。ラストシーンでの独白*1は、楽しかった夏休みを振り返るものではなく、あくまで現在進行形の事実に対する迷いの吐露になっている。
小6の夏休みを、眩しい結晶のように描き出すのではなく、長い人生の中の単なる通過点として意識させる書きぶりは、大人である今の自分にも辛い。もし小中学生の頃に、児童文学として、この本を読んでいたら相当のショックを受けることは間違いないと思う。

あなたはどこへ?

さて、翻って、自分はどこへ行こうとしているのだろうか?この物語が怖いのは、結局、暗に「あなたはどこへ?」と問われているからなのだ。
つい先日、同期入社の友人が、会社を辞めることを教えてくれた。「俺は別の海へ行くことにした」という感じだろうか?
会社に入れば何とかなる時代は既に過去のものになった。これからどこに行くのかの決断を、ますます「ぼくら」は迫られているのだ。そういう時代の流れなのだろう。
小説を読んで、現実を逃避するつもりが、いつのまにか真正面から自分と向き合うことを強要されるような、そんな話だった。

参考

過去エントリのリンクを少し。
以前も書いたが、ズッコケ三人組は未読。那須正幹は自分にとって、傑作『ぼくらの地図旅行』の人だ。


また、同じ夏を舞台に少年?たちが冒険する物語のレビューはこちら。

そして、みんな大好き『KAGEROU』レビューと関連エントリ。

参考(那須先生のインタビュー記事)

2010年6月の文庫化の際の那須先生のインタビュー記事(『ぼくらは海へ』 (那須正幹 著) | インタビュー・対談 - 本の話WEB)がありました。これによれば、この話は、実話をもとにしているとか。

四十年近く前、僕が三十歳の頃の話です。当時僕は広島市の実家で父の書道塾を手伝っていたんですが、通ってくる子どもの中に、「今、船を作ってるんだ」という小学六年生の男の子がいました。
誘われて太田川の放水路に見に行ったら、建築用のコンパネを貼り合わせた一人乗りの小舟で。「浮かべてみたけど水が漏るんだ」と不機嫌そうに言いながら、彼は仲間と一緒に黙々と隙間をパテで埋めている。その光景が非常に印象的でした。


なお、これによれば、大人におすすめの本は以下の3作だとのこと。『ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド』以外は未読なのでチャレンジしよう!

まずは『屋根裏の遠い旅』。短篇集の『ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド』。それから、『さぎ師たちの空』。これは我ながら快作ですよ。

*1:ラスト1文→そして、もしかしたら、自分だって、彼らとともに冒険の旅に出発できたのに、という小さな胸のうずきとともにかんがえるのだった。