Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

重松清『カシオペアの丘で』×キリンジ「小さなおとなたち」

カシオペアの丘で 上 (講談社文庫)カシオペアの丘で 下 (講談社文庫)BUOYANCY

風吹け吹けぴいぷう吹け
頬を打て
樹々を揺らせ
浮かぶよ さあ 雲まで
小さな街の
小さな家の
小さな大人たち
(「小さなおとなたち」from キリンジ『BUOYANCY』)

重松清の『カシオペアの丘で』は、奇しくも、少し前に読んでいた那須正幹『The End of the World』と被るが、小学生時代の仲間が30年ぶりに、北海道の“小さな街”である北都*1集まるという話がベースになっている。
それぞれに家庭を持ち、あるいは持たずに仕事に邁進する40歳の“おとなたち”4人が、冬の北都に意図せざる理由で集まり、そこで「再会と贖罪の物語」が進んでいく。
タイトルにある「カシオペアの丘」は、昔は炭鉱都市として栄えながらも、今は人口が3万人を割り衰退が進む北都にある小さな遊園地の名前。ちょうど通勤電車のお供としてヘビーローテーション中だったキリンジ『BUOYANCY』のラストを飾る「小さなおとなたち」も遊園地*2を題材にしていることもあったが、全体の空気に共通する部分を感じ、離しては語れない2作品となった。


もともと、この本は“スゴ本”の「がんを考える、自分事として、「カシオペアの丘で」」というエントリで知ったので、自分は「癌の本」を読むつもりで読み始めた。実際、主要登場人物(小学生のときのあだ名で、ミッチョ、トシ、シュン、ユウちゃんの4人)のうちで一番スポットライトが当たるのは、肺の悪性腫瘍を告知されたシュンで、その読み方は正解だったのだが、読み進めると、シュン以外の登場人物たちも、物語のテーマ上、欠かせない役割を持っていることが分かってきた。
つまり、『カシオペアの丘で』は、一人を中心にした物語ではなく。孤独や寂しさ*3を抱えた「小さなおとなたち」がつながり合う物語だった。話の中では、このことが星座に喩えられている。

命の星が、いくつも夜空に輝いている
もうすぐ終わってしまう命がある。それを見送る命がある。断ち切られた命がある。さまよう命がある。悔みつづける命がある。重い荷物を背負った命がある。静かに消えた命もある。その命が消えたあとの暗闇をじっと見つめてきた命もある。そこから目をそらしてしまった命もある。身を寄せ合う命がある。孤独な命もある。満たされた命はない。どの命も傷つき、削られて、それでも夜空に星は光りつづける。(略)
夜空に光っているものは、生きている星だけではない。すでに息絶えてしまった星も、最後の瞬間に放った光が地球に届くまでは、輝きだけ、夜空にのこる。
下巻P262


そして、作品の最も中心になるテーマは「ゆるす」「ゆるされる」ということについて。
シュンには、北都という街に、封印していた過去の痛み=ゆるしてほしい思い出があり、その他の登場人物も、大なり小なり同様の痛みを抱えている。中でもやはり心を捕えたのは、4人以外の主要キャラクターである「川原さん」。川原さんは、小学一年生の一人娘を、ショッピングセンター内で失くしてしまう。目を離した隙に見知らぬ男に連れて行かれ、駐車場の6階から突き落とされたのだ。*4さらにこの後、川原さんを襲う悲劇は、ネタばれになるので具体的には伏せるが、相当に辛く、しかし現実に起きうると思わせるものだ。
子どもを亡くした親(川原さん)と、子を残して死ぬ親(シュン)との対比でも、それだけで物語になりそうなのだが、この後の川原さんの「悲劇」があるからこそ「ゆるす」という作品テーマが際立つ。
「ゆるす」ことは「納得する」こととは異なる。あやまちや反省を認める相手の言葉を納得できなくても受け入れることが「ゆるす」ということだと、川原さんは考える。(下P144)そして、それはそのまま癌という病気をどう受け入れるかという話にもつながっている。

これは自殺なのだ。心が選んだものではなくても、僕は自ら死んでいくのだ。意図せざる自殺ではあっても、せめて、覚悟の上の自殺ではありたいと思う。その覚悟を決める時間を、ガンという病気は与えてくれるのだ。
上巻P283

シュンは、ウイルスや細菌がもたらす病気ではない癌を「意図せざる自殺」と位置づけて、こう考える。
しかし、シュンが語る言葉を聞いた川原さんやユウちゃんにすぐに諭される。シュンの話には家族のことが出てこない、残される側の気持ちも考えるべきだと。
だからこそ、自分事として考えるべきなのだ。
40歳で小学4年生の息子という親子の関係は、ちょうど4年後の自分とも近い。“スゴ本”では、「子どもに死を教える3冊」の紹介もある。自分も子どもに教えながら、死について考えておきたい。
定期健診も、次回はオプションを申し込むことにしよう。

再び「小さなおとなたち」

1番の“小さな街の小さな家の小さな大人たち”、2番の“小さな街の小さな夢が小さな溜め息に”という歌詞は、高いところから降りていくような視点の移動を伴う。それによって、どこにでもいる、(少し非力な?)「小さなおとなたち」の「小さな溜め息」が、聴く人それぞれの、「溜め息」になってしまった「夢」と重なり合う。
歌は“明日(あす)があるさ/明日(あす)があるさ/あしたがある/またあした”と、希望を持つというよりは、先延ばしにするような雰囲気で終わる。“この世のすべては移ろう/今は今だけさ”“一度きりの命に「こんど」はないのさ”と軽やかに歌い切る一曲目「夏の光」のハイな感じと対になっているが、両方あってこそ人間ということだろう。
ただ、「小さなおとなたち」は、厭世的な雰囲気をまといながらも、「強さ」を持った歌でもある。
「小さなおとな」である自分にとって『カシオペアの丘で』と切り離せない曲でもあり、また月曜日から頑張って仕事をしよう、そして明るく生きて行こうと感じさせる、日曜に聴くべき、自分への応援ソングだ。

「ふるさと」について

上では触れられなかったが、『疾走』ではよく分からなかった重松清の「ふるさと」へのこだわりは、今回は、少し分かった気がする。自分の生まれ育った場所という以上に、“過去の思い出”(と向き合う場所)という要素が強いのだろうと思う。つまり、それ抜きでは自分の人生が成り立たないもので、逃げてはいけないし、逃げられないものなのだろう。重松清という作家自身のテーマなのかもしれない。

*1:北都は架空の町で、同じ北海道の芦別、夕張をモチーフにしているそうです。

*2:「小さなおとなたち」は、「カシオペアの丘」には無い、観覧車やジェットコースターを題材にしている

*3:あとがきでは、「孤独」について、重松清が、草野心平の詩の一部を引用している。「みんな孤独で。/みんなの孤独が通じ合う確かな存在をほのぼの意識し」(『ごびらっふの独白』)

*4:最近現実に起きた熊本の事件と状況が似ているが、こちらも辛い事件だ。