Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ひとりひとりの「白熱」がある!〜歌詞から見たオリジナル・ラブ『白熱』論

白熱(初回限定盤)(DVD付)

白熱(初回限定盤)(DVD付)

一般発売は7/27となっているオリジナル・ラブ『白熱』ですが、自分は7/9のクアトロライブの先行発売で入手できたので、その感想を書きます。
今回は、歌詞のみに絞って『白熱』について4つのキーワードから語るエントリになっています。長文ですが、一言でいえば、傑作だということです。

悲劇とスマイル

終わりのある愛は悲劇じゃないわ。終わりのない愛こそ悲劇なのよ。
(シャーリ・ハザード)

アルバム「白熱」では、終わりのない愛については歌われていない。つまり、悲劇について歌われていない。歌詞の面から考えた場合、それがオリジナル・ラブのこれまでのアルバムとの大きな違いになる。

  • 今も続いているふたりの関係について語る「春のラブバラッド」「海が見える丘」「好運なツアー」
  • 昔のことに思い出しながらも、新しい人との出会いに思いを馳せる「カミングスーン」「バイク」
  • 仲が良かった「あの頃」の関係について語る(それが終わったかどうかは分からない)「ふたりのギター」
  • 上に挙げた曲のように過去については触れずに現在進行形の恋愛を歌いあげる「ハイビスカス」

勿論、曲調もそうなのだが、アルバム収録曲のほとんどが、明るい雰囲気を持っている。
『街男街女』も『東京飛行』も、後ろめたかったり、手に入れられないものを追いかけたり、上手くいかないことを歌うことが多かった。
しかし、『白熱』では、男女の関係も含めて、自分をかたちづくってきた全ての出会いと別れを肯定的に捉えて、何よりも今を大切にしようとしている。だから、苛立ちが全く見えず、その代わりに「スマイル」(春のラブバラッド)が伝わってくる。*1


勿論、田島貴男のプライベートに何かしらの変化があった可能性もあるが、そういう“気分”なのだろう。悲恋の歌があまり好みではない自分にとっては、このアルバムが聴きやすい一番の理由だ。

映画と身の丈

「ことば」には、
「からだ」に繋がっている「ことば」と、
「からだ」に繋がっていない「ことば」がある。
きっと「考え」もそうなのだ。
「からだ」に繋がっている「考え」と、
「からだ」に繋がっていない「考え」があるのだろう。

ここで田島貴男が書いているのは、以前も「身の丈」という言い方をしていたものと同じだろう。
自分なりの解釈でいえば、それは、日々の暮らしを、ことさらにドラマチックに取り上げるのではなく、日々の暮らしのままに取り上げる「ことば」。
それは、ギャングやヒーローが出てこない歌詞。


『街男街女』『東京飛行』では、日々の暮らしに着想*2を得ながら、それを映画のように切り取ってから膨らませて見せた。
バベルの塔または火星での生活での映画から読み解く「東京 飛行」論 (SWEET SWEETさんの寄稿)の分析は、なるほどと思って読んだが、ジャケットで日活映画のスターを気取って見せた『踊る太陽』あたりから、映画を意識した傾向が強まっていたようにも思える。


今回の『白熱』では、そういった過去作品と比べて、田島貴男が作品の提示方法を変えてきているように思う。その結果として、歌詞が大きく変わったのだ。
つまり、『東京飛行』では、田島貴男が届けようとしたのは、作品の方で、自身ではなかった。
田島貴男は映画監督であったが、あくまでも監督は作品の裏方に徹した。
つまり、田島貴男の日々の思いは、そのまま伝えられることがなく、「映画」作品とすべく、誇張したり、何かに喩えたりして、過度にドラマチック(狭い意味で映画的)に仕立てられていた。
だから、歌詞の登場人物も三人称の「男」が多かった。「ぼく」「俺」が出ていても、ステージ衣装をばっちり決めた、映画スターのような人物だった。


しかし、今回は、映画のような作品を届けようという意思は感じられない。ライナーの写真を見ても過去作品との違いは明らかで、『白熱』のライナーは”無防備”である。
全編を通じて完全に何かを演じようとしている『東京飛行』や、ジャケ写をはじめ、デザインとしての酒の多用で、作品としてのコンセプトを強調した『街男街女』のような、”完全武装”な雰囲気とは全く異なる。
歌詞の中でも、バイクや自転車が登場しても、何かの比喩というよりは、単に田島貴男が面白がる対象としてのそれであり、あまり難しい比喩が出てこない。*3
結果として、これまでのアルバムで最も、聴く側が、田島貴男を身近に感じるアルバムとなっている。田島貴男が作り込んだ物語を解釈する必要はない。


これも結局、好みの問題だが、両者を聴いてみると、田島貴男には『白熱』のような方法が“合っている”と思う。
ジェンダー」が詰め込みすぎであること*4は、以前書いたとおりだが、『踊る太陽』あたりから、一曲一曲で肩に力が入りすぎていたように思う。「がなる」歌い方は、そういった歌詞の傾向と表裏一体であったのかもしれないし、そういった歌詞は、田島貴男流にいえば、身の丈を外れていたのかもしれない。
また、比喩や論理を重ねたものよりも、結局「遊びたがり」などのシンプルなものが人気があり、その後のライヴでも演奏されているところを見ると、やはり、詰め込み度が高いものは、ノリにくいのだと思う。「カフカの城」は、好きな曲だが、ライヴでは音楽に乗れても、歌詞には乗れない。


決意表明に満ちたアルバム

20周年というタイミングで、4年半のブランクのあとに(インディーズで)出た、このアルバムには、地味ながらも決意表明に満ちている。
そもそも、今回のアルバム収録曲には共通するキーワードが複数あるが、目立つのがやはり「新しい」で、「バイク」「カミングスーン」「春のラブバラッド」「あたらしいふつう」の歌詞に含まれている。
いつも以上に過去を振り返りながらも、前向きな印象を受ける理由のひとつだろう。
そして、もっと具体的に言うと、オリジナル・ラ「ブ」としての再始動に当たり、過去を総括しつつ、決意を表明しているように受け止めた。

  • いくつかの時代の曲を胸いっぱい溜めて誰も知らない道の先へ行こうとしていたあの頃(ふたりのギター)
  • やがてスタンダードになるはじめの一歩を踏み出せ今こそ(あたらしいふつう)
  • 自由に走るライド自由に走るルート 誰のペースにも振りまわされたくない(フリーライド)


このうち、「ふたりのギター」のフレーズが面白い。これこそ、オリジナル・ラ「ヴ」が、いつも目指していた音楽であるからだ。「ふたりのギター」という曲の面白さは、こういう時代の自分を特に否定しないところ。(肯定もしない)
それを諦めたわけではないし、今回のアルバム自体が、それとはタイプが異なるけれども、どっちも田島貴男の中にあるということを感じさせる歌詞だ。


そして「スタンダード」。勿論「あたらしいふつう」は、これからの暮らし・生き方について歌った歌だから、音楽とは無関係と見る人もいるかもしれない。しかし、あえてこの言葉を選んでいるところから考えると、やはり、「スタンダード」を目指すという宣言として捉える方が自然だと思う。*5


最後に、アルバムの「顔」となった「フリーライド」。
これはつまり、メジャーレーベルに属さずに、自分ひとりで、まずは始めてみるという決意表明で、今回のアルバム初回版に3バージョンも収録され、先日のクアトロでもYoutube解禁対象として選ばれているのもそれが理由だと思う。ライブ(ひとりソウルショウ)だけでなく、アルバム一枚をひとりで作ることができるという新たな自信を得て、田島貴男は、人に頼らずに音楽をやっていける*6という意欲に満ち溢れている。
そして、このアルバムを聴くと、田島貴男の再始動は成功している、と確信できる。

ひとりひとりのソウルショウ

上で“非”映画的と言ったばかりではあるが、『白熱』の複数の楽曲に共通するキーワードとして「ストーリー」がある。「海が見える丘」では“それは偶然が連なりできてゆくストーリー”、「カミングスーン」では、「ドラマは終わりじゃない」と歌われている。つまり、人生のことだ。


『白熱』の楽曲が描くストーリーは、二つの意味で開かれていると思う。(ここからは上で述べたことの繰り返しになる)
まず、第一に、物語が閉じていないということ。
上でも言及した通り、「ふたりのギター」は、全部を言い切っていない。
そして「カミングスーン」は、(ずばり、ドラマは終わりじゃないという歌詞もあるが)“自然体だったキミを”“抱きしめたかったキミを”具体的にどう思っているのか、どうしたいのか示されていない。つまりわざと、物語を閉じずに尻切れトンボにしてある。これは、そのまま次の話につながる。


第二に、たとえば過去曲でいう「或る逃避行」のように、世界観が作りこまれ過ぎていないこと。こういう曲は、ハマればいいが、そうでない人には敷居が高い曲で、一見さんお断りな雰囲気が漂う。『白熱』は、敷居が低く、聴く側の誰もが、歌われている内容を自分の人生に置き換えることができる。聴く側に開かれている楽曲だと思う。


たとえば、長く連れ添った夫婦の愛を歌ったように見える「海が見える丘」は、「きみ」を同性の親友に置き換えることができるし、そのほかの楽曲も、聴く側が自然に自分の人生を振り返ってしまうような曲ばかりだ。(個人的には、オリジナル・ラブのファン人生を振り返る聴き方がハマる笑)
ツアー「ひとりソウルショウ」で、田島貴男が観客に向けて言っていた「ひとりひとりのソウルショウ」というのはそのことなのかもしれない。


田島貴男の求めるポップスは老若男女、誰もが好きになる音楽だが、上に書いた理由で、今回のアルバムは、20代よりも30代、30代よりも40代の人の心に刺さるアルバムだと思う。、


〜〜〜
書き足りないこともあるような気もしますが、続きは改めて。
・・・と、書いてすぐに書き忘れを思い出しました。

補足

アルバム発売前に一番注目していた「あたらしいふつう」〜「好運なツアー」の流れだが、震災についての言及は最小限にとどめられていて、これも、上で書いたように、聴く側によって、いろいろな受け止め方ができる歌詞になっていると思う。ただ「あたらしいふつう」で歌われている、(やがてスタンダードになる)“あたらしいふつう”が具体的にどういう生活なのかは、少し気になった。
こじつけだが、このアルバム自体が、それを示しているように思う。つまり「腹六分」。ここで歌詞の面から絶賛したものの、演奏面も含めると、このアルバムは「白熱」のポテンシャルを全部引き出していないと思う。それでも、完璧を求めすぎない、生活の質を求めすぎない、というあたりが“あたらしいふつう”なのかな。(そこらへんも考える余地を残しているのは正解だと思う。)

*1:例外は、「セックスと自由」の”自由脅かす奴とドッグファイト”くらいか

*2:『街男街女』のときは、街に暮らす普通の人々を歌いたいということを語っていたように思う。

*3:例外は「セックスと自由」。この曲は、歌詞という意味では、アルバムの中で浮く。しかし楽曲としては、欠かせないアクセントになっている。タイトルには疑問符が未だについているが・・・

*4:いま読み返すと、そこまで明確には書いていませんでした。歌詞カードを読むと良いんだけど歌の中では伝わらない、つまり言いたいことを詰め込み過ぎている弊害だと思います。→http://d.hatena.ne.jp/rararapocari/20070123/OL

*5:逆に、標準的な生き方という意味のみで「スタンダード」を使っているとしたら、「あたらしいふつう」をわざわざ言い換える必然性に欠けると思う。

*6:自分は、これまで、田島貴男は他の人に頼るべきというスタンスだった。通常のミュージシャンがとる解決策もそうだったと思う。しかし、音楽業界の状況と、田島貴男の技術が、通常とは違う方法で突破してしまったように思う。