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本当は兄弟だったアナンダとダイバダッタ〜手塚治虫『ブッダ』(8)

ブッダ 8 (潮漫画文庫)

ブッダ 8 (潮漫画文庫)

この巻の後半部から第5部となり、アナンダが登場する。アナンダと悪魔について、解説で夏目房之介が以下のように書いている。

(アナンダにとりついた悪魔は)いささか卑小にすぎる悪魔であるが、いかにも人間的で可愛いといえばいえるわけで、悪魔というより悪魔のパロディとでもいうべき者であった。これに比べれば教団を「近代化」して奪権しようとしたダイバダッタのほうが、はるかに「悪」の迫力があった。ただ、ダイバダッタの話には(ひょっとしたら73年の虫プロ倒産などの体験があったせいか)ヘンな生々しさがあって、読んでいてうっというしい。「ブッダ」は全体にファンタスティックな軽さがなく、それが妙な重さを感じさせるが、あるいは手塚自身その部分が気になって悪魔とアナンダの話を入れたのかもしれない。

「全体にファンタスティックな軽さがなく」という部分は、この前に読んだのが『アドルフに告ぐ』だったからか、ほとんど感じないが、アナンダとダイバダッタの比較については、まさにその通りだと思う。
特にダイバダッタの話は、やはり背後に実体験がある可能性を疑ってしまうような迫力がある。一方で、アナンダのような大悪党*1を弟子として重用するというのは、ブッダの生き方を見せるためにとても効果的だと思うし、250人殺した人の悩みという、非現実的な悩みだからこそ、安心して共感できる。(逆に、現実的・功利的な思考展開をするダイバダッタというキャラクターは読んでいる人を不安にさせる。)
なお、漫画『ブッダ』の関連資料を見ると、二人は異父兄という扱いになっている。改めて見返してみると、確かに二人の母親はカピラヴァストウ出身で同じ容姿をしているが、文庫版では、同一人物であることは明記されていないように思う。実際に、もともとの仏典では、この二人は兄弟であるという話だが、いかにも漫画的な、この設定を手塚治虫が敢えて活かさなかったのは何故だろうか。少し不思議に思った。


この巻の前半部では、ブッダが鹿相手に教えを説くシーン、ルリ王子との運命の出会い、デーパを輸血によって救うシーンなどがある。
前半部の説教シーンでは「自己犠牲」と「正しく生きること」について語られる。

おまえたち鹿よ
おまえたちは自分が生きていくために
自分のことの心配しかしていない
だけどそれはまちがいなのだ
自分が生きていくためには
他人が生きていく手伝いもしてやりなさい
それがきっと自分の一生にむくいられてくるはずだ
p68

わざわいからのがれるには8つの正しい方法がある
それは
正しく見
正しく思い
正しく話し
正しい仕事をし
正しくくらし
正しくつとめ
正しく祈り
正しい生涯を送ることだ
私たち生きものは なにも悩んだり苦しんだりして
一生を過ごしているんじゃない
p71

これらの説教は、悩みを消すためには「心を閉じる」と教える説教に比べれば非常に受け入れやすい。それは、(当然なのだが)生きることを肯定しているから。ブッダの悩みは、差別に端を発し、生と死の理不尽に直面したことが出家の決意に繋がっている。修行者ではなく、普通に暮らしている人たちが、どう生きていけばいいのかを考え続けたということなのだろう。つまりは、自分(修行者)のためではなく、他人(そして鹿や牛)への教えを何より大切に考えていたということなのだろう。

*1:アナンダは仏典に登場するが、大悪党ではない。漫画『ブッダ』でのアナンダは、アヒンサー(アングリマーラ)をミックスさせてキャラクター設定をしているそうだ。