Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

キリンジ『祈れ呪うな』の歌詞の解釈について

前回エントリは歌詞の具体的内容について全く書かなかったので、少し歌詞の解釈についても書いておきます。
作詞の意図については、コロムビアの頁で堀込高樹本人が書いているので、まず、こちらを丸ごと引用します。

菜っ葉の一束さえ気軽に買えない世の中になってしまいましたね。
福島原発の事故の日以来、政府や東電への腹立ちと自分がこれまで原子力発電の危うさを知っていながら「まあ大丈夫じゃないかな」と高を括ってきたことへの後ろめたさ、世の子供達への申し訳ないという気持ち、これらが混じり合った嫌な感情が大きくなったり小さくなったりしながら、何時も心のどこかにあります。
原発の話題を扱うメディアで“神の火”とか“触らぬ神に祟りなし”とか“安全神話”とか、“神”という字をしばしば目にします。
果たしてあれが神なのか悪魔なのか、責任が誰にあるのか、正しい情報はどれなのか等、やいのやいの言ったところで、事故というヘヴィな現実の前にはそういった議論が言葉の遊びのように感じられてしまう。
一方で「福島原発事故の行方は現場の作業員の人々の働きに懸かっているのだから、こうして馬鹿一人が気を揉んでいても、どうにもならないではないか。ならば、自分は彼の人々の無事と事故の収束を祈るより他ない、誰かを呪って精神の衛生を崩すようなことはやめよう」というようなことを考えたりもします。そういうわけで、自戒も込めたこんな曲が出来ました。

長々と御託を並べましたが、こちらサウンドのほうは、謎のエスニックムードを漂わせつつ、力強いシャッフル・ビートにギター(いつもよりキビしめに歪ませております)が絡む古臭ロックとなっております! 

歌詞を引用しだすと全部になるから一部にとどめますが、やや理解しにくい部分は上の記事でほとんど理解できます。


まず一番の歌詞を記事内容に無理矢理対応させると以下の通りです。

「トゥギャザーしようぜ、土下座させようぜ」って
 (→政府や東電への腹立ち)
知ってたくせに騙されたとわめくか
 (→自分がこれまで原子力発電の危うさを知っていながら「まあ大丈夫じゃないかな」と高を括ってきた)
やましさのタトゥー刻みつけて
 (→後ろめたさ、世の子供達への申し訳ないという気持ち)
とこしえに墓場まで背負っていくパレードよ

勿論、原発に対する接し方は人それぞれで、原発の地元に住んでいる方もいれば、一貫して反対運動を続けていた方もいるわけですが、深く考えずに恩恵を受けていた都市住民は、皆が今回の事故に対して似たような気持ちを抱いたのではないかと思います。高樹が何度も書いている「自戒」がこの辺に露骨に出ています。


なお、この歌では「神」「荒ぶる神」は、原子力発電所の喩えで「コントロールできないもの」という意味で出てきますが、だからこそ2番の歌詞は響きます。

地獄の釜を炊く神の火で
仕事は増える 暮らしは潤う
それは昨日まで信じてたデイドリーム
起きろよ ラララ アトムの子らよ

アトムとは、まだ人間が原子力を完全に制御できると思っていた頃の夢でした。そして、原発があれば、地元自治体は安心だというのもやっぱり夢でした。
3.11以降、現実を直視し、目を覚まさなければならなくなりました。いわゆる安全神話は崩れたのです。稼働を継続するにしてもリスクを直視し、万全の対策が必要です。


さて、サビの「祈れ呪うな」の意味も、上の記事で理解できます。ここでの「呪う」は、事故を呪うのではなく、「誰かを呪って精神の衛生を崩すようなこと」を意味します。つまり、原発以前にはなかった、ギスギスした空気、誰かが誰かを呪う空気に対してNOを突き付けたいというのが一番のメッセージなのでしょう。
その点では、「あたらしい友だち」と根っこは一緒の歌詞のように思います。

  • 優しさを大事にしたい気持ちのあらわれが「あたらしい友だち」だとしたら
  • 優しさに欠ける現状を憎むのが「祈れ呪うな」なのではないか

と思うのです。


「水が甘い/水が苦い」についても、ややわかりにくいですが、放射線量を巡り「菜っ葉の一束さえ気軽に買えない世の中」について言っているのだと理解しています。実際、こっちの野菜は汚染されているけど、こっちの野菜なら大丈夫だ、なんていう情報が今も飛び交っているわけですから。(追記:斉藤和義の「ずっとウソだった」に「この街を離れて、うまい水見つけたかい?」という歌詞があることに気が付きました。対応しているのかもしれません)*1


さて、最後の「千年に一度だけのフェスタ」は難解です。
通常の解釈は、「千年に一度の津波」、つまり「想定外」だった故に今回の事故が起きてしまったという東電の説明に対する皮肉、ということになるのかもしれませんが、そうしてしまうと「祈れ呪うな」のテーマ(他の誰かを呪わない)と合致しないように思います。
また、前の歌詞との繋がりから、そっちは水が甘い/あっちは水が甘いと右往左往している状況について、千年に一度の騒ぎだと俯瞰して言っているようにも聴こえますがあんまりです。
一番のラストの歌詞「とこしえに背負っていくパレード」などとも呼応させて考えると、今が異常時であるということを、千年に一度の非常事態が継続しているということを言いたかったのではないか、というのが、今の自分の解釈です。また、そこらへんのことは曖昧にさせたまま、聴いた人がギョっとする効果を狙っているのかもしれません。人によっては不快感を覚えるであろう表現だけに、納得できる解釈があるとスッキリできますので、誰か教えてください。


今回、改めて聴いてみて、「祈れ呪うな」と「あたらしい友だち」は、全くタイプの異なる名曲だと思いました。
「祈れ呪うな」は誤解を生みやすい部分もあるかと思うので、疑問に思った人の理解の助けになればと思い、簡単に歌詞のポイントについてまとめました。誤りや不足事項等があれば、随時修正していこうと思います。


⇒つづき:内田樹『呪いの時代』で読み解くキリンジ『祈れ呪うな』と大今良時『聲の形』(2013年2月)

*1:コメント欄でヨハネの黙示録の「ニガヨモギ」(チェルノブイリ)に対応しているとのご指摘がありました。