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他人事ではない〜石川結貴『ルポ子どもの無縁社会』

ルポ - 子どもの無縁社会 (中公新書ラクレ)

ルポ - 子どもの無縁社会 (中公新書ラクレ)

人間とは、他人との関わり合い(社会)の中で何かの役割を持って生きていくから人間(人の間)というのであって、無縁社会という言葉は、その人間が社会と切れてしまうことを問題にしている。「子どもの無縁社会」というタイトルが生み出す奇妙な感覚は、そもそも、子どもは、まだ「社会的な存在」にはなりきれていない(無縁ではなく未縁)という部分にある。
しかし、逆に言えば、子どもこそ、親という数少ない社会との絆を頼りに「社会的な存在」に育てていくべきものであり、そのスタート部分に問題があれば、すぐに「無縁」な存在となる(もしくは未縁のままになる)ことを意味する。つまり、子どもを無縁にするのは大人である。
この本では、まず、学校、家族との縁が切れた子どもたちをとりあげる。虐待の自覚がある親以外は“他人事”の社会問題として読める部分だ。
しかし、後半部は、「頼れる人がいない」親世代と、昔より「友だち関係がよそよそしい」子世代の日常的な問題をとりあげ、背筋が寒くなるような現代日本の厳しい部分が描かれる。

社会問題としての「子どもの無縁社会

横浜で小中学生84人行方不明(読売新聞5.19)
横浜市内で、学校が1年以上も居場所を確認できない小中学生が計84人に上ることが、同市教育委員会への取材で明らかになった。
市教委は、多くはドメスティック・バイオレンス(DV)から逃れるため、保護者とともに居場所を隠しているとみているが、「学校が家庭問題に介入する権限がない」として、追跡調査を行っていないのが現状だ。
大阪府富田林市では先月、男児(9)が小学校に全く登校せず、数年前から行方不明になっている問題が発覚している。市教委学事支援課が、文部科学省へ報告する学校基本調査のデータ「居所不明児童・生徒」としてまとめた。同課によると、5月1日現在、住民票が横浜市内に登録されているにもかかわらず、理由不明のまま1年以上も通学せず、所在不明となっている小学生は54人、中学生は30人。

住民票を残したまま一年以上所在不明となり、その後の就学が確認されない子どもは「居所不明児童生徒」と呼ばれ、H23年度には1183人に上る。*1
これについて、「第一章 学校から消える子どもたち」で扱われるが、教育委員会など教育行政ができることには限りがあり、居場所をつきとめようとすればすぐに個人情報保護の壁にぶつかる。結果として「子どもを新しい学校に通わせるのも、消えたままにしてしまうのも親の自己責任、あくまでも親任せ」になるのだが、その親自体に不安定な就労形態などの問題を抱えている。
さらに問題なのは、その親に虐待を受けている場合(「第二章 虐待家庭が見つからない」)。この場合、児童相談所の管轄となるが、この場合も行政間の連携がしにくいという問題があり、住民票がない家族は全く追跡できないことも多い。「はじめに」で挙げられた、映画『誰も知らない』の元となった豊島区の事件では、4人の子どもは全員出生届が出されておらず、追跡対象そのものを誰も知らない状況にある。
その究極の状態が「第三章 名無しの命」で扱われる、子どもの無縁仏だろう。そういった子どもの命を救うための「赤ちゃんポスト」(こうのとりのゆりかご)についての検証報告書には、うなずく部分もある。

ゆりかごというシステムが必要となった社会的背景には、現代社会において「核家族化」や「地域社会のつながりの希薄化」が進むにつれ、血のつながった実の親や親族だけでは育児ができにくく、「子育て家庭が孤立化している状況」がある。p148

現代日本に暮らす僕らを不安にさせる「子どもの無縁社会

「第四章 ネットで出会い、リアルで孤立する親」も、冒頭はネトゲに熱中して育児放棄をしてしまう親の話で、妊娠の事実に気づいたときの母親の落胆ぶりを示す発言などは、笑えてしまう。

子どもがほしくなかったわけではないけど、今は時期がマズイなと。ちょうどゲームが佳境で、これから必死にがんばらなくちゃというときだったんです。攻城戦といって、仲間と一緒に自分たちのお城を守ったり、他のギルドが作ったお城を奪ったりする戦いを繰り広げるんですが、私はギルドマスターとして責任があった。そんな状況で戦線離脱するわけにはいかないと悩みました。p176

しかし、後半部以降は一気に他人事でなくなっていく。ママ友から受けたネットいじめで孤立化し、子育てを相談できる人や子ども同士を遊ばせながら話ができるような人間関係がまったくなくなってしまった母親の話は、誰にでも起きうることだろう。母親と子どもがべったりで暮らす、通園前の時期は、どうしても実社会とのつながりが切れやすくなるのは、我が家を見ていてもわかる。さらには地方の郊外部などの車社会で運転免許を持っていないなど、条件が重なると孤立は深まる一方である。


さらに「第五章 我が子は無縁にならないか」では、現代日本社会の嫌な側面が見えてくる。

  • 子どもの遊び声に対する苦情、それによる学校や保育での活動が制限される
  • 小中学生が地域の大人との関わりがほとんどない
  • 子ども同士での遊びも自由にできない
  • 親は遊びに来た子どもの友達に対して、うっかり叱ったり世話をしたり出来ない
  • 他社とどう関わればいいか分からない子どもが急増している

子どもの持つ負の面がクローズアップされ、大人社会が子どもを育てるという感覚は無い。「おわりに」で挙げられている事例がとても印象的だった。ある企業の社宅風景の10年を経た定点観測だ。

  • 90年代半ば:社宅前の駐車スペースに大きなビニールプールを用意し、社宅の子どもたち全員で水遊びをする。準備、片付け、監視役は、親が交代で行う。
  • 2000年代:他の家に気を遣うからと「共用プール」は消滅。家ごとに小さなビニールプールを並べて、子どもたちは別々に遊ぶ。
  • さらに5年後:共用の場所を個人で使うのは不公平という意見から、ビニールプールそのものが消滅。

このように、協力や共用よりも個人の主義主張を尊敬するおとなの都合で、子どもたちは繋がりを失っている。


最後に作者はこう書いている。

今、手の届くところに真に助け合える誰かがいるかと問われたら、私も、おそらく息子たちも「はい」とは言えないように思う。少なくとも私は、いずれ我が子が無縁になるのではないか、そんな暗い予感をぬぐいきれずにいる。p237

この本には、「子どもの無縁社会」に対する明るい未来は示されず、二人の息子を持つ作者は、これからも不安な将来を取り除くために、おとなは何をすべきかを考え続け、取り組みたいとしている。自分自身も、小学二年生のよう太を見ている中で、社会や友達とのスムーズな関わりを持ちづらそうだと感じることも多く、この本の問いかけは決して大袈裟なものだとは感じられない。昔は、教育ママや教育パパなどと言う言い方で、親の過干渉は否定的に捉えられていたが、こんな時代だからこそ、子どもたちの社会感覚を身に付けさせるために、やはり親が手を出し、口を出し、さらには親からの逃げ道も用意するくらいのことをしていく必要があるのかもしれないと思った。

*1:グラフを見ると分かるのだが、H23年から大幅増となっているのは調査が厳密に行われるようになったから。