Yondaful Days!

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ロンドン五輪が楽しみになる一冊〜小川勝『10秒の壁』

ウサイン・ボルトヨハン・ブレークの同門対決が期待されるロンドン五輪の100m。
ボルトが持つ世界記録は9秒58(2009年8月16日世界選手権男子100m決勝)。
これは、国際陸連が初めて公認した世界記録である1912年ストックホルム五輪の10秒6から、100年間で0.1秒縮めている計算になる。
そういった100メートル走の歴史を辿りながら、記録の更新の背景にあるものを探ったのが、この『10秒の壁』(副題は「人類最速」をめぐる百年の物語)だ。

タイトル

読み終えてから気が付いたが、これが『9秒5の壁』というタイトルなら全く違う意味合いの本になっていた。というのは、未達の記録をタイトルに持ってくれば、人類が超えられない存在としての「壁」の意味合いが強くなり、ならば「人類最速」はどこまで行けるのかという「肉体的限界」がメインテーマになるからだ。
しかし『10秒の壁』というのは、9秒58の現在から見ればもはや通過点。それをどのように乗り越えてきたのか、という「歴史」に主眼が置かれる。タイトルの0秒5の差で全く違う本になってくる。
なお、前者のテーマ「肉体的限界」について(その他の競技についても)焦点を当てたのが今月号のニュートンの特集。ただし、ボルト一人で2008年から2009年の1年間で0.1秒縮め、さらに本人は9秒4台も可能と公言しているので、どこが肉体的限界だとは誰も言えない状況であるため、この特集には「限界」は示されていない。

Newton (ニュートン) 2012年 08月号 [雑誌]

Newton (ニュートン) 2012年 08月号 [雑誌]

背景にある様々な要素

さて、それではどのようにして『10秒の壁』は乗り越えられてきたのか。
この本が面白いのは、過去の世界記録を各時代のアスリートを紹介して辿りながらも、焦点が置かれるのは、人間ではない、という部分だと思う。
すなわち、世界記録を左右するのは、用具であり、環境であり、測定機器なのだ。
人類史上初めて「10秒の壁」を突破した選手というのは3人もいることになるのは、測定機器の影響がある。

  1. ボブ・ヘイズ=手動計時による10秒突破(1964年東京五輪決勝10秒0)手動9秒9、電動10秒06
  2. ジム・ハインズ=国際陸連が公認した10秒突破(1968年全米選手権準決勝9秒9)手動9秒9、電動10秒03
  3. カール・ルイス=平地で電動計時による10秒突破(1983年S&Wクラシック9秒97)

東京五輪のときは、例外的に電動計時のタイムを公式記録として採用したが、1977年までは基本的に手動計時(10分の1秒単位)が公式記録として採用されていた。
さらに、測定機器については

  • スタート時の反応遅れから手動計時の場合、電動計時よりも0.1秒タイムが短くなるという問題
  • それをカバーするため、電動計時のタイムに0.05秒の補正をかけていた問題
  • 電動計時で出た100分の1秒単位の記録は、“四捨五入”で10分の1秒単位に直していた問題

などがあり、この時期の記録を比較するのは相当に難しい。


それ以外に、記録に影響する環境条件として大きく以下の二つを挙げる。

  • 高地:高地では空気抵抗が減るため記録が出やすい。そのため標高2000m以上は公認だが参考扱い。理論的には標高200m上がるごとに0.011秒速くなる。なお標高2240mという高地で行われたメキシコ五輪は記録続出。
  • 追い風:追い風2.0m以上で参考記録。理論的には追い風2.0mで約0.18秒速くなる。10秒の壁を突破してからの世界記録は1.0m以上の追い風で記録されたものがほとんど。(ボルトの9秒58は追い風0.9m)


また、用具で大きいのは以下の3つ。あとがきにもあるが、最近では鮫肌水着の登場による競泳の大幅な記録更新が印象的なので、用具によって記録が大きく変わるのはよく分かる。

  • スターティングブロック:1939年までは使用が許可されなかった。
  • 高速トラック:1991年の東京世界選手権で限界まで高まったとされる。
  • スパイク:同じく東京世界選手権以降、大幅な軽量化は見込めなくなったとされる。


記録については、フライングのルールも当然影響してくる。現在のルールは、スターターからの反応時間が0.1秒未満の場合に(これ以上速く反応することは不可能であるため)フライングとみなされるが、ニュートンの記事によれば、0.08秒で反応することも可能という研究もあるようだ。
なお、本書は当然ドーピングについても取り上げているが、「抜き打ち検査」の始まった1991年以降記録更新が長く途絶えている競技については、もはやドーピングの影響が疑いようのない感じもする。(例えばジョイナーが記録を持つ女子100mと200m:1988年ソウル五輪の記録)


さて、本書では肉体的な限界についても若干ながら触れており、次に世界新記録を出すことが期待される選手として、2007年時点では100mのベスト記録が10秒3ながら、196cmという身長に注目してボルトを挙げている。この本が刊行された2008年6月直前に、ちょうどボルトが世界記録(9秒68)を出しているので、いわば予言が当たったかたちになる。

残されたテーマについて

さて、この100年での記録の伸びについて、競技環境や用具に着目してまとめたのが本書だが、もう一度人間に戻って考えると、他にも考えるべきテーマがあるような気がする。たとえば、人類全体が高速化しているわけではないことを考えると、単純に「競技人口の増加」が100年で0.1秒を縮めたうちの何割かを担っている可能性がある。実際、1956年以降の大会では、黒人選手がメダルを独占するようになるわけで、黒人選手が参加しない時代と、参加して以降の時代は、同じ世界記録でも単純に比較できない。(人種については後述)


また、単純に走り方に速さを求める考え方もあるだろう。言われてみれば確かにボルトの走り方は独特だ。

実は運動科学的な視点から見て、今回のボルトの圧勝について明確な理由が指摘できます。まずもって、絶大なゆるみ方ですね。そして、それだけのゆるみを可能にした強大なセンター(中央軸)です。まず、この2つですね。
(略)今回のボルトは、そのゆるみ方がさらに進んで、センターがますます巨大になったんです。その結果、実現したのが「トカゲ走り」だったのです。

これについては次のNHKスペシャルで取り上げるらしい。

人類史上最速9秒58で100mを走る男ウサイン・ボルト(ジャマイカ)。その圧倒的な記録は、“人類が9秒6を破るのは2039年”という現代科学のシミュレーションをはるかに前倒しするものだった。いったい、ボルトの異次元とも言える速さの秘密はどこにあるのか?今回、世界で初めて、ボルトの走りを科学の目で徹底分析することが許された。超ハイスピードカメラなどの特殊撮影や、モーションキャプチャーなどを駆使した実験にボルト自らが参加。そこから見えてきたのは、これまでの理論をことごとく覆す特異なフォームと、それを実現する筋肉や骨格に秘められた意外な事実だった。


それ以外に、スポーツ科学の進化についても、記録と関わりがあると考えられる。
準一流の選手たちの底上げに大きく寄与している可能性があるし、超一流のアスリートも能力自体は大きく変わらないのかもしれないが、それによって大会で実力を発揮できる頻度を上げてきていると考えられる。。先日のクローズアップ現代では男子ハンマー投室伏広治選手の取り組みが取り上げられていて面白かった。肉体的なピークが年齢的にいつになるのかという話や、それをどう超えるのかというのは他のスポーツを見てもいつも気になるところだ。*1

ロンドン五輪で金メダルを狙うハンマー投げ室伏広治、37歳。今、“年齢の壁”と戦っている。歳を重ねると共に、体が動かなくなり、疲労回復に時間がかかるようになった。ケガもし易くなった。この体でどうすれば世界の頂点に立てるのか。室伏は“用意周到な準備”をすることで、“年齢の壁”を乗り越えようとしている。


また、肉体的な限界を考える際に話題として出さざるを得ない人種による違い。
サッカーなどのチーム競技でもアフリカ関係の国を評価する際に使いがちな「身体能力の差」は、どこまで存在するのかについては、非常に気になる部分だ。
これについては、川島浩平『人種とスポーツ』に詳しく書かれているようだ。いわく、すぐれた運動能力への遺伝的要因の影響ははるかに小さく、それよりも生活文化や地理的条件の要因の方が強く影響するとのこと。
ちょうど作者による解説が「視点・論点 | 解説委員室ブログ:NHK」にあったのでリンク。

「黒人の身体能力は生まれつき優れている」私達の多くは、そう考えています。
実際、オリンピックの陸上競技などでは、「黒人」選手が圧倒していようにみえます。
1984年のロサンゼルスオリンピックから、2008年の北京オリンピックまでの、過去7大会の男子100M決勝で、スタートラインに立った56人は、すべて「黒人」です。
現在30歳未満の人は、オリンピックの100M決勝に、「黒人」以外の選手が出場するのを、まったく見たことがないことになります。
では、「黒人の身体能力は生まれつき優れている」、そう考えて、本当にいいのでしょうか。

人種とスポーツ - 黒人は本当に「速く」「強い」のか (中公新書)

人種とスポーツ - 黒人は本当に「速く」「強い」のか (中公新書)


ところが、ニュートンの特集には、これと全く対立する意見のインタビュー記事もあった。インタビュー相手は「速い理由」を「遺伝子」に求めるヤニス・ピツラディス教授だ。
以下の記事(NHKのドキュメンタリー番組『追跡!AtoZ』の内容の再構成)では、そういった遺伝子研究について紹介しつつも、遺伝子に全てを求めるのにはやはり慎重で「遺伝子検査の結果を聞いて『ああ自分はだめだ。この競技に向いていない』とは思って欲しくない。スポーツはそれを超えたところで勝負する、そんなロマンがあっていいじゃないですか」という朝原宣治の言葉で締めくくっている。

「彼らの驚異的な運動能力は一体どこから来るのだろうか?」
 北京五輪・男子100mのウサイン・ボルト選手が、9秒68という驚くべき記録を打ち立てた頃、国内外のメディアはこぞって“スプリント工場”と呼ばれるジャマイカ勢の強さの秘密を、体格や走法、食べ物といった目に見える特徴から分析し、様々な見方を報じていた。
 そんな時、私たち取材班は、彼らの能力を目に見えない遺伝子という側面から徹底的に調べている研究者がイギリスにいると聞いた。早速興味を持ち、その研究者に連絡をしてみると、確かに「ジャマイカのスプリンターたちが共通して持つ、いわば“金メダル遺伝子”なるものを探そうとしている」という。


さらにさらに、賛否両論分かれるこの映像・・・。*2


というように探り出したら止まらないほど面白いテーマ。
とりあえず我が家では、「夏ちゃん、走るの得意なんだよ。運動会でかけっこ3位だったんだ〜。……よう太は4位だったけどね〜」と低レベルな争いを繰り広げる二人の子どもを常人レベルまで引き上げる必要があるな。(笑)

補足

なお、本書は、6/9に紀伊國屋書店新宿南店で行われたビブリオバトルでの紹介によって知ることができました。現時点では次回の予定は決まっていませんが、9月にも開催されるとのことです。熱いプレゼン合戦は非常に楽しく、「本を通じて人を知り、人を通じて本と出会えるビブリオバトル」というキャッチフレーズが、まさにピッタリのイベントです。
→7月に開催されたビブリオバトルの案内はこちら:【新宿南店】ビブリオバトル in 紀伊國屋 次回は7月7日!
→この本を紹介された鈴木さんのブログはこちら:たかみっちゃんの思惟

*1:なお、番組で取り上げられていた「吸玉(カッピング)療法」は気になった。疲労回復に効果があるという。→http://tommy.asablo.jp/blog/2012/07/11/6507113

*2:ピストリウス選手は個人400メートル走とリレーの2種目で南ア代表としてロンドン五輪に参加するそうです!