Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

置いてけぼりな感じの読書〜梨木果歩『裏庭』

裏庭 (新潮文庫)

裏庭 (新潮文庫)

昔、英国人一家の別荘だった、今では荒れ放題の洋館。高い塀で囲まれた洋館の庭は、近所の子供たちにとって絶好の遊び場だ。その庭に、苦すぎる想い出があり、塀の穴をくぐらなくなって久しい少女、照美は、ある出来事がきっかけとなって、洋館の秘密の「裏庭」へと入りこみ、声を聞いた―教えよう、君に、と。少女の孤独な魂は、こうして冒険の旅に出た。少女自身に出会う旅に。

分からなかった。
ものすごく難解な話というわけではなく、実際1995年第一回児童文学ファンタジー大賞*1を取る作品なのだから、場面場面は面白い。しかし、「服」にはこういう意味があって、あるキャラクターの性格が突然変わるのはこういう意味があって…という明示されたりされなかったりするほのめかし部分が多過ぎて、全てを理解できなかった。しかも、全てを理解できない自分が嫌になるという二重構造で楽しめなかった。
Amazon評で評価の低いものを見ると、自分と同様に、わかりにくいという意見が見られるものの、大多数は内容を褒めるもの。しかも、今回(『西の魔女が死んだ』を楽しめなかったことは伝えつつ)梨木果歩のオススメを紹介してほしいと言って、大推薦していただいた本なので、久しぶりに置いてけぼりな感じの読書となった。


実際問題、自分の感覚からすると・・・

  • ファンタジー世界の比喩やメッセージと現実世界との対応が分かりにくい
  • ファンタジー世界と現実世界の往復のテンポがいい序盤と比べると、延々と異世界の話が続く中盤は退屈。(かつ分かりにくい)
  • 結局、一つ一つの説教(アフォリズム)が胸に響いたとしても、自分の中で全体を統合できなかった(読み手の能力不足が原因…?)

という部分が、不満。


それだけでない。
今回、コペル君*2と連続して読んでみて、『西の魔女が死んだ』が、あまり気に入らなかった理由≒梨木果歩の作品世界への反発が、何となく判明した。

これまで読んだ3作に共通する点は以下の通り。

  1. 大きなお屋敷(洋館)の庭が舞台に登場する
  2. 主人公は中学生くらいで、年相応の悩みや不安がある
  3. 主人公の両親世代は忙しくて、子どもを構ってくれない
  4. おじいちゃん、おばあちゃんが、「分かってくれる人」「真実に近い人」として物語で重要な役割を果たす

こういう舞台設定は、もしかしたらファンタジー小説というジャンルではよくある設定なのかもしれない。だから、この設定自体が悪いとは言わない。


問題はテーマにある。
『僕は、僕たちはどう生きるか』は、戦争などというサブテーマがあったにしても、メインには、あくまで個人の大きな悩み(友人を裏切ったのではないか)があった。これであれば共感できる。

しかし、今回、テーマが「(大人の)人間の生き方」となっているのにもかかわらず、それが、当事者である現役世代(20-50代)抜きで語られることに、30代の読み手には、かなりストレスを感じる。
しかも、その舞台として、古い洋館のお屋敷の庭などの(現実世界と隔絶した)異世界を選ばれると、“江戸時代に戻ろう”的な理想主義を感じてしまう。

おじいちゃんは庭を見ながら、昔自然農法の仕事をしたかったことを話してくれた。
おじいちゃんの若かった頃の、理想に燃える生き方をききながら、照美は自分の両親のことを思わずにはいられなかった。
パパとママは真面目に生きてるけど、誇りを持って生きてない。楽しんでもいない。光に向かうまっすぐさがない。それは子どもにとってはどうにもならないやりきれなさだ。p42

上の文章で照美に非難される「パパとママ」の主観部分もあるので期待したのだが、パパが忘れていた何かを取り戻すのは気持ちが「100パーセント徹夫だった頃」(p291)に戻ったときで、ママも「さっちゃん」のときだ。大人の成長が描かれることはなく、結局“大人にはわからない”が貫かれている。


文庫解説で、河合隼雄が、この本のテーマについて以下のように書いている。

この作品を通じて流れているテーマは「死」である。人間はなぜ死ぬのか、いかに死ぬのか、死んだ後にどうなるのか、それに、自分の近親者の死をどう受けとめるのか、ということもある。これらの課題を追求することは極めて大切であるのに、現代人はともするとそれを忘れ、自分の生を薄っぺらなものにしてしまう。死を通じて生を見ることによって、その生は深みを増すのである。

言われてみれば、確かにその通りで、主人公・照美の弟・純の死を中心に物語は組まれている。しかも、死を中心に登場人物の心情を眺めると、作品の大きな流れを捉えることができるような気がしてくる。
以下の引用部分も一般的なこととして読んでいたが、近親者の死を中心に据えれば意味がとりやすくなるかもしれない。

  • 真の癒しは鋭い痛みを伴うものだ。さほどに簡便に心地よいはずがない。傷は生きておる。それ自体が自己保存の本能をもっておる。大変な知恵者じゃ。真の癒しなぞ望んでおらぬ。ただ同じ傷の匂いをかぎわけて、集いあい、その温床を増殖させて、自分に心地よい環境を整えていくのだ。(チェルミュラの音読みのおばば)p189
  • 傷をもってるっていうことは、飛躍のチャンスなの。だから充分傷ついている時間をとったらいいわ。薬や鎧で無理にごまかそうなんてしないほうがいい(略)確かに、あなたの今までの生活や心持ちとは相容れない異質のものが、傷つけるのよね、あなたを。でも、それは、その異質なものを取り入れてなお生きようとするときの、あなた自身の変化への準備ともいえるんじゃないかしら、「傷つき」って(レイチェルから夏夜へ)p278-279


つまり、河合隼雄的な視点を貫けば、そこまで混乱することは無かったとも言え、ファンタジー部分に、成長などの他のテーマを盛り込み過ぎているのが分かりにくい原因なのかもしれない。いや、単純に自分達の世代が非難されているのかもという意識に目が曇ったのかもしれない。
人気作家なので、また読んでみたいが、不安は募る。

*1:2012年で18回を迎える新人文学賞。大賞は『裏庭』以外では第三回の伊藤遊『鬼の橋』のみ。

*2:『僕は、そして僕たちはどう生きるか』