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自分の価値観・偏見を見つめ直す〜風間孝・河口和也『同性愛と異性愛』

同性愛と異性愛 (岩波新書)

同性愛と異性愛 (岩波新書)

男色の歴史があったためか、日本は同性愛者に寛容な社会だと言われることがあります。テレビ番組に「おねえキャラ」がよく登場することも、その理由のひとつかもしれません。でも、本当にそうなのでしょうか?
この本は、日本社会のなかで、同性愛者がどんな位置におかれてきたのかを、1980年代以降に起きたいろいろな出来事をもとに考えるものです。ここに登場する出来事は、男性同性愛者(ゲイ)たちが公共施設の利用を拒否された事件、ゲイが集まる公園で起きた殺人事件、エイズ問題でゲイに焦点が当てられた現象など、衝撃的なものばかりです。そこから浮かび上がるのは、異性愛社会の宿痾ともいうべき「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」の根深さです。

ちょっとした必要があり、知識を得ることが目的で読み始めた本だったが、知識だけではなく、自分の価値観を揺さぶられるような、他では得難い読書となった。
特に、大きく分けて以下の3つの部分で、自分が気づいていない偏見や思い込みがあったように思う。以下、その3つに絞って内容を辿って行く。

他人事としての同性愛への理解

まず、本文中にも何度も取り上げられているように、一昔前と比較すれば、少なくとも日本では同性愛に対する理解は深まっているし、自分の認識も以下の通りで、あまり偏見はないのではないかと考えていた。

「人の恋愛は自由だから、同性愛であっても認めるべきだと思う」とか、「同性愛者であっても差別されてはならない」という意見が大半を占めるようになってきた(p170)

と、少し知識があれば、広い心で同性愛者を受け入れる素地が出来ているような気がしていた。。

しかし、同性愛を異性愛となんら変わらずにとらえようとする、こうしたまなざしや肯定的な見方は、家族における同性愛者の存在の可能性について触れた途端にもろくも崩れ去ってしまうことになる。

つまり、家族に同性愛者がいたら?という質問に対しては、ほとんどの人が「えっ、いやだあ」「ありえない!」等の答えを返し、優等生的な回答をしていた人たちは、途端に「同性愛反対派」に回ってしまうという指摘だ。これは、状況をうまく想像することができないが、自分もやはり「反対派」に回ってしまう気がする。やはり、そういう知人がおらず、直接的に話を聞いたりしたことがない分、他人事としてやり過ごし、それほど深く考えていなかったということかもしれない。

同性愛者と性的なイメージ

次に性的な側面
これについては、第2章で取り上げられる都立府中青年の家での差別事件(1990年)の記述が非常に理解に役立った。
この事件は、利用団体のリーダーが集う場で、団体名を正直に言ったことがきっかけとなって、同性愛者団体が嫌がらせを受け、最終的に、青年の家の利用を拒絶されるに至ったというもので、その後、その是非が法廷で争われている。
この第一審では

  • 宿泊施設利用者が守るべき「男女別室ルール」は、同性愛者の場合、同性間に適用される。
  • しかし、施設に個室はない。
  • 故に同性愛者団体の利用は認められない。

という論理パズルのようなロジックが展開されるが、そもそもこのような考え方の大元には、「同性愛者であること」と「同性と性行為をすること」を結び付けて理解する考え方がある。その理由について筆者は以下の3つを挙げている。

  • 異性愛が唯一の正しくて自然な性のあり方であるという異性愛主義に満ちた社会では、同性愛者であることを明らかにすることによって、セックスを含む性的側面をあたかも強調しているかのように受け取られる。(異性愛者は、それを表明する必要がないため)
  • 本来、様々なバリエーションを持ち、人それぞれに異なっているはずの性行為が、一般的には挿入行為としてしか考えられていないのではないか。そのような認識を持つ人にとっては、異性愛者のセックスと隔たっている部分が関心の的になってしまう。
  • 同性愛者のライフスタイルが想像できないため、数多くの要素から成り立つはずの同性同士の交際のイメージが性行為が大半を占めているのではないか。

こういった偏見とは少し異なるが、例えばこんなときにも感覚のすれ違いが生じうる。つまり、同性の友人からカミングアウトされた場合に、聞いた側がカミングアウトを恋愛の告白として受け取ってしまう(p176)というケースだ。これもやはり同性愛者というカテゴリーを性的なイメージでとらえてしまうことに起因する。

セックス/ジェンダー性的指向性自認

そして後半部に多く登場するジェンダーについての記述。
第5章では、ここ十数年で(金八先生での上戸彩の役などをきっかけとして)性同一性障害を取り巻く社会的環境が目まぐるしく変化・向上したことが取り上げられている。
これについて作者は以下のように分析する。

  • 性同一性障害が治療の対象としてスポットをあてられたのは、同性愛者が主張してきたような「同性愛は病気ではない」という語り方とは反対の説明の仕方である。が、「病気」として認知されることで、社会的支援のハードルが下がる。
  • 性同一性障害」は「心の性」と「体の性」の不一致であるとみなされ、性別適合手術によって同性ではなく異性を愛するようになる。したがって、異性愛主義の浸透した社会では、そうしたニーズが受け入れられやすい。

しかし逆に、性別適合手術を受けやすくするために、できるだけ既存のジェンダー規範に合うようにふるまったりする(ジェンダー化)という不自由が発生するのだという。これに限らず、日々のジェンダー化の積み重ねが社会全体の異性愛規範をつくり上げるというのが作者の見立てだ。


この章で、例えば同性愛と性同一性障害の違いについて、セックス/ジェンダー性的指向性自認という区分を用いて図化して説明しているのが面白い。

  1. セックスとは生物学的性別でいわゆる身体の性別
  2. ジェンダーとは社会・文化的につくられた性別役割分業や「男らしさ」「女らしさ」のこと。
  3. 性的指向は、どちらの性(あるいは両方の性)に惹かれるが(同性愛/異性愛の決定要因)
  4. 性自認とは、自分がどちらの性に属するかという意識のこと。

これら1〜4を使うと、以下のように分けて説明することができる(本当は図示されていてもっとわかりやすい)

  • 男性異性愛者:       ⇒1男 2男 3対女性 4男
  • (男性的な)男性同性愛者  ⇒1男 2男 3対男性 4男
  • (女性的な)男性同性愛者  ⇒1男 2女 3対男性 4男
  • (女性的な)女性同性愛者  ⇒1女 2女 3対女性 4女
  • 性同一性障害        ⇒1男 2女 3対男性 4女

やおい」や「BL」で描き出される同性愛の関係についても、性行為の役割をジェンダーにより割り振ることや、テレビタレントとして活躍するゲイ男性がいずれも「オネエキャラ」つまり女性的なゲイであることも、異性愛主義の反映なのではないか、と作者は見る。(p147)
こういった指摘は、これまで全く意識してこなかったことだ。もしかしたら、自分が何となくそういうものと信じ込んで過ごしてきた規範の中に、何か我慢を強いられる人がいたのかもしれないと考えさせられる。


全体を通してみると、江戸時代の男色の話、異性愛主義の価値観が暴走して起きたヘイトクライムの事件の話、なかなか性的指向が共通する人に出会えず、またカミングアウトも難しい同性愛者の悩みなど、知識として勉強になるところも非常に多く、全ての章の頭に、架空の男性異性愛者に向けた手紙が入っており、各章にすぐに入っていけるかなり分かりやすい構成になっている。巻末の映画ガイド・ブックガイドも含めてこういった問題について考える入門書として非常に良い一冊だった。
なお、作者が男性2人の連名になっているところに、読んだ後の今気づき、自分を試されているようで、改めて価値観を問い直しているところ。

映画ガイド・ブックガイドから見ておきたい・読んでおきたい作品

ハッシュ! [DVD]

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変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から (岩波新書)

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