Yondaful Days!

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じきに海はプラスチックに覆われる〜チャールズ・モア、カッサンドラ・フィリップス『プラスチックスープの海』

プラスチックスープの海 北太平洋巨大ごみベルトは警告する

プラスチックスープの海 北太平洋巨大ごみベルトは警告する

とにかくこのチャールズ・モアは、怒っている。
1997年の航海中に出会った1000海里以上に散らばるプラスチックのごみ*1
止めなくては!
このことをみんなに知らせなければ!
そして、愛する海を汚すやつらを懲らしめなければ!
そんな苛立ちが最後まで止まらない。


怒りの矛先は大企業、特にプラスチック製品を製造する化学企業である。
したがって、地球海洋汚染の現状認識の部分は『海ゴミ』と共通する部分も多いが、『海ゴミ』には全く無かった観点からの記述に多くのページを割かれている。
第一に、プラスチックが生まれた経緯から丁寧に辿りつつ、米国での政策決定に大企業の意向が強く働き、環境的な取り組みがうまく行かなかった例を何度も取り上げる。遠い将来の環境を考えて当然なすべきことよりも、直近の経済の進展のみが優先される。作者が現在の惨状の原因として最も苦々しく思っている部分だ。*2
例えば、知人の娘(中学生)の自由研究の課題に、ビーチに流れ着くペレットの数の調査を提案し、ペレット工場を突き止めさせるくだりがあるが、これを地球全体でやりたいというのがモアの意図だろう。


そして次に、自分の考えを広めていくためにさまざまなことを試す。
モアは「科学的知見」について否定的だ。

科学的知見が科学界にとどまって、人々に知られることがないという事例を挙げよう。アホウドリのプラスチック摂取の調査は、ほぼ50年近く前から実施されているのだ。最初の調査は1963年で、北西ハワイ諸島のパールアンドハーミーズ環礁のアホウドリの73%が、プラスチックを「のみこんでいる」と指摘している。p221

50年近く前からわかっているのに事態は悪化している。したがって、半ば扇動が目的であっても、科学的知見を超えないと一般には伝わらず、何も変わらないというのがモアの考え方の基本なのだ。
門外漢ながら論文を執筆し(第7章)、ドキュメンタリー映画を撮影し(第10章)、人に伝えるための手段はなんでもやる。
ここは、自らが環境運動の財団を率いて主体的に調査・研究に乗り出しているからなのだろうが、これと対比すると『海ゴミ』は、悪い意味で「優等生的」だったのかもしれない。
海ゴミの危機が恐れるに足りないものであれば、作者らの動きはドン・キホーテ的に映るはずだが、実際の惨状と、川にも街にもゴミが散らばる身近な風景からの推測で、状況認識はそれほど誤っていないだろうという気がする。
↓(映画Synthetic Sea 新バージョン 10分)


地球温暖化問題にも共通するが、それらの運動の背景には日々の便利、しかもここ数十年での急激な生活の変化に対する後ろめたさがある。
したがって、使い捨て生活を、ただ便利なものとして受け入れる消費者にも問題があるという考え方も当然出てくる。しかし、そこで怒りの矛先を完全に転じたりしない。例えば、街でのポイ捨て防止などの環境運動は、そのものが企業に仕組まれていると警鐘を鳴らすのである。つまり、大企業が根本的な問題から人々の目をそらすためのキャンペーンであり、やはり、問題解決のためには、経済システムを根本から改めなくてはならないというのがその主張だ。
しかし、消費者の立場でもやるべきことがある。最終章では、消費者が行うべき「3Rよりも大事なR」として「Reject」すること、グローバルな経済システムに無批判に加わることを拒絶することを勧めている。(それは例えば地産地消

消費すればするほど、生活は豊かになるという魅惑的な考えはもはや通用しないし、プラスチックの海がその多くの証拠のひとつである。p320


ただし、プラスチックによる(環境ホルモンなどを通じた)人間への影響の部分が、いまいち理解出来なかった。それどころか、ペットボトルのリサイクルの仕組みすらよく理解していないので、まずは身近な部分から、もう少し追いかけて勉強してみたい。

*1:本書の中で最もよく取り上げられるのはペットボトルのふたとポリエチレンの袋。それ以外にセレモニーなどで飛ばされる風船についても書かれている(p227)。確かに風船飛ばしはある意味でゴミの投棄だ。

*2:こういった政治の原因は“米国”にあるとも考えているようで、「予防原則」を掲げるEUの方法をうらやましく思うというような記述もあるp256