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もっと若くに読んでなかったのが悔やまれる〜吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

読む時期さえ合っていれば、オールタイムベスト級だった。
中学生までには一度読んでおくべき本だったのに、読むのは今回が初めてというのが悔やまれる。
いかにも「道徳」的なタイトルからは「お説教」の話なのかと思いきや、そうではない。内容の素晴らしさは、巻末解説で丸山真男(!)が非常に丁寧な解説に書いている通り。

この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。

あくまでコペル君のごく身近にころがっている、ありふれた事物の観察とその経験から出発し、「ありふれた」ように見えることが、いかにありふれた見聞の次元に属さない、複雑な社会関係とその法則の具象化であるか、ということを一段一段と14歳の少年に得心させてゆくわけです。

コペル君というあだ名の由来であるこの事例の意味づけは全編の主要主題として流れているのですが、地動説は、たとえそれが歴史的にはどんなに画期的な発見であるにしても、ここではけっして一回限りの、もう勝負がきまったというか、けりのついた過去の出来事として語られてはいません。それは、自分を中心とした世界像から、世界の中での自分の位置づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度もくりかえされる、またくりかえさねばならない切実な「ものの見方」の問題として提起されているのです。
(略)
つまり、世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ−その意味でまさしく私たちが「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者は、コペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。


一方で、道徳倫理の部分についても内容は素晴らしい。そもそも、“お母さんが決して粗末なお菓子を食べさせない(p117:といってもここで挙げられているのは鯛焼ですが…)”というくらい、「いいところの坊ちゃん」が主人公の話なので、例えば「社会的認識」の話だけであれば、ひたすらに「上から目線」で世の中を観察する嫌な小説になりかねなかった。それでも共感しながら読み進めていけるのは、もちろんコペル君の素直な性格ゆえというところもあるが、エピソードが上手に配置されているということも大きい。
特に良かったのは「6 雪の日の出来事」〜「7 石段の思い出」の部分。ここでのエピソードは、『僕は、僕たちはどう生きるか』でも、『タモちゃん』でも中心的に取り上げられていた親友への裏切り行為に関するもので、丸山真男の解説からまた文章を引用すれば以下のようなシーンになる。

北見君にたいする上級生のリンチ事件に対して、コペル君が、浦川君や水谷君らとかねてそういう事態にいたったら一緒になぐられる、と指切りまでして約束したにもかかわらず、実際にその事件の場の恐ろしい光景に身がすくんで、自分ひとり抵抗しないで傍観し、その後悔の念でとうとう寝込んでしまう

このエピソード自体は、前後の心の動きも含めて非常に丁寧に書かれている部分ではあるが、僕個人としては、今まで生きてきて、実際ここまでドラマチックな場面には遭遇しなかったので、ともすれば自分に引き付けて考えられなかったかもしれない。しかし、何も話さず寝込んでしまったコペル君に話しかけるお母さんのエピソード(石段の思い出)が良い。
女学生の頃、学校の帰り道に寄り道した湯島天神の石段。そこで大きな荷物を背負ったおばあさんの大儀そうな様子を見かねて、「代わりに荷物をもってあげようと思いながら、おなかの中でそう思っただけで、とうとう果たさないでしまった」という、それだけの話だが、こういう場面には、今まで自分は何度も遭遇して、できるときもあったが、やはりお母さんと同様、できずに後悔の念を抱くことも多かった。
そして、「後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえた」と振り返ることのできるコペル君のお母さんと比べて、自分は、身の回りの出来事からどれほどのことを学べているのかと改めて日々の生活を振り返ってしまう。このエピソードがあるから、北見君へのリンチ事件、そしてそれについてのコペル君の後悔の話の効果も倍増する。
というように、全編を通して、「社会的認識」の面においても、「モラル」の面においても、自分自身とコペル君を比較し、もっと前に進まなくてはと思わせる、素晴らしい内容だった。勿論、読むのに遅すぎるということは無いのかもしれないが、やはり、もう少し若いうちに読み、自分を振り返りながら読んでおくべき本だったなあ、と悔しい気持ちになったのでした。


以下、各章のエピソードの最後にある、おじさんからコペル君にあてて書かれた「おじさんのノート」から引用(ページはワイド版岩波文庫)。

この世の中で、君のようになんの妨げもなく勉強ができ、自分の才能を思うままに延ばしてゆけるということが、どんなにありがたいことか、ということだ。コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「御礼をいうだけの値打がある」とかいう意味で使われているね。しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。「めったにあることじゃあない」という意味だ、自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持ちになる。p136

君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。
君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。p195

自分が過っていた場合に、それを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。(略)
僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに…、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあるだろう。p255

余談

14歳のコペル君たちの遊びが面白い。
コペル君の部屋で男3人で楽しむ、架空の早慶戦の実況ごっこ(p61)や、豆腐屋浦川君が、店の若い衆とよく遊ぶ棒押し(p161)。そして何度か名前だけ登場するもののそれが何かはわからなかった「闘球盤」とは、これのことらしい。

カロム(かろむ)は、2人以上で行うボードゲームである。キャロム、カルムなどとも呼ばれる。
ビリヤードに類似した盤上ゲームで、2人ずつペアになり四角い盤の上に並んだ偏平な円筒形の玉(パック)を特定のエリアからパックと同形の自身の玉(ストライカー)を手の指で弾き、自身のストライカーに記されているのと同色のパックに当て、四隅のコーナーにある穴(ポケット)にパックを全部入れ、最後にジャックを入れるのを競うゲームである。滋賀県彦根市では、ほぼ一家に一台所有しており、知らない者はいないほど普及している。

時代は1937年で、「牛」で14歳の羅漢(ルオハン)が牛を引いていた1970年からさらに30年以上前。日中戦争が始まる原因となった盧溝橋事件の年に、日本の14歳の少年たちは、こんなことをして遊んでいたのだなあと、当時のことを想像してみるのだった。