Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

うーん、難しいテーマ〜広瀬弘忠『巨大災害の世紀を生き抜く』

巨大災害の世紀を生き抜く (集英社新書)

巨大災害の世紀を生き抜く (集英社新書)

代表的な著作『人はなぜ逃げ遅れるのか』の内容自体が、韓国の地下鉄事件のような、少し小規模の事故、災害における正常性バイアスをイメージしやすいものであったことから、今回のような巨大災害についてどのような内容が書かれているのだろうかと手に取った。
文字も大きく読みやすそうな反面、内容が薄いのではないかと危惧したが、2011年10月に出た本ということもあり、震災直後の緊張感が伝わってきた。
目次は以下の通り。

第1章 二一世紀型の災害とは何か―原子力災害を経験して
 (自然災害と原子力災害の違いは何か、原子力災害は非体感型 ほか)
第2章 原子力発電所はなぜ事故を起こしたか
 (事故につながった東京電力の企業体質、原子力は必要だという揺るぎない前提 ほか)
第3章 災害と情報
 (危機意識を共有すべし、リスク・コミュニケーション ほか)
第4章 災害を乗り越えるには
 (マゼランがリスクに対処した方法とは、若者に災害対応の新たな芽はあるか ほか)
第5章 三・一一の先にあるもの
 (この災害は私たちをどう変えるのか、不安と共存するという生き方 ほか)

特に、東京電力の企業風土について、自らの経験を踏まえて語る第二章は良かった。2002年に明らかになった原発の点検記録のデータ改竄を受け、2002〜2007年まで東京電力が社内に設けた「原子力安全・品質保証会議」の委員として、著者は東電を、通常よりも内側から見ることができたのだ。

…データ改竄の事実を公表することも、ある意味で非常に巧妙な配慮だったといえるだろう。外部の人間に原子力発電所の事故についての比較的小さな問題をあぶり出して見せるが、その議論は、あくまで原子力は日本経済の成長にとって欠くことのできないものだという前提があってのことで、その前提に反したり、抵触したりするような問題に関しては、きわめて神経質な対応が行われていた…(略)
問題は、個々の細かな事故を一部始終隠さず公表するといった演出された誠実さにではなく、原子力発電は欠くことができないという大前提を死守するために、小さな誠実さを呈示することにあったと言わざるを得ない。原子力発電を安全、安心なものとして社会的に受容してもらわなくてはならなかった。その安全、安心な原子力発電、という縛りが、今回の原発事故をここまで拡大させた大きな原因になったと私は思う。P63

前提を死守するために、安全を犠牲にすることはあってはならないが、既往計画などは基本的に正しいものとして余程のことがなければ見直さない官僚主義的な世界の中では、起こり得ることはよくわかる。


この部分をはじめ、総論としては、納得できる意見が多かったのだが、最近の自分の問題意識とは相容れない部分もあった。以下に挙げる引用部分は、3.11前であれば納得しながら読めたのだが、震災と原発以降、単純に頷けないようになった。揚げ足取りのようなかたちになるが、少し反発を感じた部分を抜き出したい。


例えば、マスメディアの原子力災害についての文章。

放射線被ばくの安全基準について記事を作ると、日本のメディアの多くは、基準値は国際的な基準に則っており、基準を上回っても安全である、といういい方だけになる。だが、欧米のクオリティペーパー(高級紙)であるニューヨークタイムズのような新聞では、いくつかの説を並列する方法をとり、(中略)
こうした記事を読んだ読者はどう思うだろうか。なるほど、こういう説もあれば、反対にこんな説もあるのか、その科学的な裏づけはここまでなのだな、と思うのではないか。そこから合理的な判断を下す努力をするのは読者自身の責任なのだ。p128

賛否両論の併記については、以前は自分も同様に考えていた。しかし、実際には、併記の仕方によっては、読者は、両論ともが同程度に正しい意見なのだと読んでしまう。「科学的裏づけ」について読者への判断材料を全て提供するにはスペースが無く、非現実的だし、何より判断を読者に全て委ねてしまうのでは無駄な混乱を生む。したがって、最も科学的な合理性が高い(と判断できる)説を中心的に取り上げ、対立する意見については紹介する程度が一番いいと思う。読者に「合理的な判断を下す」を任せてしまうのは難しいのではないかと考える。(「隠さない」ことは重要に違いないが)


こういった、人間の知性を過信する考え方は他の場面でも出てくる。

どのようなリスクであろうと、知ることがメリットになる時代を、私たちは迎えているのだ。私たち人類は、絶体絶命の危機に直面して、それを乗り越えてサバイバルを果たしてきた種である。このことを忘れてはならないだろう。p151

確かにリスクは知らされるべきと考える。
しかし、今問題となっているのは、リスクだけでなく、その意味づけをどう伝えるかであると思う。何かとゼロリスクを求めてしまう考え方を問題にせずに、「リスクの開示で物事が良くなる」というような見方は、放射能問題以降、日本を二分している状態が見えているのか疑問に思う。
そもそも、リスクという概念自体が、かなりのリテラシーを必要とする。リテラシーなんて格好いいことを書いたが、リスクの受け取り方は、単なる知識や理解度だけでなく、その人が置かれた状況にも左右されるだろうと思う。つまり、(本書の中でも触れられてはいるが)避難区域に元々住んでいた方々が捉えるリスクと、九州に暮らす人は、リスク情報の捉え方が異なるだろう。
同じ地域に住んでいて、ある程度リスクという概念について理解のある人同士でも、食べ物に含まれる放射性物質の扱いについて意見が一致しないこともよく見る光景だ。
したがって、例えば「●●県産のシイタケから○○ベクレルの放射性セシウム」というような情報を、もし説明なしで数値だけのかたちで公表し続ければ、社会の混乱に繋がることは明確であるように思う。その数値の読み取り方について中立的な視点からの説明がセットでなければ、何も判断することはできない。そして不可情報が多ければ多いほど、自己責任での判断は困難を極める。やはり新聞報道に対する意見と同じで、作者は、人間の知性を信じすぎているように思う。


この流れで一番気になったのはソーシャルメディアへの期待。

ソーシャルメディア上の議論は、自由度が高ければ高いほど極端な議論には走らない。チェックにより自浄作用が働くのである。(略)
このように誰にでも情報を発信し、受容することができ、気軽な議論が行われる開かれた社会では、デマは小規模には生じることがあっても、社会全体に影響するような大きな規模になることはまずない。p114

この部分だけでなく、twitterFacebookを、やや過大評価しているように感じる。3.11直後には、その有用性が多くの人に評価されたソーシャルメディアだが、実際にやってみると問題点がすぐに分かる。
例えば「極端な議論には走らない」という感覚は、twitterをやったことのない人の感覚なのではないかと思う。読む側が意見の合う人をフォローして、独自のタイムラインを作るtwitterでは、むしろ議論が極端な方向に進むことがある。放射能関連の情報の無統制ぶりを分かっていたらこんな書き方にはならないと感じた。
先日、僕自身は、誰も否定する人はいないだろうと信じ込んでいたネット選挙の解禁について、為末大さんが、否定的な見方を述べていた。

政治って、何と何が争っているのかよくわかりません。協力できないのはわかるんですが、じゃあ何が協力できるのかが全然見えてこない。その雰囲気と、twで相手を踏みにじる感じや、徹底的に違うものを避ける雰囲気がなんとなく似ているように感じています。だから、ネットを解禁しても日本人に民主主義的感覚が生まれるか疑問で、今のままでは解禁したところで「こいつを当選させようぜ」みたいなノリの運動が起こったり。民度がモロに出るものなので、プラスだけでなくマイナスの面も出るのではないか思うのですが。

この考え方は自分の実感とも合う。
決してソーシャルメディアは万能ではなく、何を使って情報収集をしても人が合理的な判断をするのは難しい。


震災と原子力災害後の新たな社会で生きていくためには、「ひとりひとりが自ら情報をとり、判断して行動するという、本来の意味での自己責任に基づいて、生きていかなければならない」(p183)というのが、この本を貫くメッセージである。基本的には同意だし、そうあるべきだとも思うが、それほど上手くも行っていない、という部分についてもう少し突っ込んで取り上げた本になっていればとても良かった。

余談

津波てんでんこを否定しているところがあり面白かった。

病気の親をかかえた息子が、親をそのままにして逃げるということは可能だろうか。愛他心を持つ社会的動物である人間には、そのような行為は不可能なのだ。「津波てんでんこ」はありえないと思う。P181

通常は不可能だからこそ、このような“理不尽”な教えが、有効なものとして生き残っているように思った。ただ、これもまた正論ではある。