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スポーツとモテと桐島と〜永井洋一『スポーツは「良い子」を育てるか』

スポーツは「良い子」を育てるか (生活人新書)

スポーツは「良い子」を育てるか (生活人新書)


この本のプロローグに、スイミングスクール帰りの親子の会話が出てくる。

「何言ってんのよ。あなたは一生懸命やってないのよ。このままじゃ○○ちゃんたちに置いていかれるよ。あなただけ、下のクラスになっちゃうのよ。それでいいの?」
「でも、一生懸命やってるけど、なかなか上手くできないんだもん。」
「できるまで何度も繰り返すのよ。簡単に諦めちゃだめなのよ。コーチの言うことをちゃんと聞いてがんばれば、できるはずなのよ。あなたの努力が足りないのよ。もっとマジメにできないなら、スイミングやめさせるからね。それでいいの?」
「……」
「やりたいんでしょ、スイミング。やりたいなら、もっと一生懸命やらなきゃだめよ。…」

もしかして見られてたのか?と勘繰ってしまうほど思い当たりがあり過ぎる話で、かつ、このように文字で書かれたものを読むと、子供が可哀想でいたたまれない。
よかれと思って世話をかけているのに、思った通りに子供が動いていないことに苛立つ場面は自分にもたくさんある。手を上げたことすらある。
最近、大阪市立桜宮高校バスケ部の件と女子柔道の暴力告発事件をきっかけにスポーツと体罰について話題にされることが多いが、この問題を、自身と無縁な他人事扱いできない理由でもある。


一方で、スポーツに関わる問題は、プロとアマチュア、子供と大人、学校内と学外と色々な線引きができて、それぞれ微妙な違いがある。この本は、25年以上サッカーの指導に関わり、子供のスポーツを目にしてきたスポーツジャーナリストの永井洋一さんが、少年期のスポーツのあり方について論じた本。随分前に読んでいたが、体罰問題を機会に読み直し、スポーツについて改めて考えてみた。

「スポーツはモテる」は正しいか

いきなり話が飛んで恐縮だが、そもそも、自分の中には、スポーツへの捻じれた問題意識がある。
それを一言でいえば「スポーツはモテる」は正しいか。
自分たちの世代の意見なのかな…とも思うが、これまで育ってきた中で、周囲には「スポーツができた方がかっこいい」もっと言えば「運動を避ける人は人間として格が落ちる」くらいまで考える人が多かった。先日、中学時代の同級生らで、スケートに行ったときにも、滑ることになかなか気乗りしないよう太を「スポーツした方が女の子にもてるぞー」と、皆でけしかけた。
しかし、実は、気持ちの中では(それは違うんじゃないか)と思っていた。
小学校から大学まで、常に何がしかスポーツの部活動で汗を流していた自分は、「スポーツはモテる」という意見をいわば「安全側」から眺めていた*1わけだが、感性は完全にオタク的な人間なので、スポーツを出来ない人が貶められるたびに自分が責められているような気持ちになっていたのだった。
そもそも趣味にランクがあるという考え方に強く反発を覚える。


しかし、親になってみると、やはり「スポーツは良い子を育てる」という思いに囚われ、よう太には幼稚園のときからスイミングに行かせている。我が家の場合は、奥さんがそこまで厳しくはないものの、さすがにタダではないこともあり、無気力な様子を見かけると、つい夫婦そろって冒頭のような説教をしてしまうことがある。
実際、よう太は自ら運動嫌いだとよく言っているし、休み時間にやるサッカーなどにも参加しないらしい。*2そういう様子を見るにつけ、そもそもスポーツを無理矢理やらせることが本当に「良い子」を育てるのだろうか、という本書のタイトル通りの疑問が湧いてくる。
さらには、行きつく先が、今回問題になっているような体罰社会なのであれば、むしろスポーツは害悪ではないか、という思いに傾きかけすらする。しかし、そこまで極端に行くと、今度は、自分の中のスポーツ平和党員が「いやいや、そうではないでしょう。社会性、礼儀、協調性…。いろいろなものが養えるはず!」とスポーツを擁護する。
とにかく、スポーツについては個人の視点からも親の視点からも色々な感情がせめぎ合っている。
そういう、個人的な、しかし切実な疑問に答えてくれるのがこの本なのだ。

3分でわかる『スポーツは良い子を育てるか』

内容をまとめてみた。なお、以下を見ても分かる通り、勝利第一主義への執拗な批判があるが、作者は勝利を追うのが間違いだと言っているわけではない。

  • 第1章 なぜ子供にスポーツをさせるのですか?
    • 統計資料からは、スポーツをしている子どもの方が体力があり、精神面でも優れた面が見られると読むこともできるが因果関係が逆の可能性もある。
    • スポーツを通じて「有能感」を強くし、積極性、自信、心の強さを身につけることはあるが、環境による。(マイナス体験によって、逆効果となる場合もある。)
    • スポーツのパフォーマンスに強く関係する「力強さ」「粘り強さ」「巧みさ」「しなやかさ」の4要素の中で少年期にもっとも発達するのは技術の「巧みさ(調整力)」の部分である。
    • 一方で、「力強さ(筋力)」「粘り強さ(全身持久力)」を前面に押し出して、体力勝負をしかけていけば、多くの少年スポーツでは勝利が得やすく、「巧みさ」や、それらを支える予測や判断力はないがしろにされることも多い。
    • スポーツはチャンスが与えられなければ成長できないものであり、勝利第一主義に走ると、レギュラーのみにしかチャンスが与えられないことになる。チームとしての競技環境が整っていたとしても、それを享受できるのはレギュラーだけであることも多い。
    • 優勝劣敗の視点ばかりの中で育つと、ミスした仲間をなじったり、力の劣る対戦相手を蔑んだりする選手に育つ。
    • レギュラーになれないことについて「耐えることも勉強の一つ」とする哲学は成長期の子供のスポーツには合わない。無力感を生むだけ。
  • 第2章 スポーツは本当に清く正しいものなのか
    • フェアプレーは幻想。近代スポーツが競技として普及するにつれ、勝利のためにあらゆる手を使う人が増え、ルールは細分化、厳格化してきた歴史がある。
    • マチュアの語源は「愛する者」を意味するラテン語にあるが、近代スポーツを生んだ英国紳士達は、その言葉を「余暇でたしなむ余裕のある者のみがスポーツに参加できる」という特権的な意味で用いた。
    • また、五輪は当初アマチュアを信奉していたが、1972年の時点で五輪憲章からアマチュアという言葉が消え、代わりにアスリート(競技者)という表現が使われるようになった。実態として、純粋に「愛好する」という気持ちだけでは、トップスポーツの世界ではやっていけない。
    • つまり、フェアプレーやアマチュアリズムなどの言葉はロマンティシズムに過ぎず、スポーツでフェアプレーの精神を学ばせるのは難しい。(少年サッカーでもシミュレーションの反則を見かける。)
    • また、スポーツを競技(勝つためにやる)として続けていくことは、体を限界まで酷使することを意味し、「健全な肉体」からむしろ遠ざかる。
    • さらには、勝つための肉体改造(ドーピング)に手を染める人が後を絶たないだけでなく、スター性によっては処分が軽減される事例もある。トップスポーツの世界にはそうした側面がある。
    • 競技を見る側の感覚も変わってきており、いわゆる「ドーハの悲劇」の際にも「勝負に負けて帰ってきたものを労うべきではない」という意見があった。*3
    • しかし、少年期のスポーツでは絶対に「結果」より「過程」を重視すべき。一方でトップ選手たちの「結果志向」のプレーや発言は、「プロ意識」などと呼んでメディアによって称賛され、少年期のスポーツの手本にされることも多い。
  • 第3章 ピッチペアレンツとピッチチルドレンの悲劇
    • どんなに努力しても、生まれ持った筋肉が優れている子にはかなわないという現実を、親は知り、子に過度の期待をかけてはならない。また、少年時代に厳しく鍛えたり、勝敗にこだわって成績を追求することがプロへの道を開くということは全くない。
    • 子供は未熟だから、スポーツから勝敗の結果以外に何かを学ぶという価値観はなかなか持てない。「スポーツをするのは勝つためばかりではない」と諭すのが大人の役目。
    • 少年スポーツで勝利を得るチームの法則は(1)運動能力の高い子供の数が多いチームが勝つ(2)子供自身があまり考えず、大人の言う通りに動くよう訓練されたチームが勝つ(3)能力の高い子供だけを選別して訓練し、能力の低い子供はできるだけ排除する。
    • スポーツは思考と肉体で自己表現する手段であり、最も重要なのは「自律」の能力である。勝利のために「調教」することは、それと対極にある。
    • 高校、大学でスポーツ推薦を選ぶことは、スポーツ漬けの生活によって小さな社会以外では通用しない価値観を身につけていくリスクがある。
    • ピアノと英会話を習わせているからウチの子は大丈夫というのは勘違い。自分の力で試行錯誤する機会を奪われ、大人の敷いたレールを進むのであれば、いくらスポーツを行なおうが音楽を行なおうが、それは計算された肥料や飼料を与えられて計画通りに育つ植物か家畜のようなもの。
  • 第4章 現代の子供が抱える問題とスポーツ
    • スポーツ本来の醍醐味は肉体と知能を駆使するところにあり、少年期からスポーツを知的にとらえる訓練が必要。
    • チームスポーツには、他人の立場や心情を思いやる精神や仲間と協調する態度を醸成する力があるが、勝利第一主義のチームでは決して育まれない。
    • たとえ少年スポーツであっても、勝利に対して全力で努力することが大切だが、その過程で、少年たちが人としてどのように振る舞うべきかということを、周囲の大人は教育していく必要がある。
    • スポーツで学ぶ礼儀は、往々にしてグラウンドの中だけで行なわれる「儀式」になっており、普段からの礼儀を身につけさせたければ、親が手本を示すべきで、スポーツチームに礼節の教育を期待するのは筋違い。
    • 勝利第一主義に毒されれば、たとえ勝利して一時的な優越感を得ても、一人のスポーツマンとしての充足感は得にくく、心理的に満足するために、自分より劣るものを見下したり虐めたりする。(下方比較理論)
    • 日本で、スポーツが子供の自立心を育まない理由は、自分で判断し、決断するという訓練が不足し、機械的な動きをたたき込むことが優先されるから。
    • こういった状況は、20年以上前とほとんど変わらず、むしろトレーニング方法などのノウハウが整備された分、スポーツ少年の機械化はさらに著しくなっていると感じる。
  • 第5章 スポーツをすることで子供に身に付けさせたいもの
    • スポーツとは本来、日本で推進されてきたように個人を限りなく無色透明にしていく部分に意味があるのではなく、むしろ個人が自分の視点、判断を最大に生かすところにこそ、楽しさの原点がある。
    • 痛くて苦しいこともあるスポーツを、人はなぜするのかといえば「心」が満たされるから。
    • 無数の選択肢の中から、自分の感じ方、考え方を基準にして一つのプレーを選び、体を使って思い切り表現する、という点で「自己表現」の欲求を満たすというのが一つ。
    • 内発的動機付けにもとづいた行動によって周囲の何かに変化が起きた(例えば息の合ったコンビネーションが達成できた)ことによる充実感(有能感、コンピテンス)の獲得がもう一つ。
    • 何事にも前向きに取り組み、積極的に自己表現できる人間になることを助けるのがスポーツであって、従順な人を生むためにスポーツがあるわけではない。
    • 強くなるため、うまくなるための練習の中には、分析→仮説→実践→検証という科学的思考方法が必要。
    • どのようなレベルにあっても、スポーツに親しむ人それぞれが、自分に合わせた目標を設定することが自己実現につながる。少年スポーツでは、勝敗に関わりなく、以前よりベターになっていることを積極的に評価し、次に何を目指して努力すべきかを示唆してやることが必要で、それによって子供たちはそれぞれに自己実現に向けた意欲を持つ。

桐島は、なぜ部活をやめたのか?(ややネタばれあり)

唐突に「スポーツはモテるは正しいか」問題に戻る。

「結局、出来る奴は何でも出来るし、出来ない奴は何も出来ないってだけだろ」

映画『桐島、部活やめるってよ』で、軽々とそう言い放つ菊池宏樹は、野球が上手くて女子からモテて、友人や先輩からも頼りにされる存在。

朝礼の場(最初の場面)で、県大会での活躍を周囲から期待されるバレー部と、映画祭の一次予選突破(二次予選敗退)の報告で読み上げられたタイトルを爆笑される映画研究会というシーンからも端的に分かる通り、この映画の中では「スポーツはモテる」は生きており、その他、見た目や言動から「イケてる/イケてない」を決めてしまう価値観が多くの生徒に共有されているように見える。


これは「少年期は、とかく勝敗のみでの評価に引きずられやすい」と本書で指摘されていたのと同じだ。人を見る物差しには、色々なものがあり、レイヤーの切り方で、評価は様々に変わる。しかし、人生経験の少なさや、集団内の人間関係もあって、一つの物差しばかりが目立ってしまう。特に、幼い頃は、勝ち負けや見た目や数字ばかりに目が行く。
実際、自分自身が「スポーツがモテる」と思い込んでいた時期は小学校時代だった。中学、高校と進むにつれ、それをむしろ疑うようになった。だから、映画の中の高校生たちは、皆が桐島を崇めていたわけではなかった。
しかし、高校、大学、社会人と進んでも、その哲学を捨てないタイプの人は一定数存在し、その価値観を押し付ける。能力の高いが意識の低くて、それに乗っかる人もいるし、桐島のような万能タイプの取り巻きになることで、心の安定感を得ようとする人もいる。そういう空気が、結果的に、校内での暴力行為(いじめ)を生んだり、人の心の自由を奪ったりするのだ。学校全体が、桐島を頂点としたスクールカーストを形成していたわけではなく、一部の人の悪意や苛立ちが、さらに一部の人たちに過度に伝搬していた状況が映画の舞台になっている。


そのような不穏な学校生活を舞台にした『桐島〜』のリアルなところは、モテない主人公がモテるようになる、弱者が強者に打ち勝つ、という結末にならないところ。感動の場面を経ても、人間同士の力関係には全く変化がない。
クライマックスで、ある登場人物が、別レイヤーの評価視点を得ることで、自分に不足していたものを知り、心に嵌めていた足枷を取る、そこに全てが結実するところに爽快感がある。部活をやめた桐島は、先に、その視点を得ていたのかもしれない。
この映画が示した一つの価値観というのは、こういうことだ。(それはやはり「一つの価値観」であって、決して「正しい価値観」ではない)

(出来る出来ない、とは無関係に)自己表現の手段を知っていて、それによる達成感を得ている人こそが魅力的

ただし、自分と異なる価値観の獲得によって、何か光が見えるものと、そうでないものがある。個人的には、バレーボールに打ち込みながらも、ずっと桐島のサブに甘んじていた小泉君の「がんばっても、この程度なんだよ俺は!」という叫びが心に響く。他人に左右されない価値観を得た上で、自身の自己実現の方法をどう模索していくのか、それが、見た人に求められているように感じた。

まとめ〜親が子供のためになすべきこと

スポーツ(やそれ以外のもの)を通じて、人間的な魅力を育みたいときに、親が子供になすべきことを、二つの問いかけ形式でまとめてみた。


(1)何をしているとき一番楽しい?

  • スポーツに限らず、自己表現の欲求を満たし、達成感を得られる何かを見つける手助けに、親は力を注ぐ。
  • さらに「それ」が見つかったら、レベルに合わせた目標を設定し、達成感を得るルーチンを教える。
  • いや、そもそも、親自身が、そういった達成感を生活の中で得ているか自問すべき。プロスポーツ選手や、有名人に預けてしまっているのでは?(しかも失敗したときに批判ばかりしているのでは?)
  • つまり、親自身がもっと自己実現の手段を模索する!のが重要。


(2)その考え方は誰かを傷つけてない?

  • 少年期は、何かの価値観に強くとらわれる時期で、特に優勝劣敗の勝利第一主義に嵌る子供が多く、いじめや卑下、自虐の原因になることがある。親は、それだけではないことを教え諭し、また、考えさせるべき。
  • ただし「スポーツはモテる…とは限らない」などの他の価値観を否定する考え方は、単に元の価値観にとらわれているだけなので注意する。(笑)
  • いや、そもそも、言葉で教えられるような価値観は詭弁に近い可能性があるので、親が身を持って手本を示すべき。
  • つまり、親自身がもっと自己の価値観を検証する!のが重要。


考えていくと、子供の人間的成長の役目のかなりの部分を、スポーツなどの習い事に委ねてしまうのは、親の責任放棄であるようにも思える。
タイトルで括弧つきで書かれた「良い子」が「従順な子」を意味するのであれば、厳しいところを選べば、かなりの少年スポーツに「良い子」を育てることを期待することができる。しかし、それ以外の何かを求めるのであれば、親自身が理想とする人間像について考えておく必要がある。実際、スポーツを通して学ぶことのできることには多くのことがあるが、その成長を見守り、折に触れて修正していくことができるのは親だけだからだ。
その意味で、自らの襟を正すきっかけになりうる良い本だった。

参考(過去日記)

⇒他の方の意見に反論する形で、2006年甲子園の早実vs駒大苫小牧戦の「翌日再試合」について書いた内容で、なかなかの名文です。考え方の色々な部分に本書の影響が感じられるのを見ると、もしかしたら初読時の直後に書いた文章なのかもしれません。

高校野球や駅伝、高校サッカーについて書いた文章です。2006年正月の高校サッカーで優勝した野洲高校は、この本で目の敵にされているような勝利第一主義の強豪校とは一線を画し、テレビで見ていた自分は、「昔のやり方」はどんどん廃れていく⇒スポーツ全体が良い方向に向かっていると感じたのでした。『スポーツは「良い子」を育てるか』は2004年の本ですので、そこまで古くないとはいえ、永井洋一さんがこういった状況をどのように見ているのかは気になります。比較的最近出ている同主旨の本も読んでみたいですね。

賢いスポーツ少年を育てる―みずから考え行動できる子にするスポーツ教育

賢いスポーツ少年を育てる―みずから考え行動できる子にするスポーツ教育

⇒上でも書いた早実vs駒大苫小牧戦を支えた両チームの監督に視点を置いた本で、これも面白い本でした。強いチームには魅力的な指導者がいる、というのも一面の真実です。ただし、部員全員から慕われるような指導者が実績を残せるかといえば、そうではなく、女子柔道の暴力、パワハラ事件も、教えを受けている選手それぞれによっても見え方が全く異なるのだろう、と思います。

補足

書き終えたあとで、いつも楽しみにしている「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の映画批評コーナー「シネマハスラー」をpodcastで聴きました。公開中の『DOCUMENTARY of AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』を扱ったものですが、色々と共通する部分が出てきて、自分の思考は、相当、この番組に影響を受けているなあと思ったりしたのでした。

*1:眺めていただけでモテてたかには大いに疑問符がつく笑

*2:「そんなとき何しているの?」と聞くと、「解説」だと。笑

*3:「絶対負けられない戦い」という言葉は、全力を尽くしたりフェアプレーに徹することよりも勝ち負けを重視するというサインですね。