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他人事では済まされない〜牧野恭仁雄『子供の名前が危ない』

子供の名前が危ない (ベスト新書)

子供の名前が危ない (ベスト新書)

ブログなどのまとまった文章で、いわゆるドキュンネームやキラキラネームと呼ばれる「変わった名前」を取り上げる場合、大きく二つののパターンが考えられる。
まずは、(1)こんな変な名前がある!と単純に面白がる取り上げ方で、他人事としてネタ的に消費される文章。この場合は、別称でもある「DQNネーム」の語源であるDQN的な、つまり常識が無い人の行為を嘲笑うような取り上げ方となる。キラキラネームが、ごくごく稀な少数派であった時代によくあった内容。
しかし、変わった名前の子どもたちが珍しくなくなり、「世界に一つだけの花」なんだから、名前だって「みんな違ってみんないい」のではないか、という考え方が出てくると、(2)実生活で不利になる面を挙げて、やはりキラキラネームは実際にこんな問題を引き起こしますよ、と親を諭すような文章のパターンの文章も増えてくる。
後者の文章は、将来的にはどうかわからないが、同世代のキラキラネームが少数派である30〜40代には、納得しやすい文章。しかし、逆に言えば、そういったリスクに想像を巡らせることのできない人たちがキラキラネームをつけているのだ、という主旨では、結局は(1)と同様、少数派を嘲笑する内容となる。


自分の場合、小3と、幼稚園年長の子どもの同級生の名簿を見ても、それほど変わった名前の人が多くないこともあり、この話題にはそれほど関心は持っていなかった。
とはいえ、ネットで見かける(1)(2)の文章は、どちらもネットカルチャーの定期的なネタとして面白く読んでいた。あくまで他人事として。
そこで、この『子供の名前が危ない』。
本を読んだのは、(1)(2)以外の取り上げ方は難しいはずの「変わった名前」というテーマで、1冊の本を書く場合にどんな切り口があるのかと不思議に思ったからだ。
そして、読んでみると、本書は、その期待に応えてくれる内容で、かなり多くの人に「自分に関係あること」として読まれる文章になっていた。


作者は10万件もの名づけ相談を受けている命名研究家で、本の構成は以下の通り。

  • 第1章 めずらしい名前など、めずらしくない
  • 第2章 名前は子供の人生を決めるのか
  • 第3章 名前で見る日本の世相
  • 第4章 奇抜な名を生む深層心理
  • 第5章 無力感はなぜ「自由」を叫ぶか
  • 第6章 名前にまつわる数奇な運命
  • 第7章 珍奇ネームは私たちへの警告である
  • 第8章 正しい名づけの方法


第1章、第2章は、上に書いた(1)(2)をなぞるような内容となっている。しかし、上から目線で嘲笑う内容にはなっていない。作者は、あくまで中立な立場からこれについて論じたいとして、相手をけなす意図のある「ドキュンネーム」や、無条件に褒める意図のある「キラキラネーム」を使わない。代わりに使うのは「珍奇ネーム」という独自の言葉だが、読者側としても、これらの名前とフラットに向き合うことができて、この試みは成功したように思う。


さて、定番的な内容を終えて、「名前の流行は世相を表している」とした第3章あたりからが面白い。
ここでは、大正時代からのデータがある明治安田生命の人気名前ランキングの資料から、以下のような傾向について説明している。

  • 医者の少ない大正〜昭和初期は「久子」や「千代子」が人気
  • なかなか勝てない戦争をしていたときは「勝」「進」「勇」などが人気
  • 戦後の食糧不足の時代には「茂」「稔」「実」「豊」などが人気
  • バブル経済の時期は「愛」が人気
  • 平成に入ると、「海」「空」など大自然を表す言葉が人気

例で挙げられたように、名前にあらわれる世相とは「その時代に強く求められながらも、手に入り難いもの」を指しているというのが作者の主張。
戦時中の名前で「勝」が多いなど、昔から言われていることでもあるので、特に新しくはないが、第4章へのつなぎとして非常に機能しているように思う。


そして、4章〜7章。ここでの主張を短く言うと「親が無意識に持っている感覚が、名づけや言葉によって、子どもの無意識の中に伝わり入り込んでいく」というもの。
作者によれば、「名前負け」がなぜ起きるのかといえば、親が不安を打ち消すために名づけをするような場合、むしろ不安を抱くような環境や親の性質が存在し、そこから子どもが負の影響を受けるからだという。例えば「勉強を怠けないように“勉”の字をつけよう」といった不安感で名づけをした場合、勉強はつまらない、苦しいという感覚が子どもに影響して、かえって子どもが勉強を嫌いになる。
同様に、親の持つ無力感、欠乏感、コンプレックスを払拭するために、代償行為として名づけをした結果が「珍奇ネーム」ということになる。

珍奇ネームにこだわる人の心のなかには、「自分はこうでありたかった」「自分にはこれがない」という無力感が働いています。その結果、ことさら名づけの基本を無視して脱線し、「世の中の常識なんかに左右されない」「自分の個性を発揮して名づけをしている」という逸脱した形をとることになるのです。(略)
名づけこそ、自分が主導権をもって行った証であり、なおかつめずらしく見た目もよければ、自分の心が満たされることにもつながります。(略)言いかえれば「主導権がない」という欠乏感、「力がない」という無力感が、珍奇ネームを生んでいるのです。(p113)

この本が凄いのは、この結論部分が自身の体験に裏付けられている部分。あまり見たことがなく、読みも難しい「恭仁雄(くにお)」という名前から、父親の抱えていたコンプレックスを読み解き、それが自分にも伝わっていることに気がついたという話は、この本の主張に説得力を与えている。
親が子に与える代償行為の話は、名づけのみならず、ファッションや習い事から、叱る言葉まで、さまざまな部分に通用する話で、自分にも思い当たる部分があり過ぎていやになる。(例えば、自分の嫌いな面、自分が苦手な部分を、子どもに見つけて強く叱った経験は多数ある)


「珍奇ネーム」が増えている状況について、作者は7章でもう少し踏み込んで、現代日本を、マニュアルやレールの敷きつめられた「巨大な先回り社会」とし、多くの人が「自分の意志で強く生きている」という実感をなくしていると説明する。
我々が行うべきことは、自分自身のかかえる無力感と向き合い、正体をつかみ、無意識の世界から引っ張り出してコントロール下に置くことだ、とする作者の主張は、非常に納得のいくものだ。
貧困の連鎖や格差の固定化など金銭的な部分が親から子に受け継がれることが問題視されることが多い。しかし、それと同じくらい「劣等感」が受け継がれていくことの問題は重要視されてもいいかもしれない。
自分は、子どもに、また下の世代に何を伝えていくのか、という以上に、伝わって欲しくないものが伝わっているという事実にぞっとさせられた本だった。