Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

色眼鏡とどう付き合うか〜倉本智明『だれか、ふつうを教えてくれ!』

だれか、ふつうを教えてくれ! (よりみちパン!セ)

だれか、ふつうを教えてくれ! (よりみちパン!セ)


中高生向け新書ながら尖った内容で、しかも、最近話題となった出来事とリンクするところもあり、面白く読みました。著者の倉本智明さんは20代前半までを弱視者として過ごし、現在はほぼ全盲の方。この本の主張は、あとがきに上手くまとめられています。

多くの人たちが「ふつう」であると見なしている事柄のなかには、前提とするものがそもそも偏っているために、一部の人たちに不利にはたらいたり、どんなに努力しても決まり事を守ることが困難であるようなものがたくさんあります。
だから、「ふつう」と見なされている事柄について、もう一度じっくり吟味し、それがさまざまな特徴をもつさまざまな人びとの存在を可能な限り考慮したものになっているかどうかを検討したい。その上で、もし偏りが発見されたなら、その解消法について考えていきたいというのが、この本で僕が主張してきたことです。(あとがき)


これを説明するために、自身が実際に体験したエピソードを含めて以下のような事例を挙げています。

  • 全盲者の4人に1人はホームからの転落事故を経験している(第2章「誰にとっての「ふつう」なの?」)
  • 弱視など軽度障害者への対策は進んでおらず、その困難が重度障害者以上となることもある(第3章「どっちつかずである生きにくさ」)

ここでは、障害者の経験する困難の原因は、手足や目が「不自由」であることからもたらされるのではなく、社会の仕組みによってもたらされている側面も大きいこと。そして、社会が前提としている「ふつう」は相対的なものに過ぎないということが語られます。


この辺りは、障害者として感じる社会に対する不満で、気が付かなかった部分もあり勉強になりました。
しかし、この本が面白いのは、社会ではなく個人に対して、それも親切にしてくれた人に対しても正直に不満を述べる部分です。特に、1章のエピソードが印象的でした。
小学校高学年になって周りが始めた野球というゲームに、弱視だった倉本さんは(少し離れるとボールが見えないため)楽しむことができません。そこで、倉本さんが参加できるように、友だちが変則ルールを作ってくれたというエピソード。乙武洋匡さんの『五体不満足』にも同様のエピソードがあるとして、『五体不満足』の文章を引っ張ってきて次のように述べます。

乙武さんは、「みんなは、『あの子は障害者でかわいそうだから、一緒に遊んであげよう』という気持ちで、こうしたルールを考え出してくれたわけではない。クラスメイトのひとりとして、ケンカをするのもあたりまえ、一緒に遊ぶのもあたりまえだったのだろう。ボクもボクで、そのことを『あたりまえ』と受け止めていた。」ということばで、このエピソードについての文章を締めくくっています。ぼくやぼくの友だちの意識も、おそらくはそのようなものだったんじゃないかと思います。
ただ、ぼくは乙武さんのように、ここでエピソードを閉じることができません。というのも、せっかくみんなが考えてくれたルールではあったんだけれど、実際にやってみると、これがかなりつまらないものだったんですよね。(p25)


ここでの主張は、健常者と障害者の「共生」は、そんなに簡単ではないということでした。つまり、こういった野球のエピソードは、「共生」という文脈で美談として語られがちですが、当事者の率直な感想からすると、実際にはちょっと違うんじゃないかと倉本さんは言いたいわけです。
ふわふわとしたイメージだけで「共生」と言うこと、内実を問うことなく安易に「共生」を見出すことで覆い隠されてしまうもの(p34)を、まず自身の体験から表に出して、読者に問いかけている部分です。


この部分や、この本の4章以降の内容は、ちょうど、数日前に乙武さんが佐村河内さんの一連の騒動について書いた記事と内容がシンクロしています。
乙武さんは、最近は「コンテンツ(小説や映画、音楽の「中身」そのもの)からコンテクスト(文脈のこと:、「どんな人物が」「どのように生み出したのか」という物語)へ」という流れがあり、佐村河内氏名義の作品は、まさにこの“コンテクスト”を重視した手法であることを挙げながら、「コンテクスト」について以下のように述べています。

じつは、私自身、この“コンテクスト”には幼い頃から苦しめられてきた。先天性四肢欠損という障害に生まれながら、健常者とともに育ってきた私は、周囲の大人たちから事あるごとに褒められてきた。「すごいね」「よくそんなことできるね」――しかし、私がやっていることと言えば、歩く、食べる、字を書くといった、ごく基本的な動作。それを褒められるたびに、子どもながら違和感を覚えていた。みんなと同じことをしているだけなのに、どうして僕だけが褒められるのだろう、と――。
? 答えは、すぐに出た。私が、障害児だからだ。「どうせ、この子は何もできないだろう」という前提があるからこそ、みんなと同じことをしただけで「素晴らしいですね」と評価される。私が何をしたって、その“行為”そのものではなく、「どんな状況にある子が」それをしたのかという“文脈”がついて回った。


乙武さんは、だから「コンテクスト」抜きで「コンテンツ」のみで評価すべきだ、と主張するわけではありません。「幼少期からずっと“コンテクスト”に苦しめられてきた私でさえ、他者に視線を向けるときには思わず“コンテクスト”を意識してしまう」ことを自覚しており、それらが簡単に分離できるものでない以上、「コンテクスト」を含んだ評価に罪はない、と言っています。自分もこの意見に賛成です。


本の内容に戻りますが、倉本さんは4章の「先入観が見えなくさせるもの」「かたまりとして見るという暴力」という文章で、こういった「コンテクスト」のみで障害者を見ることについて警鐘を鳴らしています。一方で、当人が障害者であっても、自分たちとは異なる種類の障害をもった人たちについては、安易なイメージで見ている場合も多いということにも触れており、つまりここでもコンテクストからは逃れられないということが語られます。
それではどうすればいいのか、という部分が、この本の一番のポイントです。

障害者であろうが、健常者であろうが、人間を簡単に理解するなんてことは、もともとできっこないことなんですね。ところが、「障害者」についてはひとくくりにされて、あたかもそれが可能であるかのような誤解が、なぜかはびこっています。
こころのありようなんてものはもちろんのこと、何に困っているか、どうしたらいいのか、といったことについても、丸ごと知るなんてことはできませんし、する必要もありません。
むしろ、大切なのは、「自分は相手のことをわかっていないんだ」ということをちゃんと知っておくことではないでしょうか。「わからない」ということをわかっていれば、相手のことばにしっかり耳を傾けることもできます。(p117)

問題は、「向き合うべきは誰なのか」ということなんですね。本で読んだり、授業で聞いたり、経験を積むなかから得られるものはもちろんたくさんあります。けれど、向き合うべきは、あくまで、他ならぬ目の前にいる「その人」なんです。教科書でも、先生の話でも、ボランティアのマニュアルでも、過去の経験でもない。(略)
知識でもって現実を解釈するのではなく、現実と照らすなかで、知識に修正を加えていくことが大切です。そのためには、「自分はわかっていないんだ」ということをわかっている必要がある。(p125-126)

障害者(そして健常者)の悩みがひとそれぞれ異なる以上、施設(エレベータや誘導ブロック)だけでバリアフリーの社会が実現するわけではありません。障害者の人たちが過剰に困難を感じないようなルール作り、施設整備と併せて、やはり目の前にいる人の意見に耳を傾けて行くことが必要だと、この本は説きます。


少し考えてみれば、STAP細胞で話題となった小保方晴子さんをめぐる話題も、同じ構造となっていることに気が付きます。
報道は、研究者の暮らしぶりよりも研究内容に焦点を置いたものであるべきだ!という意見は、コンテクストよりもコンテンツを、という意見と似ています。
しかし、自分自身も、乙武さんの意見に賛成なので、両者を切り分けることは難しいだろうと思うのです。また、興味の持ち方として、多くの人が関心を持てる様々な入り口が開かれている方が、科学の発展に繋がるとも思います。

ただ一方で、小保方さんが出した意見は尊重されるべきだと思います。特に、取材方法などは見直すべき点が多数あったのでしょう。新しいルール作りが必要かもしれません。また、自分を含め報道内容を受け取る側にも、必要以上に割烹着を、ムーミンを、リケジョを煽るムードがあったことはやはり反省すべき点だと思います。


倉本さんの本と、乙武さんの記事を読み、相手が誰であっても目の前にいる人の意見に耳を傾けることの必要性を改めて感じました。また、「コンテクスト」という“色眼鏡”から逃れられない以上、本や映画、いろいろなものを通じて学ぶことで色眼鏡の精度を高める努力を続けていきたいと思っています。