Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ラストについて他の人の意見を知りたい〜平山瑞穂『四月、不浄の塔の下で二人は』

5月に行われた第二回ビブリオバトル社会人大会決勝のゲストバトルで岡田育さんが紹介されていて、とても興味を持った本。(実際に、読みたくなった本として手を挙げたのもこの本)
平山瑞穂さんは、そこで知ったので作品を読むのは今回が初めて。

消息を絶った兄を連れ戻すために「免穢地」を出立した「エンノイア」。新興宗教教祖の娘として純粋培養された少女は、小さな町工場に勤める「泥人」の青年らとかかわることで少しずつ変わっていく…。多彩な作風で幅広い読者を持つ気鋭の作家・平山瑞穂が描き出す、異色のラブ・ストーリー

ファッションや食事、お金の仕組みに至るまで、当たり前のことを全く知らない主人公が、少しずつ「常識」を身につけて行く。
仮に、この話の主人公が、宇宙人や古代人や途上国の外国人だったら、平凡な話だっただろうが、日本にありながら日本社会と断絶された特殊な社会で17歳まで育った少女が主人公という設定こそがこの小説の核。
例えば、序盤で、主人公の静(エンノイア)が、初めて「音楽」(物音でもなく、人の話し声でもないもの)を知り、テレビから流れる音楽に対して警戒感を持つ部分などは面白い。

これに惑溺してはならない、とわたしは何度も自らを戒めなければならなかった。わたしがテレビを見るのは、あくまで被造世界についての知識を増やすのが目的だった。こんなものにうつつを抜かしていたら、知らぬ間に魂が汚染され、低い次元にまで自らを貶めることになるだろう。p146

そして、被造世界(ここでは宗教団体外部の世界を指す。そこに住む人を「泥人(でいじん)」と呼ぶ)に住んでからだいぶ日が経ち、12月の自分の誕生日を祝ってもらう場面では、その心情がかなり変化していることが分かる。

わたしは自分の中で、相反する二つの感情がせめぎ合っているのを感じた。ひとつは、いかにも泥人らしい愚かな蛮習を愚直になぞる彼らに対する哀れみであり、もうひとつは、胸の奥から湧き上がってくる、ある名づけがたい心の揺らぎであった。p235


「穢れた社会」と教えられた現代日本を、実際に自らの目で確認することによって、彼女が、「免穢地」(新興宗教の共同生活地)では得られなかった「美味しい」「カワイイ」などの概念を獲得し、自らの認識を改めて行く、というのが全体的なストーリーだが、その中に、純愛度200%のラブ・ストーリーが絡められているのがポイント。
数学ガールに出てくるミルカさんみたいな、表情を崩さないロボット的な口調で喋る主人公の内面が次第に和らいでいくのは、読者のわくわく感を煽り、実際、読んでいて楽しかったし、常に続きが気になる物語だった。
また、タイトルも、表紙デザインも、物語のイメージに合っており、一冊の本としても結構なお気に入りだ。


ということで、全体的には好きな本なのだが、この終わり方には違和感がある。
これについてはどうしても文章に書いておきたい。
(以下ネタバレ)








ラストで静(エンノイア)は自らが教団に戻り、光の民たちを正しい方向に導いていくことを決心する。
一つ目の違和感は、このときの「正しい方向」ということについてだ。
自分としては、静には「正しい」ことがすぐには見つからないことに気が付き、迷い続けてほしかった。
ラストで固く決意する静の姿は、教団の再建を誓って「免穢地」を出発したときの彼女自身に重なって見える。

この世界のすべてがよいものだとは思っていなかった。光の民が信じてきたことは、ある程度までは正しい。しかし、わたしはこう問いたいのだ。泥の中にあるからこそ輝きを増す石というものがあるのではないか。穢れの中で際立つからこそ価値を持つなにかが、この世にはあるのではないか。よい面と悪い面を併せ持っていて初めて、世界は生きるに値するものになるのではないか、と。ここでさまざまなものごとに触れてそれを知ったわたしには、民たちを説得し、この世界の正しい姿に直面させる責任があるのだ。p316

ここで彼女が言うことは間違っていない。しかし、言うなれば「中2」的だ。
世の中には「正しいこと」がある!それを知った自分は、まだ知らない人たちに、それを知らしめなければならない!
このような若過ぎる、青過ぎる意見は、誰もが通る道かもしれないが、説得される相手の反応を十分に想定していない。視野が狭いことが若さの良いところでもあり、悪いところでもある。
ただ、彼女が、特殊な境遇ゆえに他と比べて「無垢」だからということはあるだろう。その意味では、彼女の決心は、その性格に適っており、物語的には正しいともいえる。


そうすると、もう一つの違和感の相手こそが問題だ。
彼女の固い決意を前にして、もう一人の主人公・杉本諒は彼女を止めない。これはどうか。
一癖も二癖もある「光の民たち」を説得することが静にできるとは到底思えない。
それだけでなく、今、教団に戻ることは彼女を追い詰めることになる、と普通だったら考えるだろう。
実際、英一(ヌース)と会う前に、彼女の告白を聞いて、諒は静に同情する。

諒は静の熱い吐息を胸に感じながら、教団の中で生まれ育ったらしいこの少女の、これまでの人生を思った。そして、わずか十七歳にして教団の再建という重荷を背負わされ、見知らぬ外の世界で、勝手もわからないままたった一人で「使命」を果たそうと努めてきたその孤独を思った。p281

さらに、静の兄である英一(ヌース)からは、別れ際に次のようにアドバイスを貰う。

こいつはもう、そう長いこと持ちこたえられねえ。俺も同じだったからわかる。信じてきたことが全部頭の中で崩壊して、わけがわからなくなっているんだ。それからがたいへんなんだよ。そばにいてやってくれ。こいつに必要なのは、たぶんあんただ。p294

この時期は、桜が満開というから3月末〜4月上旬。スカイツリーで静が決意を語るのは4月最初の日曜日なので、英一のアドバイスから一ヶ月も経たない時期に、彼女を一人で行かせるのは危険すぎるように思う。
2人がスカイツリーに行ってからラストまで、静の一人称で物語が綴られることも、さらに不安を掻き立てる。一方で、自分でここまでの流れをおさらいしてみて、その不安感こそが作者の狙いであるようにも思える。
しかし、明るい方向に向かっていると信じる静にラストシーンを語らせて、読者の不安感を煽るというのはやや意地悪すぎる気がする。
と考えると、自分が望んだラストシーンは、静の決意を諒が引き留めるか、サポートするかのどちらかしかあり得ない。少なくとも諒は、静に対して主体的なアプローチをすべきだったように思う。それこそが二人が出会った意味だと思うから。
この終わり方について、他の人はどう思っているのだろうか。全体的には面白いし、登場人物も好きだが、ラストについては久しぶりに物申したくなる小説だった。読み終えた人には、このラストがどう映ったのか是非教えてほしいと思った。


平山瑞穂さんの作品は他のも読んでみたいです。次は日本ファンタジーノベル大賞を取っている『ラス・マンチャス通信』かな。

ラス・マンチャス通信 (角川文庫)

ラス・マンチャス通信 (角川文庫)