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お盆に読むべき傑作ファンタジー・ホラー〜恒川光太郎『夜市』

夜市 (角川ホラー文庫)

夜市 (角川ホラー文庫)

6月にビブリオバトルで知った本。本の紹介時には「美しい」という賛辞ばかりが印象に残り、むしろ美的センスのない自分に合わない本なのではないかと思った。しかし、「名門」である「角川ホラー大賞受賞作」であり、かつて慣れ親しんだ黒い背表紙に惹かれて、読んでみることにした。


さて、読み終えると、紹介されていた方の賛辞ばかりのプレゼンも納得の内容。
ホラー文庫巻末の東雅夫さんの解説も、ホラー大賞の選考委員の言葉も引用しながら絶賛の嵐なのだ。

「驚異の新人」といった類の謳い文句を冠されて世に出る作家は珍しくないが、額面どおり、真に驚嘆に値するような例は、残念ながら決して多いとは云えない。
その稀有なる一例が、本書『夜市』で2005年にデビューした恒川光太郎である。
p211東雅夫

この作品はファンタジーの典型で物語が進む。となるとオチも予測がつき、あとは嘘を現実と思わせる描写や主人公の思いの深さとかで勝負となるわけだが、まるで違っていた。あることが明かされたときから世界が完全に逆転する。襟を正すとはこのことで、気合を入れて読まないと著者の企みを見落としそうになる。そして奇跡とも言えるエンディング。ファンタジーが見事なまでの現実世界に転換する。
p214高橋克彦(選考委員)

幻想的な美しさをかもし出す無駄のない文章、抒情的ではあるが、余分なセンチメンタリズムに陥らない知的な文章である。
p214林真理子(選考委員)

作者の文章には、奇を衒った表現や難解な語彙など、まったくといってよいほど見当たらない。レトリックに凝るタイプではないのだろう、作中で用いられる個々の言葉自体は、いたって平明で、誰もが思いつきそうなありふれたものばかりなのに、それらが細心の手つきと豊潤なインスピレーションで組み合わされることによって、誰も思い描いたことのないような、この世ならぬ奇妙な輝きを放つ世界が活き活きと描き出されてゆく過程は、なにやらん魔法か幻術の類を見せられているかのようだ。
p214東雅夫


***

ホラー映画を思い出すと分かるが、怖いという気持ちは「驚く」こと、もしくは「驚きに対する予感」という気持ちと非常に近い。だから、驚かせるのが専門のミステリも、本当に驚くような作品はホラー寄りになる。
ミステリ小説のように人を驚かせるために書かれる小説は手品に喩えられることが多い。手品にも色々あって、イリュージョンのように大がかりな手品からテーブルマジックまで様々だ。


恒川光太郎『夜市』の手品は、通常は1セット(52枚)使用するトランプマジックを、7枚という最小限でやってみせる。
ここで7枚と言っているのは、よく言うところの短期記憶で覚えておける数。*1
それより数が多いと、目の前で起きたことが瞬時に理解出来ず、ページを遡って状況を再度確認したりする。
『夜市』の凄いところは、そういうところがほとんどないこと。7枚のカードは、最善のタイミングでめくられていき、そこまで開かれているカードでこれから起きることが予想できるのに、実際に見てみると手際が鮮やか過ぎてため息が漏れる。


(※)
その意味では、一番の問題は、裏表紙のあらすじ。
この物語は、恒川光太郎の手品を、その順に味わう必要があるので、読んではいけません。
また、未読の人で既に本を読むことを決めた人は、以降の文章は内容に触れた部分があるので、すぐに画面を閉じたが良いと思います。
(※)


さて、この本が凄いところは、一緒に収録されている「風の古道」が同様に滅法面白いところ。
この2話がセットで一冊の文庫本というのが良い。ビートルズの「ペニー・レイン」と「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の両A面シングルのように最強というだけでなく、話が地味にリンクしている。また、話のテーマ・構造がほとんど変わらないところが興味深い。


2作は、東雅夫さんも解説で書いているが、「異界往還」というテーマが共通する。
自分が小学校高学年のときに物語を書かせる授業があったが、男子の書いた物語のほとんどが、異世界に行って帰ってくる話で、しかも夢オチだった。(自分も含む)
毎年やっているドラえもんクレヨンしんちゃんの映画もやはり同様だ。
よく考えてみると、ステレオタイプで陳腐な話となることも多い「異界往還」のパターン。基本的なフォーマットにしたがった上で、しっかり驚かせてくれるのが、恒川光太郎の手品の凄いところ。


さて、そんな2作に共通するテーマ以外の魅力について考えてみた。
短い言葉でまとめてしまうと「美しい」とか「シンプル」とかになるが、それを形作る要因を、いくつか本文からの引用とともに挙げてみる。

(1)言葉選び

2つの中編は、確かに異界を舞台としているが、フィクショナルな存在の者でも最小限の言葉で説明される。むしろ、その言葉が自然過ぎて、すぐには違和感を覚えないほどだ。例えば、「夜市」に入って初めて会った人物の描写は以下の通り。

最初に姿を現したのは永久放浪者だった。永久放浪者は、商品を並べた黒い布を地面に広げて、その前に座って煙管(キセル)をふかしていた、並んでいる商品は石や貝殻だった。
「夜市にようこそ。世界の石や、貝だよ。」
p14

永久放浪者の説明は全くないが、確かに異界の者だと感じられる造語だ。さらには実はこの言葉は2編を結ぶキーワードの1つで、『風の古道』の方では、永久放浪者について説明があったりするところも面白い。

(2)異界の予感

当然、「異界往還」というテーマなので、異界から始まる物語ではない。
必ず日常世界から異界に入り込むシーン(往還の「往」)がある。
その入り口の描写が、予感に満ちていて最高過ぎる。
特に、「風の古道」の未舗装道のくだりは、奇妙過ぎない伊藤潤二という感じで自分好みだ。

おばさんは指で道の先を指し示した。
武蔵野市だったら、この道をずっと向こうに歩いたらつくから。ぼく歩ける?寄り道しないでまっすぐいくんだよ。夜になったらお化けが出る道だからね。」
瞬間、得体の知れない不安を私はおぼえた。「お化けが」のあたりで、おばさんの声が妙に太くなったような気がしたのだ。
おばさんは、私が礼をいおうとした時にはもういなくなっていた。
(略)
歩いていると、この道には未舗装という点以外にも、ただならぬ奇妙さがあることに気がつく。
道の両脇の風景はブロック塀や生垣、板塀に囲まれている家が並んでいたが、どの家も玄関を道側に向けていなかった。両脇に立つ家がこの、路地裏と呼ぶには少しばかり幅の広い未舗装道に向けている向きは、一つ残らず、後ろか、もしくは側面なのだ。表札付きの門など一つもなかった。また、電信柱もなかった。郵便ポストもなかったし、駐車場もなかった。
p100(風の古道)

(3)異界のルール

SFもしくはファンタジー的な部分であるのだが、異界には異界のルールがある。2つの中編は、どちらも、そのルールを下敷きにしてクライマックスでの「取引」をどうするのか、が話を盛り上げる仕掛けになっている。そこでは、日常世界ではあり得ない取引を迫られる。
設定だけ見るとファンタジー小説である2作を、ホラーたらしめているのは、この「取引」の部分なのかもしれない。

店先で何度も道を尋ねたが、答えはいつも同じだった。
「何も買ってないんだろう。出られやしないよ。この夜市は生きているんだ。ここは取引をする場所なんだよ。家に帰りたければ取引をするんだ。」
p26(夜市)

(4)倒叙(人物の一致)

ここは少しだけネタバレになるが、2つの物語には、どちらも登場人物の一人が、自らの過去を語り出すシーンがあり、それらの話の中で、もしくはそれらの話を聞いて、過去に登場する人物が、他の人物と一致することが分かってくる。
実は、これはトランプ手品のタネの部分で、普通はこれをどれだけ効果的に見せることができるかにアイデアを押し込む。
しかし「夜市」「風の古道」とも、この種明かしは控え目で、全くこれ見よがしな仕掛けになっていない。全体のバランスを崩さない程度になっている。
この部分の「引き算」のエンタメ小説なところが、恒川光太郎の魅力なのかもしれない。

まとめ

来週はお盆ということで、『夜市』や『風の古道』で描かれるような「異界」に一年で最も近くなる時期。
この時期に、この本を読めるのはサイコーの贅沢です。
ここまで読み進めてきてしまった方も、二つの物語がどんなものなのか、は、よく分からないままだと思いますので、是非是非読んでみてください。
自信を持ってオススメします。


最後に、印象に残っている『風の古道』のエンディングから引用。

これは成長の物語ではない。
何も終りはしないし、変化も、克服もしない。
道は交差し、分岐し続ける。一つを選べば他の風景を見ることは叶わない。
私は永遠の迷子のごとく独り歩いている。
私だけではない。誰もが際限のない迷路のただなかにいるのだ。
p210(風の古道)

*1:このことを、よく、マジックナンバー•オブ•セブンといいます。