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好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

誰があの子を救えたか〜森絵都『つきのふね』

つきのふね (角川文庫)

つきのふね (角川文庫)

川崎市多摩川河川敷で中学一年生が殺害されるいたましい事件が起こった。
被害者少年が息子の年齢と近いこともあり、自分も気になっている。
この事件に対しては、背後関係がわかってくるにつれて、被害者となった少年のSOSを汲み取り早期に行動に移せば事件を未然に防げたのではないか?というような論調が社説などで目につく。


典型的なものから引用すると以下のような内容だ。

非行傾向のある少年グループに入った子どもの不登校問題は学校だけでは対応しきれなくなっている。スクールカウンセラーや福祉の専門家、場合によっては警察とも早期に相談して連携する必要があるのではないか。
今回注目すべきは、子どもたちが携帯電話や無料通信アプリ「LINE(ライン)」で築いている「大人に見えない世界」だろう。LINEなどの交友関係は学校や年齢の枠を超えて広がる。従来の発想では捉えられない子どもたちの関係にも目を向けたい。
こうした現象は程度の差はあれ、各地に共通するだろう。今回の事件を川崎市だけに特有のものと考えるわけにはいかない。
上村君はLINEに危険な状況を訴える書き込みをしており、友人たちは共有していた。SOSをどうすれば大人が察知できるのか。社会全体で考えていきたい。


こういった意見には反対するものではないが、今回の事件に対して本当に有効だったのかという部分に違和感を覚える。
だけでなく、何処かツボを外している気がする。
そんなモヤモヤした思いを抱えているときにこの本を読んだ。

あの日、あんなことをしなければ…。
心ならずも親友を裏切ってしまった中学生さくら。
進路や万引きグループとの確執に悩む孤独な日々で、唯一の心の拠り所だった智さんも、静かに精神を病んでいき―。
近所を騒がせる放火事件と級友の売春疑惑。先の見えない青春の闇の中を、一筋の光を求めて 疾走する少女を描く、奇跡のような傑作長編。


冒頭で、主人公さくらは、人間関係くたびれて「植物がうらやましい」、植物のように「潔く」生きたいと言う。
これはつまり、この物語が、人間として「潔くなく」、つまり「あがいて」生きることによって、(植物では得られない)何が得られるのか、を提示することを宣言しているのだが、実際にストーリーはそのように進んで行く。
少し前から、親友の梨利と口も聞かない仲になってしまったさくらのことを心配する(梨利一筋の)勝田君。そして、さくらを窮地から救ってくれたフリーターの智(さとる)さん。
この4人の中心的な登場人物のうち、梨利は不登校になり、智さんは心の病気が悪化してしまい、さくらと勝田君は、二人を救うために奔走するというのが基本的なストーリー。


物語の中心的なメッセージは、ウィーンに留学中のチェリスト露木さんから智(さとる)さんに送られた手紙の中に登場する次の言葉に込められている。

人より壊れやすい心に生まれついた人間は、それでも生きていくだけの強さも同時に生まれもってるもんなんだよ。


そして、この本を読み通せば、このあとには次の言葉を続けたくなるんじゃないかと思う。

そして、(人より壊れやすい心に生まれついた人間は)その言葉と行動で、誰かの弱った心を救ってあげることができる
むしろ、壊れやすい心を持っている方が、弱い誰かを救う力を持っている

『つきのふね』では、子どもたち中心で物語は動き、そしてチェリストの露木さんの言葉通り、智さんは、そして梨利は、ラストで自分を取り戻す。


川崎市の事件では、当初、子どもたちだけで解決の道を探っていたようだ。
結局、それが逆恨みの原因となり、今回の事件の引き金となってしまったと報じられている。しかし、だからと言って、子どもだけでの解決は不可能で、逆に大人であれば解決できるとはどうしても思えない。
当然「大人の責任」という部分もあるが、一連の新聞記事の意見には「大人のおごり」を感じた。そこが違和感の理由の一つ目だ。


『つきのふね』に戻る。
対象読者も、物語の主要人物も「子ども」であることで、都合良過ぎる非現実的な展開になってしまうというYA小説の陥りがちなジレンマに、この物語はちゃんと配慮がされていると思う。

自分の体まで傷つけてしまった今、智さんをひとりにさせるのは心配だ。かと言って、あたしたちがついていったってなにができるわけでもない。智さんの中でなにが起こっているのかもわからないのに、助けになれるわけがない。
「家族はなにしてんだ?」
ついに勝田くんが「家族」の一語を口にした。
あたしは「さあ」と首をふった。p114


ということで、当初は「いやな大人」として登場した「へび店長」が、実は(身よりのない)智さんの叔父だったということもあり、2人の中学生は大人の協力者を得る。だけでなく、へび店長は、身を粉にして智さんを助けようとする。
ラストシーンで出てくる「つきのふね」が、へび店長からの贈り物だったことが象徴的だが、救い、救われたのは4人だけではないのだ。


川崎市の事件に戻る。
『つきのふね』でも示されているように、こういうときに必死になれるのは家族や友だちであり、逆に家族や友だち関係が浅いものであれば、SOSを察知するためのどんなに素晴らしい仕組みを作っても、本人のことを全く知らないような関係者が増えるだけに終わるように思う。事実、今回の事件でも、途中段階で警察が関与しているが、十分に機能していない。加害者少年に抗議した「友だち」の方がよほど役に立っているように思える。

  • 被害者少年は母子家庭で、母親は仕事で忙しく、学校側も連絡がつけにくかったようで、彼女自身も、息子のSOSを十分に受け止められなかった。
  • 学校側も教師が多忙で、スクールソーシャルワーカーなどの既存の仕組みを利用することができなかった。*1

ということであれば、同様の状況(殺人事件まで行かなくても不登校といじめが重なるような状況)を、真に防ぎたいと思えば、こういった福祉や教育の部分をテコ入れするしかないのではないかと思う。
よく言われるように、少年犯罪は経年的に見て減少しているし、今回のような事件は非常に特殊であって、こういったことが全ての中学校で起きているかのように対処を急ぐ必要はない。しかし、事件の背景になっている現代社会の問題を考えるいい機会だと思う。
事件の全貌が明らかになったわけでもなく、あまり結論を急ぎ過ぎず少しずつ考えて行きたい。


ということで、『つきのふね』からは、かなり離れてしまったけれど、色々なことを考えさせてくれる本でした。好きな言葉は、勝田くんの「自分だけがひとりだと思うなよ!」という捨て台詞です。