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昔話の理屈っぽい亀、雀、狸〜太宰治『お伽草子』

お伽草紙 (新潮文庫)

お伽草紙 (新潮文庫)

お伽草紙

お伽草紙

古典・名作などと呼ばれる分野は「読まなくちゃ」という義務感めいた気持ちがあるために、かえって手を伸ばしづらい。太宰治も『人間失格』を読んだきりだし、夏目漱石森鴎外もほとんど読んだことがない。
しかも太宰治については、初めて本として読んだ『人間失格』自体が、あまりに自分に合わない物語だったので、よほどのことがない限りもう読まない(つまり一生読まない)のかと思っていた。
しかし、清水義範の短編「猿蟹合戦とは何か」のあと、これだったら読めるし、よう太*1にも薦めやすそうだと元ネタになっているこの本にトライ。すると、予想外に面白く、面白いだけでなく、はじめて太宰治という人間に好感を持った。
パロディ的な趣向はむしろ清水義範「猿蟹合戦とは何か」よりも強く、太宰治の人間観・人生観が反映されている。
準備運動的な「瘤取り」を除く3作品には、中二病的感性が全開で、リツイートを繰り返される人気ネット記事を読んでいるような気分になる。


例えば、「浦島さん」では、竜宮城に行くまでの浦島太郎と亀の会話がくどいが楽しい。浦島太郎も、理屈っぽいインテリニートながら、対するカメも浦島に輪をかけて理屈っぽい。中でも、冒険に否定的な浦島太郎に「冒険心」についてを説く部分は、なかなかの名言だ。
※ここの部分については、別のエントリで取り上げる予定のため省略。


他にも、浦島太郎を知っている誰もが感じるラストシーンへの疑問、つまり、浦島太郎が一瞬にして白髪のお爺さんになってしまう玉手箱の意味について文章の一番最後で掘り下げられているが、ここも読ませる。

いづれにしても、あの真の上品(じやうぼん)の筈の乙姫が、こんな始末の悪いお土産を与へたとは、不可解きはまる事である。パンドラの箱の中には、疾病、恐怖、怨恨、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎悪、呪咀、焦慮、後悔、卑屈、貪慾、虚偽、怠惰、暴行などのあらゆる不吉の妖魔がはひつてゐて、パンドラがその箱をそつとあけると同時に、羽蟻の大群の如く一斉に飛び出し、この世の隅から隅まで残るくまなくはびこるに到つたといふ事になつてゐるが、しかし、呆然たるパンドラが、うなだれて、そのからつぽの箱の底を眺めた時、その底の闇に一点の星のやうに輝いてゐる小さな宝石を見つけたといふではないか。さうして、その宝石には、なんと、「希望」といふ字がしたためられてゐたといふ。これに依つて、パンドラの蒼白の頬にも、幽かに血の色がのぼつたといふ。それ以来、人間は、いかなる苦痛の妖魔に襲はれても、この「希望」に依つて、勇気を得、困難に堪へ忍ぶ事が出来るやうになつたといふ。それに較べて、この竜宮のお土産は、愛嬌も何もない。ただ、煙だ。さうして、たちまち三百歳のお爺さんである。よしんば、その「希望」の星が貝殻の底に残つてゐたとしたところで、浦島さんは既に三百歳である。三百歳のお爺さんに「希望」を与へたつて、それは悪ふざけに似てゐる。どだい、無理だ。

話者(太宰)も、このラストシーンには強い疑問を感じていたことがまず語られる。しかし、このあとで語られる解釈はなかなか説得力があり、それだけで、この話は成功しているのではないかと思わされる。気になった人は、是非、リンク先の青空文庫で確認して頂きたい。


「カチカチ山」については、兎を若い女性、狸を中年男性とした話に改編されている。無能でいやらしい狸と、軽蔑する相手には残虐な仕打ちも躊躇しない兎との対決はなかなかの見物だが、この話は以下の通りに締められている。

ところでこれは、好色の戒めとでもいふものであらうか。十六歳の美しい処女には近寄るなといふ深切な忠告を匂はせた滑稽物語でもあらうか。
或いはまた、気にいつたからとて、あまりしつこくお伺ひしては、つひには極度に嫌悪せられ、殺害せられるほどのひどいめに遭ふから節度を守れ、といふ礼儀作法の教科書でもあらうか。
或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌ひに依つて世の中の人たちはその日常生活に於いて互ひに罵り、または罰し、または賞し、または服してゐるものだといふ事を暗示してゐる笑話であらうか。
いやいや、そのやうに評論家的な結論に焦躁せずとも、狸の死ぬるいまはの際の一言にだけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
曰く、惚れたが悪いか。
古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。

つまり、「カチカチ山」には、世界中の文芸の男女の物語のテーマと共通したものが流れているというのだ。読んだ本はスズキコージの挿絵も素晴らしく、この対比が描けていると思う。兎は常に可愛らしく残酷で、狸は常に無能ぶりが目立つように描かれている。


「舌切雀」は、前口上で、自分(太宰)は「お伽草子」でなぜ「桃太郎」を扱わなかったのか、という説明が延々と続き、ここがまさに清水義範「猿蟹合戦とは何か」の元ネタになっている。

外国の人が見て、なんだ、これが日本一か、などと言つたら、その口惜しさはどんなだらう。だから、私はここにくどいくらゐに念を押して置きたいのだ。瘤取りの二老人も浦島さんも、またカチカチ山の狸さんも、決して日本一ではないんだぞ、桃太郎だけが日本一なんだぞ、さうしておれはその桃太郎を書かなかつたんだぞ、だから、この「お伽草紙」には、日本一なんか、もしお前の眼前に現はれたら、お前の両眼はまぶしさのためにつぶれるかも知れない。
いいか、わかつたか。この私の「お伽草紙」に出て来る者は、日本一でも二でも三でも無いし、また、所謂「代表的人物」でも無い。これはただ、太宰といふ作家がその愚かな経験と貧弱な空想を以て創造した極めて凡庸の人物たちばかりである。これらの諸人物を以て、ただちに日本人の軽重を推計せんとするのは、それこそ刻舟求剣のしたり顔なる穿鑿に近い。

これに続く舌切雀の話は、長年連れ添った夫婦喧嘩のあとで、お爺さんが可愛がる雀に嫉妬したお婆さんが雀の舌を切ってしまうという話になっている。
「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」のいずれも主人公の男性は、一種のダメ男として書かれており、それは太宰自身が投影されているものなのかもしれない。一方で、女性は、純真無垢な聖なるものとして書かれているわけではなく、やはり欠点があり、怖いところを持っているものとして書かれている。
こういった男性観・女性観と、自身の過剰な自意識のバランスこそが、太宰治の支持されるところなのかもしれない。本当にそうなのか確認してみるために、今さらながら他の作品も読んでみよう。

*1:我が家の小学5年生。読書家。