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他人の人生を「盗み聞き」する〜吉田修一『初恋温泉』

初恋温泉 (集英社文庫)

初恋温泉 (集英社文庫)

初恋温泉 (集英社文庫)

初恋温泉 (集英社文庫)

吉田修一の小説を読むと「小説を読んでるなー。小説は楽しいなー。」という感じがする。
筋が面白くない小説は論外だが、筋が面白過ぎると、熱中しすぎて、読んでいる自分を意識しない。
吉田修一の小説は、話の筋の前に文章の巧さが際立っているのかもしれない。


とはいえ、この本を選んだのには、「小説を読んでいる」感じを味わいたかったからではなく、本の内容に期待したから。
先日読んだ朝井リョウの連作短編集『少女は卒業しない』の1話目が、女子高生が先生に告白する話で、ドキドキしながら頁をめくり、「ちゅーするか、しないか、するか、しないか…………しないのかよ!」という不完全燃焼な気持ちになり、もっとギリギリ一線を越えてしまうような話が読みたくなった(笑)。
そのときに思い出したのが、だいぶ前に読んだ吉田修一の『初恋温泉』。記憶では、この小説も「するか、しないか、するか、しないか…………」というタイプの短編集だったことまでは覚えている。そもそも不倫カップルや高校生男女が温泉に来る話だから、いやらしくないはずがない。
多分、消化不良な自分の気持ちを満足させてくれるに違いない、と信じて読んだのだった。

初恋の女性と結婚した男。がむしゃらに働いて成功するが、夫婦で温泉に出かける前日、妻から離婚を切り出される。幸せにするために頑張ってきたのに、なぜ ―
表題作ほか、不倫を重ねる元同級生や、親に内緒で初めて外泊する高校生カップルなど、温泉を訪れる五組の男女の心情を細やかにすくいあげる。日常を離れた場所で気づく、本当の気持ち。切なく、あたたかく、ほろ苦い恋愛小説集。
Amazonあらすじ)


結論を言えば、「…………やっぱり、しないのかよ!」の方の小説だった。(笑)
しかし、どの話も他の人の人生の一部を盗み聞きしている感じが味わえていい。
登場人物の年齢や男女の関係が、5話ともバラバラなこともあるが、舞台となる温泉が実在する旅館であることを考えると、取材に訪れた吉田修一が実際にそこで見聞きしたことを膨らませて書いた部分もあるのではないか?などと考えてしまう。
そもそも、作中の登場人物たちも、他の客のことをあれこれ詮索していることを考えると、二人で来る温泉旅館という設定が、そもそも「盗み聞き」感に満ちたところなのかもしれない。


それぞれの話の舞台は以下の通り。

  • 初恋温泉 → 熱海「蓬莱」
  • 白雪温泉 → 青森「青荷温泉
  • ためらいの湯 → 京都「祇園 畑中」
  • 風来温泉 → 那須二期倶楽部
  • 純情温泉 → 黒川「南城苑」


このうち、一番いやらしい内容(笑)だったのは、高校生カップルが黒川温泉に行く「純情温泉」なのだが、一番面白かったのは「白雪温泉」。
本館ではなく「離れ」を予約した結婚直前の二人は、宿に到着してから、「離れ」には、ふすまを隔ててもう一組の宿泊客がいることを知る。5作の中では最も2人の仲が安定しているのに加えて、隣りの部屋の男女について感じた「謎」が最後に解き明かされて、主人公・辻野と同様に、読者も「この温泉に来て良かった」と思うことになる。大層な内容ではないが、ささやかな幸せをそこに感じることができる。


なお、東北にいたときに温泉に行くことが多かったからか、自分は温泉というと、山の中とか雪の中いうイメージが強い。だから、温泉地についたときの都会との違いを感じさせる描写がグッとくるものが良かった。こういうところが、吉田修一の巧いところなのかもしれない。

恭介はとりあえずコーヒーを淹れ、タバコを吸った。高さ3メートルはあるかという窓を開けてテラスに出ると、暖かい日差しがからだを包む。
音がまったくないわけではない。ただ、もしも無音という音があるならば、それが耳の奥のほうで鳴る。これが山の音かと恭介は思う。何も聞こえないという音。そんな音があるのだろうか、と。
(風来温泉)

黒川温泉にバスが着くと、旅館の車が迎えに来ていた。バスで一緒になった老夫婦とは違う旅館らしく、別の車が迎えに来ている。
バスを降りたとたん、山のにおいがした。山のにおいというものが、いったいどんなにおいなのか、巧く説明することはできないが、吸い込むたびにその空気が肺を満たす感覚だけははっきりと感じられた。
(純情温泉)

背後の自動ドアが閉まった直後、コトンと何かが落ちるように、眼の前の雪景色から一切の音が消えた。一刻も早くタバコを吸おうと、寒風吹きすさぶ空港の外へ一歩足を踏み出したところだった。
辻野は一瞬自分の耳を疑った。目の前に広がっているのはたしかに一面の雪景色なのだが、そこに動きがないわけではないのだ。駐車場を回り込んできたバスが目の前で停まり、ドアが開く。白い息を吐きながら降りてきた乗客たちの足が、積もった雪を踏みしめている。それなのに、停車したバスのエンジン音も、雪が踏みしめられる音も、一切の音が消えている。
(白雪温泉)


なお、不倫する二人を描く「ためらいの湯」での、山之内先輩の「結婚っていうのは、あれだよ」という持論が面白い。面白いが、自分に帰ってくるので、ここでは引用しない。(笑)
久しぶりに吉田修一を読んで、ちょっと「戻ってきた」感じ。また沢山読みたい。