Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「不快で済むなら、それでいいよね」〜安田浩一『ヘイトスピーチ』

ミニスカート姿の少女が、促されるままにマイクを握った。彼女は大きく深呼吸すると、大きな声を張り上げた。
「鶴橋に住んでる在日クソチョンコの皆さん、こんにちは!」
よくとおる声だった。それが駅前のガード下で反響し、夕暮れ時の街を包み込む。
「私もホンマ、みなさんが憎くてたまらないんです。もう殺してあげたい。みなさんもかわいそうやし、私も憎いし、消えてほしい!」
彼女は中学2年生だった。
顔には、まだあどけなさが残る。それだけに「憎い」「殺してやりたい」という中学生には不釣り合いな言動が、ぐさっと胸に突き刺さる。
そして彼女はこう続けた。
「いつまでも調子に乗っとったら、南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ!ニッポン人の怒りが爆発したら、しますよ!大虐殺を実行しますよ!実行される前に今すぐ戻ってください!ここはニッポンです。朝鮮半島ではありません。帰れー!」
街宣参加者らは「そうだあ!」とこぶしを突き上げるばかり。よくぞ言った、とばかりに笑顔で拍手する者もいた。
p129

唖然。
外国人に対するヘイトスピーチでは「国から出ていけ!」程度かと思っていたら「殺す!」などということを街頭で大声で話す人がいるということにびっくりする。しかも、そのような感情をふりかざすのが、中学2年生女子であることに、さらに驚く。
おそらく、2012年の『ネットと愛国』と主張が重複しているところがあるのだと思う。この本で初めて安田浩一を読む自分にとって、一番印象に残ったのは、ここで紹介される在特会をはじめとするヘイトスピーチを繰り返す人の思考原理。

  • 「貧困で苦しむ日本人が年間に3万人も自殺しているんですよ。しかし在日が自殺したって話など聞いたことがない。特権を享受しているからですよ。」p59:在特会広報部長
  • 「ここまで言わないと、誰も振り返ってくれないじゃないですか。一種の問題提起ですよ。いままで在日が怖くて、日本人は堂々と批判することさえできなかった。だからあえて下品な言葉を使ってでも訴える必要があると思うんです。」p127:鶴橋の街宣で司会をした少年
  • 「増え続ける外国人が怖くて仕方ない」「私が棲んでいる福岡は、昔から在日などの外国人が多い。最近、街の中でハングルや中国語で書かれた案内標識が増えてきたのですが、なんだか街が汚されていくような気がして悲しくなるんです。」p206:新大久保で激しいアジテーションを行なう20代OL


これらの思考の根本にあるのは、自分たちが脅かされている、自分たちが被害者である、在日は怖い、という意識だ。在特会立ち上げの中心人物である桜井誠の言動の核にあるのも恐怖だと本の中では書かれている。(p45)
一方で、恐怖から逃れて安心できるのがデモや集会の場であり、多くの仲間となっている。つまり、家族や友人と思いを共有できない人にとって、在特会の場が「居場所」をつくっているところもあるという。(p48)
こういった部分を読むと、ネットで「愛国と危機感」に目覚め、「敵の存在」を知ってしまった人の過剰に攻撃的な姿勢の背後にあるものが、理屈としては分かってくる。


しかし、これが、(以下に紹介する)いわゆる京都朝鮮学校襲撃事件時の在特会の主張にまで行ってしまうと、突飛過ぎて、言わんとしていることがすぐには分からない。
この事件はグラウンドを持たない京都朝鮮第一初級学校が、体育の時間などに学校前の公園を利用していたことを「不法占拠」だとして、子どもたちのいる平日の学校を包囲して抗議したもの。

襲撃メンバーの一人は、私に対して「これは正義の闘いだった」と胸を張った。
朝鮮人から土地を奪還したんです。日本人として、朝鮮人の悪行に抵抗したんです。いったいこれの何が悪いのかわからない」

ここまで本を読み進めているので、(その考えには同意できないが)思考の過程は理解出来た。
しかし、この事件に対して、国連の人種差別撤廃委員会が懸念を表明した際に在特会が送った書簡がすごい。突拍子もない。

私は、委員会の皆様がかつて南アフリカで行われていたアパルトヘイト政策をご存知であると確信しております。アパルトヘイト政策は外国から来た白人がもともと住んでいた黒人を差別し、黒人たちが立ち入ることのできない区域を作りました。今、在日朝鮮人が享受している特権は、現在も続くアパルトヘイトと呼べるものです。京都朝鮮学校の目の前にある勧進橋児童公園や全国の朝鮮学校、全国の朝鮮関連の公的施設は、日本人の立ち入りが厳しく制限される場所となっています。未だにその朝鮮学校と公的施設を「原住民」たる日本人の多くが、たとえ規約を守るようにその使用制限を享受することを認めたとしても、利用することはできません。一方で日本の学校と公園や公民館等を含む公的施設はすべての人が等しく利用できます。在特会の主張はアパルトヘイトをやめるように要請するものであり、国際連合の意向に沿ったものです。

状況からすれば、在日コリアンが差別されている側としか思えないのに、ここでは、在日コリアンを「外国から来た白人」に、日本人を「もともと住んでいた黒人」にたとえ、自らの行動を差別や圧政からの解放運動であると主張している。まさに、「この発想は無かった」としかいいようがない、コペルニクス的転回だ。


こういった事例をいくつも知ることで、自分が、「これは明らかに正しい」「これは誰が見ても間違い」と思っていることに対しても、全く異なる考えをする人がいる、ということが分かってくる。自分の考えを誰かに伝えようとするときには、ここまで極端でなくても、思ってもみない角度から物事を考える人がいるということを少しは頭に入れておいた方がいいのかもしれない。
また、こういった思考法を知っていれば、世の中にはびこる生活保護受給者バッシングや、最近起きたシリア難民を揶揄するイラストなどの事件に対して、人間性を許すことはできなくても、思考の過程は何となく辿ることができるような気がする。
これは、この本を読むことで得ることができた知恵ということが言える。


しかし、本の内容をこのようにまとめてしまうと、在特会アパルトヘイトを持ち出して強弁したように、立場を逆転してみれば、サヨク側にも当てはめることができる、つまり相対的な価値の話で、どちらが良い悪いという話ではない。安田浩一が不快に思う相手の、どこが不快なのかについて論じた、というだけの本である。


…いや、そうではない。つまり、この本の中の位置づけとしては、ヘイトスピーチをする人たちの思考過程の話は、それほど重要ではない。
安田浩一自身、『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』で第34回講談社ノンフィクション賞を受賞し、順風満帆だった頃のエピソードを出して、真に目を向けるのはそこではないことを強調する。

あるとき、在特会の「不快さ」について話していた私に向けて、在日コリアンの友人がぼそっとつぶやいた。
「不快で済むなら、それでいいよね」
その場ではつい聞き流してしまった言葉が、それから先、何度も耳奥でよみがえる。さらに別の場所で、やはり在日コリアンの女性から、同じような言葉を投げかけられた。
「殺されるかもしれない、って恐怖を感じたこと、ある?」
胸の中がざわざわした。何かを答えようとして、しかし思いを言語化できない。
p106


プロローグでは2013年2月のデモについて触れながら、さらに本の執筆主旨が詳しく書かれている。

私は、この日のデモがたまらなく不快だった。憤りも感じた。
だが「朝鮮人を殺せ」と言われても、日本人である私は本当の意味で傷ついてはいない。しかし、当事者である李信恵は違った。徹頭徹尾、傷つけられていた。彼女だけではない。その場所にいたすべての在日コリアンは、ずっと、突き刺すような痛みを感じていた。
それがヘイトスピーチの「怖さ」だ。
自分ではどうすることもできない属性が中傷、揶揄、攻撃されているのだ。どんなに努力しても変えることのできない属性に、恫喝が加えられているのだ。
ヘイトスピーチは単なる罵声とは違う。もちろん言論の一形態でもない。一般的には「憎悪表現」と訳されることも多いが、それもどこか違うように感じられてならない。
憎悪と悪意を持って差別と排除を扇動し、人間を徹底的に傷つけるものである。言論ではなく、迫害である。
言葉の暴力……ではない。これは「暴力」そのものだ、と。人間の心にナイフを突き立てて、深く抉るようなものだ。
泣きじゃくる李信恵を目にしたときから、私はそう確信した。
p20

読者がしっかりと心に刻むべきは、ヘイトスピーチをする側ではなく、される側のことだ。
しかも心理的なものだけではない。1997年10月に、小牧市で、日系ブラジル人の少年エルクラノ君が、ブラジル人であるという理由だけで集団リンチを受けて死亡するという事件が起きている。

いま一度振り返ってほしい。私たちの社会は関東大震災の際にはジェノサイドを、そしてつい20年前にはヘイトクライムを、記憶として抱えているのである。差別や偏見が命を奪うことを知っている……はずだった。
でありながらいま、ヘイトの嵐は各地で吹き荒れている。
p175

被害者側のことを考えたとして、「エルクラノ君の事件、また、京都朝鮮学校襲撃事件などの極端な事件に関係するような人はごく少数。自分には関わりがないこと…」とは済ませられない。
日々目を通すようなネット上の記事、もしくはニュースに対するコメント、ツイートなど、身の回りにはヘイトスピーチ的な言説が溢れている。これらのヘイトスピーチヘイトクライムが地続きだから不安が高まっているのだ。
この本の中では、2002年W杯以降、悪化する一方の日韓関係に焦点が当てられているが、書店でも日本を礼賛する代わりに他国を貶めるようなタイトルの本が多く並ぶようになっていることは自分でも実感している。
それが、本の形を取っている、もしくは一応理屈の通った文章にまとまっていればまだいい。しかし、ただ場を盛り上げるネタとして、誰かが傷つく言葉を放っている場合も多く見られる。

彼ら、彼女らにとって、ヘイトスピーチは娯楽であり、八つ当たりであり、ただの「ノリ」から発せられたものなのだ。あるいは人の命など、その程度のことによって左右されても構わないという、人生観の持ち主なのかもしれない。自分たちの「安全」さえ確保できれば、何を言っても構わないと思っているのだ。これがネットを「戦場」とする国土の佇まいである。
p193

このあたりは、スマイリーキクチさんが受けたネットでの誹謗中傷のケースと同じで、言った本人は、その発言の問題に、言われた側の気持ちに全く気がついていない。このことは、今、「自分はヘイトスピーチを言う側の人間ではない」と思っている自分も、普段の何気ない会話の中で、もしくは気軽なツイート、リツイートで誰かを傷つけている可能性があることを示している。
読者としては、ヘイトスピーチを繰り返す人と自分を線引きして安心するのではなく、自分の中にある差別性に向き合うことが重要なのではないかと感じた。


その意味では、この本で残念だったのが、しばき隊の位置づけが曖昧であったこと。つい先日も、ヘイトスピーチ対しばき隊という対立構造の中で、しばき隊の一員が問題行動を起こす事件(ぱよぱよちーんという言葉とともに知られる事件)があったが、こういうことが続くと「どっちもどっち」という話になりかねない。
また、「表現の自由」VS「ヘイトスピーチ」の問題として語られる場合もあるが、安倍首相に対する誹謗・中傷発言と、ヘイトスピーチとはそもそも別種なものであることを明確にし、早急にヘイトスピーチを法律で規制することが必要だと考える。当然、「表現の自由」という理由でヘイトスピーチを野放しにしてはいけない。このあたりは、佐々木俊尚さんの意見に賛成だ。


自分の発言だけでなく、リツイートのような形で、他人の発言も気軽に拡散できるという点は、ツイッターやFBの良い面でもあるが、悪い面でもある。自らがヘイトスピーチに加担する可能性があるということに、これまで以上に自覚的に、ネット社会と付き合って行きたい。