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産業スパイのように精緻な描写〜小川洋子『妊娠カレンダー』

妊娠カレンダー (文春文庫)

妊娠カレンダー (文春文庫)

妊娠カレンダー (文春文庫)

妊娠カレンダー (文春文庫)

初めての角田光代に引き続いて、初の小川洋子
小川洋子も、最初に読むのは『博士の愛した数式』だろう、と勝手に思っていたが、あ、これもあるじゃないか、と芥川賞受賞作を読んでみた。

出産を控えた姉に毒薬の染まったジャムを食べさせる妹…。妊娠をきっかけとした心理と生理のゆらぎを描く芥川賞受賞作「妊娠カレンダー」。謎に包まれた寂 しい学生寮の物語「ジミトリイ」、小学校の給食室に魅せられた男の告白「夕暮れの給食室と雨のプール」。透きとおった悪夢のようにあざやかな三篇の小説。 (Amazonあらすじ)


「妊娠カレンダー」は、まさに自分が芥川賞作品に描いているイメージとぴったり。物語自体は低体温で淡々と進み、非常に描写が丁寧で、裏側で何かが進行しているような不穏な空気が濃密で、終わり方が呆気ない。
つまり、それが純文学ということなのだろうか。
精神的に不安定なところがある姉の妊娠に対して、同居する妹(主人公)は、いわば観察者だ。つまり「妊娠カレンダー」は「妊婦観察日記」。
つわりの時などは、同居しているため、におい等に気を使っているから当然といえば当然なのかもしれないが、妹の興味の対象、つまりこの本で描写されていることは、ほとんどが食べ物に関すること。そして、その観察が、精緻なところが、この小説の特徴だと思う。そしてその観察能力は、そのまま想像の世界にもリアリティを与える。

えんどうの実がさやから弾けるみたいに、気持ちよくぷちぷち、子犬が生まれてくるのかしらp41

おばあさんがクラッカーを食べた時、ほんの短い間彼女の下が見えた。弱々しい身なりとは不釣り合いの、鮮やかな赤い舌だった。表面のつぶだちの上で証明が弾けているように、暗い口の中でもくっきりと見えた。舌はしなやかに、ホイップクリームの白を包み込んでいった。p47

枇杷じゃなきゃ意味がないわ。枇杷の柔らかくてもろい皮とか、金色の産毛とか、淡い香りとかを求めてるの。しかも求めてるのはわたし自身じゃないのよ。わたしの『妊娠』が求めてるの。ニ・ン・シ・ンなのよ、だからどうにもできないの。」
姉はわたしの声を無視して、わがままを言い続けた。『妊娠』という言葉を、グロテスクな毛虫の名前を口にするように、気味悪そうに発音した。p54


あらすじに書かれているように、妹は、姉に食べさせグレープフルーツのジャムを作りながら、学生時代に無理矢理連れていかれた『地球汚染・人類汚染を考える会』で見た防かび剤PWHのことを考えている。
しかし、それ以上にこの妹の考えの独特さは、姉の体の中で成長していく胎児のイメージを「染色体」という言葉で不気味なものとして捉えているところだ。

姉は自分の赤ん坊について、冷静に説明する。胎児とか腹腔とか性器とか、母親に似つかわしくない言葉遣いのせいで、余計彼女の変形が不気味なものに思える。
胎児の染色体は順調に増殖しているだろうか。彼女の膨らんだお腹の中で、双子の幼虫が連なってうごめいているのだろうか。わたしは姉の身体を眺めながら考える。p59

この小説では、新しい生命の誕生に際して、感じてしまう「祝福とは違った気持ち」が、素直に描かれていく。それは妹から姉に向けた悪意だとか、そういうものでは全くなく、異物(モノ)としての人間を感じさせ、そのあたりがこの作品の魅力なのだと思う。


「ドミトリイ」は、6年前に卒業するまで4年間お世話になった学生寮を、いとこに紹介するところから始まり、ここで起きる謎の事件と、学生寮の経営をしている「先生」の特異な姿が読者を惹きつける。
3篇の中ではもっともストーリー性があり、半ばミステリのように話が進み、導かれるように思ったら、最後にはぐらかされる。この小説でも小川洋子の精緻な観察力は発揮され、描写が丁寧であること自体が、物語をどんどん静かにしていく。
実際、「ドミトリイ」は伊藤潤二のいくつかの作品*1を思い起こさせるし、恐怖というジャンルとこの人の文体は相性がいいのではないかと思った。


「夕暮れの給食室と雨のプール」では、小学校の給食室を眺めながら、「ある種の宗教勧誘員」らしき男が、その「最新鋭の設備」について語るところ、そして自身が小学生時代に見た給食室で繰り広げられる風景についてが、小川洋子の本領発揮部分だと思う。つまり、産業スパイのような確かな視覚描写。


次に読むのはおそらく『博士の愛した数式』になるとは思うが、もう少し不気味な感じの小説も読んでみたい。同じく初めて読んだ角田光代の読後感とは全く違う感想が出て来て、小説を読むのは面白いと改めて思った。

参考(過去日記)

*1:特に、「蜂の巣」「あばら骨の女」、押切シリーズの屋敷。特にラスト近くになって「蜂の巣」みたいなオチでは…と興奮した