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人を傷つけるのも、人を救うのも「言葉」〜よしながふみ『愛すべき娘たち』

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

つい先日のビブリオバトルで知った本。
ビブリオバトルでの紹介の中では、よしながふみ羽海野チカをはじめとする「BL」出身漫画家が、現在の少女マンガの潮流となっているという話を前半に入れて、その後、この『愛すべき娘たち』の内容について語られた。
そこで言われたBL出身漫画家の強みは、「関係性」の描写。BL漫画は、男女が結びつきあうというような、ごくごく単純の話ではないため、付き合う二人の男性同士がどこに惹かれあうのか、どのような関係の中で愛情が生まれるのか、など、説明の難しい内容を説得力を持って描き切る必要がある。
そういった中で磨かれた技術は、内容的にBLを含まない今作のような漫画にも脈々と受け継がれている…というような内容だった。

なぜ津田雅美『十年後、街のどこかで偶然に』がダメなのか その2

まさにその通り!と自分が思ったのは、先日ダメ出しした津田雅美『十年後、街のどこかで偶然に』に感じた不満が、まさしく「関係性」という言葉で表されると感じたから。
津田雅美『十年後、街のどこかで偶然に』の登場人物同士の関係は、高校の同級生、男女、同僚、と非常にシンプルで、説明の要らないもの。そして実際に、漫画の中で、それ以上の「関係性」は説明されない、と言っていい。
そういった、既存の枠組みの設定に甘えた漫画(男女は惹かれあう、女性は職場男性に不満を感じる、…等)は、結局ありきたりのパターンの話に終わってしまうのではないだろうか。
例えば『十年後…』にもあったように、『愛すべき娘たち』にも同級生女子3人が出てくる話がある(第3話)が、そこには、ただ単に「久しぶりに会って懐かしい思い出話に花を咲かせる」だけの安易な「同級生」観は無い。
繰り返し書くが、津田雅美『十年後、街のどこかで偶然に』のダメな点は、その安易さにある。そしてその安易さ/丁寧さは、ページ数の少なさ/多さだけでは説明できない。『愛すべき娘たち』も同じ1巻終了漫画だが、話の密度は津田漫画の何倍にも感じる。
『愛すべき娘たち』の話が濃密に感じる理由は、「関係性」描写が丁寧だったり、巧妙だからというだけではない。関係性が上手く描けていることで、登場人物の思考や悩みが真に迫り、読者が自然と自分の人生と照合しながら読むようになるため物語を重層的に味わうことになるのだ。これは勿論、巧い小説にも言えることだと思う。
最近、期せずして角田光代『だれかのいとしいひと』、吉田修一『初恋温泉』、朝井リョウ『少女は卒業しない』など、オムニバス形式の恋愛(?)小説を読んできて、その中でも様々なかたちでの男女が描かれたが、1冊のまとまりという意味では、この『愛すべき娘たち』の完成度には勝てない。5編の構成、語り手などの演出、オチなど全ての基準においてことごとく小説を上回る高得点を叩きだしている傑作だと思う。

第1話〜第2話(以下ネタバレ)

そろそろ内容に入る。
第1話は、美しい母・麻里と娘・雪子の話。(雪子が12歳のときに父親は死んでしまった。)50歳を過ぎて癌を患った麻里は、手術が成功して家に戻ってから、「これからは自分の好きに生きていく」と言い、勝手に雪子(30歳)よりも3歳年下の俳優志望の男性(元ホスト・大橋)と結婚してしまう。さらに、家に連れてきてしまい、雪子は2人と同居することになって…。
この話で軸になっているのは、雪子が、元ホストの大橋と会って感じた不信感が、同じ屋根の下で生活をし、話をしていくうちにほぐれていく、という部分で、雪子-大橋の会話に比べると、麻里-雪子の話は圧倒的に少ないのだが、最後は母娘の関係、もっと言えば、雪子が母をどう思っていたのか、ということに収斂する。
ラストシーンで、あれだけ強そうに見えた雪子は涙を流す。
それに対して優しく声をかける、でも麻里への愛は譲れないと言う大橋。
そして、大橋と目で語り合いつつ、雪子を背中から抱く麻里。
突飛な設定故に、同世代の男女の会話がメインであるにもかかわらず、濃密な母娘関係が描けているという巧い作品で、「愛すべき娘たち」というタイトルにふさわしいオープニングの作品。


第2話はいわばインタルード的な内容で、大橋と高校時代に映画研究会で一緒だった非常勤講師・和泉君の話。
和泉君が、麻里と大橋、そして、雪子と結婚相手の順ちゃんの4人に、自分の講義を受ける「変わった女子学生」(滝島舞子)の話を定期的に相談する、という流れで進むが、この落語みたいな構造のストーリー展開がまず面白い。そして予想外のサゲ。
でも考えてみれば、和泉君と滝島がそのまま付き合ってしまうというよりは、よほどリアリティのあるオチ。しかも第二話全体のアダルトビデオみたいな展開を、和泉君の優しい視線で終わらせるには、これ以外にはないと思えてくる。
この話でいう「愛すべき娘」は、当然、滝島舞子。和泉君と同じ目線で、読者は、滝島のこれからの恋愛のかたちを想像する。

第3話〜第4話

第3話は、清楚な美人・莢子(さやこ)が主人公で、一番最後にのみ雪子が登場する。
叔母のススメもあってお見合いに挑戦する莢子(さやこ)は、2人断り、1人断られ、で4人目の不破さんという男性に惹かれ、デートを重ねる。


5話の中では唯一前後編に分かれる長めの話だが、この話のラストには非常に驚かされ、そして、考えてみると、非常に納得できる終わり方だとわかる。莢子(さやこ)が熟慮すれば、この結論しかない、と思わせるほどに、莢子(さやこ)の考え方は全編に渡って一貫している。
例えば、最初に断わった2人のお見合い相手。読み直すと、会話のどこに断わる理由があったのかが明確に分かるようになっている。
そして、莢子(さやこ)が不破を「心のうつくしい人」と感じ、惹かれていく中で、彼とは結婚できない、どころか、誰ともお見合いはもうできない、と判断した、心の葛藤がどこにあったのかも、最後の最後、雪子との会話の中で判明していく。
莢子(さやこ)の生き方、考え方は、誤っていない。祖父から繰り返し言われた「人に分け隔てなく接する」という考え方自体は、特殊な思考パターンではなく、むしろありふれたものだ。それを突き詰めるタイプの人は自分の人生では会ったことがなかったが、物語を読むと、このような人もいるのかもしれないと、素直に納得ができる。
そして、雪子が独白した通り「きっと彼女は今すがすがしい顔をしているに違いない」と、ラストシーンで彼女を送り出すことができる。
自分にとって最も衝撃を受けた、そして恋愛の本質について改めて考えさせられた一篇。


第4話は、共働きである、雪子の家の家事分担の話から始まる。家事に非協力的な順ちゃんへの不満を募らせる中で、雪子は中学時代の同級生・牧村と佐伯と夢を語り合っていたことを思い出す。


雪子の話から始まったこの話の「語り手」が、回想シーンに入って自然に佐伯に変化するあたりが巧い。
過去の思い出をなぞるようでありながら、佐伯の牧村評でこの話は進んで行っている。

  • 家庭内の男女平等について夢を語る中学時代の牧村への尊敬の念
  • 同じ公立高校に入学し、入学後半年で、突如、学校を中退し、定時制高校に通いながら独り暮らしをすることに決めた牧村への驚き
  • その後、定時制高校も退学し、20歳を過ぎて様々な夢をことごとく諦め、中学時代に掲げた理想から遠ざかる牧村への失望

連絡が途絶えて数年後に、突然、牧村の一貫性のない言動の背後に何があったのかに気が付いた佐伯は、牧村に連絡を取る。しかし、佐伯の心配と裏腹に、久々に合った牧村は結婚して主婦となり幸せそうに見えた。
冒頭で雪子が頭に思い浮かべる牧村が眼帯をしていたのは、偶々ではなく、いつもどこかに傷を負っていたからで、牧村の家庭環境については読者にもヒントが与えられていたのだ。ここまででも十分に面白く、ミステリとしても読める完成度の高い話だと思う。
しかし、物語のメインはそこではない。

あたしは絶対民間で定年まで勤め上げようと思ってる
だって女にとってまだ働きづらい民間でがんばった方が後々の働く女の人のためになるでしょう

中学時代に牧村が言った言葉に、雪子も佐伯も強く影響を受けていた。
専業主婦として幸せそうな牧村を見て、佐伯の「ささやかな夢」がまた輝きを失っていた。
そんなときに来た雪子からの手紙で佐伯の「夢」は再び輝きだす。
牧村の言葉で火が付き、そして萎んでしまった佐伯の夢が、雪子の言葉で復活する。第4話も他の話と同じように、物語の終わりが登場人物の再スタートとなっている。

最終話

最終話は、雪子のおばあちゃん、つまり麻里の母親が、自分の母親(雪子の曾祖母=麻里の祖母)の葬式で泣き続けるシーンから始まる。それを見て「実の親でもあたしはあのばあさんが死んだって絶対泣かないわ」と言い切る麻里。麻里は小さな頃から言われ続けた母の言葉に傷ついていたのだ。
何故おばあちゃんは娘の麻里に対して「出っ歯で可愛くない」と言い続けたのか…。


ここでは、おばあちゃんのコンプレックスが娘(麻里)に引き継がれ、麻里の中でそれが愛情に変わって、孫娘(雪子)にまで届いていることが丁寧に描かれる。母から娘へ、娘からその娘へ「言葉」を通して、伝わるものがある。そして、麻里も「言葉」に惹かれ「言葉」を求めて大橋と再婚することになったのだ。
考えてみれば、おばあちゃんや麻里だけじゃない。第2話、3話、4話、に登場する滝島舞子、若林莢子(さやこ)、佐伯友恵の3人も皆、「言葉」によって行動を縛られていたことが分かる。そして、最終話も含めてそれぞれの話のラストで、それぞれの登場人物達の再スタートが描かれ、読者は彼女たち=「愛すべき娘たち」に向けてエールを送ることになる。
自分を縛っていた「言葉」から自由になったわけではない。しかし、自分を縛っていた言葉と向き合うことで、一歩を踏み出せる、そういう話になっている。(滝島舞子は、自分を縛っていた言葉の馬鹿らしさに自然に気が付くはず)
暗いところも含むこの物語が、全体として明るく感じられるのは、それぞれの話が未来に向かって開かれた終わり方となっており、そこに新しい人生の始まりを感じさせるからだと思う。


よしながふみは久しぶりに読んだが、『フラワー・オブ・ライフ』を読んだときの感動が甦ってきた。
漫画が面白いというだけではなく、よしながふみの書く嘘くさくない前向きなメッセージは、何か辛いことがあったときに確実に自分の力になると思う。作中の登場人物たちと同様、自分たち読者もまた「言葉」に縛られ、「言葉」を求めているから。
人を傷つけるのも人を救うのも「言葉」。自分が家族や友人にかける言葉が、その人の人生の一部に確実になっているというのは、怖いことでもあるけれど、自分の生きた証がそこに残っていく、受け継がれていくということだ。後ろ向きではなく、できるだけ前を向ける言葉を、楽しく生きていける言葉を意識して発していけるといいなあ、と思った。
(結論が、『結婚しなくていいですか。』の感想と同じになってしまったが、自分の中で継続している課題なんだと思う)

参考(過去日記)

⇒さんざん非難しているが、自分はこの作品があったからこそ、直後に読んだ『愛すべき娘たち』の巧さが引き立ったのだと思う。そういう意味では、依然として自分の中の重要な位置づけの漫画となっている。

⇒この漫画も今年読んだ作品だったか…。やはり「言葉」の重要性について強く認識した1冊。

⇒親のコンプレックスが子に受け継がれていくというテーマについて書かれている名付け本。面白い。

⇒今思っても、やはりこれほど面白い少女漫画は多くないのでは?再読のタイミングかも。

⇒この頃の持論は「男性作家は分かりやすいテーマを小説で描き、女性作家はテーマやゴールよりも関係性に執着する」というもの。確かにその通り。