Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ともに走ることで出来ること〜星野恭子『伴走者たち』

色々なマラソン本を読んできたけど、中でもこの本は大事な一冊。
児童向けに書かれた本だが、2年くらい前に初めて読んで、強く心を動かされ、今回改めて読んでみて、さらに感動が強くなった。
ランニングがとてもシンプルなスポーツだからこそ、色々な可能性がある。好きなことを続けることで、他の誰かの夢の手伝いができる。いつか自分も伴走者としてのマラソンに挑戦したいと思わせる、とても素晴らしい本。

目の見えない人、義足の人、知的障害のある人など、障害があっても「走りたい」と思っている人たちと、ともに走る「伴走者」。互いを気づかい、一緒に達成感を得る、ランナーと伴走者の絆を紹介するドキュメント。

目次より
はじめに
序章 スタート十秒前
第1章 伴走教室へようこそ ―視覚障害のあるランナーとともに走る
第2章 だれかの夢が、自分の夢に ―仲間とともに走る
第3章 スタート前から伴走 ホノルルマラソン ―発達障害・知的障害のあるランナーとともに走る
第4章 もう一度、風を切って走りたい ―義足のアスリートとともに走る
おわりに ―ともに走り続けたい

この本では知的障害のある方や義足の人も扱っているが、1章、2章では視覚障害者の伴走者を扱っている。
自分が10数年前にかすみがうらマラソンに参加したときに、「国際盲人マラソン」という名前は目にしていたが、実際に、目の見えない人がどのように走るのかについてあまり気にしたことがなかった。
だから、この本を読んではじめて、目の見えない人のマラソンをイメージすることができた。実際、先日走った手賀沼ラソンでも、伴走者とロープで手をつないで一緒に走っている方がいるのを目にしたが、もしかしたら、かすみがうらマラソンを走った10数年前は、その存在が目に入っているのに気が付かなかったのかもしれない。


勿論、伴走者の存在を知る以外に、伴走される側の人の気持ちを知ることが出来たのも良かった。
たくさんの伴走者と走り、抱える悩みについて話をするうちに「目が見えないことくらいで悩んじゃだめだ」と思えるようになったという金野さんは、「そもそも、目が見えていたら、わたしは走っていなかったと思う、走ることと出会えてよかった」と語る。(p90)
今、自分が目が見えなくなったときのことを想像すると、白杖を持って外を出歩くのでさえ抵抗があるのに、「真っ暗闇の中を走る」ということは、ひとりでは思いつかないだろう。しかし、伴走者の存在を知っていれば、「走ってみようか」という気持ちになる。
体を動かすことの楽しさが、目が見えなくなることでなくなってしまうのは残念過ぎる。
ハメド・オマル・アブディンの『わが盲想』を読んだときも、一番感動したのは、自転車のシーンだったし、パラリンピックは逃したもののブラインドサッカーも見ていて手に汗握ったし、やっぱり自分は目が見えなくなったとしても運動したいと思うに違いない。
「伴走」という行為で、そういった「運動したい」という気持ちのサポートが出来るのは素晴らしいと思う。

([も]4-1)わが盲想 (ポプラ文庫)

([も]4-1)わが盲想 (ポプラ文庫)


そして、この本の一番のポイントは、「共生」という、こそばゆい言葉が伴走の中で実現できていると感じられること。これについては、あとがきに以下のように書かれている。

印象的だったのは、お話を聞いた、たくさんの「伴走者たち」の中にある共通の思いでした。
それは「人助けやボランティアという意識はない。ただほんの少し手を貸しているだけ。あたりまえのこと」という姿勢であり、活動を長年続けているのは、「自分自身も楽しく、元気をもらっているから」という言葉です。
たしかに、登場するランナーたちは、伴走者からただ手を貸されるだけでなく、走ることで周囲を勇気づけたり、人の輪をつくるきっかけとなったり、だれかの人生にやりがいをあたえたりしていました。障害がある人はいつも「ささえられる人」で、手を差し伸べる人はいつも「ささえる人」という、一方向の関係ではなかったのです。

困っている人がいれば手を貸してあげる。そして、手を貸してもらえば感謝し、手を貸した側は、相手の笑顔を見て、自分のことのように良かったと思う。
障害のあるなしに関わりなく、日々の生活の中でそういったことができることが重要なのだろう。よく障害を持った人に関連しても「差別」だなんだという話が出てくるが、まず何より、そういった気の持ちようが大事だと思った。


実際にチャレンジするのは、もう少し子どもが大きくなってからかも知れないが、是非、自分も伴走をやってみたい。
それまでに自分の走力も上げておこう。