Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

大切なのは驚きと共感〜森村泰昌『「美しい」ってなんだろう?』

よりみちパン!セは、理論社のYA新書。岩波ジュニア新書も好きだが、こちらの方が100%ORANGEの挿絵があったりしてとっつきやすい。
こういったジュニア向け新書は、その道の一線で活躍する人たちが、自分たちの仕事の根本部分をゼロから教えようとする内容が多く、大人向けの本よりも純粋で真剣だ。
通常の新書であれば、ここは分かってくれるだろう、もしくは、ここまで書くと子ども扱いし過ぎだからと端折ってしまうところまで詳しく説明してくれる。
この本は、それだけではなく、中高生に大切にしてほしい道徳的な部分を、押し付けでなく考えさせる内容で、41歳の自分にとっても、森村泰昌という人物の誠実さが伝わってくるとても良い本だった。

知ることに対する反発

通常、美術の世界に至るための3つの道「見る」「知る」「作る」のどれにも道を見いだせなかった森村泰昌が見出した自分道(じぶんみち)は「なる」。
表紙も森村泰昌自身がモナリザを演じたもの。本の冒頭で、自身の特殊な作品群の紹介がされているが、自分が美術作品になり切った各作品は、やっぱり、一見して面白い。今回、肖像画などだけでなく、ゴッホのひまわりなど、静物画についても同様のスタイルでなりきっているのを知って、さらに驚きを感じた。


読んでいると、この「なる」というスタンスは、一般的な「美術を知ること」に対する疑問・反発によって生じているようだ。
美術品の解説書を読み、一通りの背景や歴史を知ることについて、森村泰昌は「知識は増えても、それはいつもひとから教えられた知識であって、私自身がつかみとった自分自身の発見だというよろこびや手ごたえにはなりませんでした」(p31)、「たしかに絵の内容はわかったけれど、だからといってこの絵が自分にとってどうおもしろいのかおもしろくないのか、そういうことについて、なにかがわかったといえるのでしょうか。」(p51)と否定的に捉え、「美術を専門の仕事にしている私自身ですら、ホントのところ、あまり絵がよくわかっていない」(p50)と、「絵をわかる」というのは一筋縄ではいかないことを説明する。


本の中で森村泰昌は「わかる」を次のように定義する。

わかるとは、絵のなかにふしぎをみいだす驚きのことである(p52)

それでは知識は不要なのかと言われればそうではない。そういった「驚き」を、「謎」を解き明かすためには、作品が描かれた時代背景や作者の人物像について勉強しておく必要がある。

ふしぎがあると、気持ちがドキドキしてきます。このドキドキ感が美術のおもしろさです。
そしてこのふしぎに感じた謎を、じょじょに解きあかしてゆこうとするとき、勉強してたくわえてきた知識がやっと役に立ってくる。
ですから、勉強しておくことも結果的にはたいせつなのですが、美術の世界のおもしろさって、勉強だけではぜったいにえられないんですね。(p62)

実際、本の中では、そういう観点で、ゴッホルノワールフェルメール、そしてメキシコの画家フリーダ・カーロについての簡単な説明もあり、勉強になる。


一方で、美術を鑑賞する上で、知識が邪魔をすることについても言及している。
進撃の巨人』を思わせるゴヤの怖い絵「わが子を食らうサトゥルヌス」についての質問に、森村泰昌はこう答える。

ほんとうにこわい絵だね、これ。
でももっとこわいことがあるんだ。何かというと、おとなになるにつれて、この絵を「こわい」とだんだん思えなくなるってことです。こんなこわいことないよ。(中略)
つまり、おとなは「あれは有名な絵だ」と頭であるいは知識として、この絵を脳にインプットしてしまう。(中略)
「知っているかいないか」だけが関心事になってしまうと、だんだん感動は消えてゆくんじゃないかな。「サトゥルヌス」を見て受けた強い衝撃、これは「知っているかいないか」といった知識(=情報)ではなく、感動(=情動)だと思う。頭で知ったことではなく、からだで感じたこと。人間はからだなしでは生きることはできないのだから、その一部にすぎない頭だけでなく、やっぱりからだ全体を使うべきだと思うよ。


そう言って最後に、はじめて見たときの新鮮な衝撃を取り戻そうと、サトゥルヌス(と食べられる「わが子」)を演じた作品を紹介している。つまり、自身の中の「頭で知ったこと」に「からだ全体を使って」対抗しようとしている。
美しさというものは物の見方そのものだから、個人の中であっても絶対的なものではなく、時間や知識、体調によっても移り変わって行くもの。自身の「驚く」感性を常にチューニングしていくことが大切で、森村泰昌の場合、自らの作品製作も美意識を高める一貫のようだ。

共感によって「美」はひろがってゆく

前半で、個々人が「美」を発見し、育てていくことの大切さを説く一方で、他の人の心に、他の人が「美しい」と思うことに共感していくことについて、本の終盤で繰り返し説明している。
たとえば、「ブスでも美しいって思われること、あるのですか?」「美しいと思えないものを、美しいと思えるようになりますか?」という質問の中では、次のように答えている。

  • 美術っていうのはなにかっていうと「見える世界を通じて、見えない世界にいたること」だと思うんです。(p251)
  • 「共感」によって、ひとはお互いどうしを好きになれるんですね。自分とはちがうと思っていた人や物に、「ああ、自分とおなじところがあるんだ、仲間なんだ」とわかる瞬間だからね。(略)で、この「共感」し好きになるという感覚が、もうすでにきっと「美」なんです。(p253)

また、トムヤンクンを最初に食べたときの衝撃(辛過ぎて飲み込むことができない)から、徐々にその味わいが分かってきたときの感動を書きながら次のように書く。

おいしい、すてき、こういうふうに感じられる感動もまた、私は「美」だととらえたい。おたがいどうし、たがいの「美」に感動できれば、「美」的世界はどんどんひろがってゆきますし、その「美」のひろがりは、対立する立場のひとびとや文化や国をつなげてゆく
p275

あとがきでは、この本の発売当時の第一次安倍内閣のもとで、「美しい日本」という言葉が喧伝されたことに対して、「美」を押し付けられるのはおかしいとして、こう説明する。

なぜなら、「美」はひとそれぞれだからです。それぞれにそれぞれの「美しい」がある。このそれぞれの「美しい」を語りあい、なぜそれが「美しい」のか、意見交換することで、人間や自然や宇宙を理解する糸口も見えてくるはず。
p284


最後は世界平和の話にまで広がったが、「美」というのは人間の中にあり、自分が「美しいと思う気持ち」を大切にし、それと同時に、他人が「美しいと思う気持ち」に興味を持ち、理解しようとすることの必要性について、本の中で何度もくり返し主張されている。
インターネットの情報社会は、とかく情報ばかりがせわしなく往来しひろがってゆくが、人間の根本部分は、情報量では測ることができない「美しいと思う気持ち」にあるのではないか。
音楽や漫画、読書など、自分の好きなもの全ての中に存在する「美」ひとつひとつを大切にして、他の人の「美」にもできるだけ目を向けてゆきたいと思った。
利己的に「美」を広げようとすることで、世界に対する理解が深まり、人間に対する理解が深まる。かなり対象の広い話だが、この本で語られていることに嘘はないと感じた。
オリジナルかパクリか、芸能か芸術かなど、その他の話題についても非常に分かりやすい説明がされているこの本は、色々な人にオススメしたくなる本でした。

参考(過去日記)