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生きる力を探る小説〜角田光代『対岸の彼女』

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

人と出会うということは、自分の中に出会ったその人の鋳型を穿つようなことではないかと、私はうっすら思っている。その人にしか埋められないその鋳型は、親密な関係の終了と同時に中身を失い、ぽっかりとした空洞となって残される。相手との繋がりが強ければ強いほどに空洞は深まり、人と出会えば出会うだけ私は穴だらけになっていく。

こんな文章から始まる森絵都の解説は、この小説の核の部分を分かりやすく説明してくれる。
そして、この解説で書かれているように、『対岸の彼女』は、読んだ人に「自分も前へ進もう」と思わせてくれる小説だ。
裏表紙のあらすじでは「多様化した現代を生きる女性の、友情と亀裂を描く傑作長編」とあるが、そこに収まらない、もっと男女問わず人間に共通するテーマを扱っている小説だと思う。
以下、ネタバレ感想。






少し自分の読書テーマに引き寄せて考える。最近の大きなテーマの一つは「嫌いな人」問題。
改めて考えると、自分が何をやりたいか、今自分がどんな環境にいて、どんな機会が与えられているのか、という大きな条件に比べると、とても小さな問題である「嫌いな人がいるかどうか」によって、行動が限定されることがある。もしくは何か大きな決断を下さなくてはいけない場合がある。(例えば、『どうしても嫌いな人』での、すーちゃんの場合)・・・というのが「嫌いな人」問題。
対岸の彼女』の主人公である小夜子もまた「嫌いな人」問題に悩まされた。大学を出て就職した映画の配給会社で、子どもを産んでつきあうようになった公園のママ仲間の間で、そして、働き始めた葵の会社での仕事場で。

自分がときおり、何もかもうまくいかないと悲観的に思いこんで、外に出ていくことがとことんいやになってしまうのは、岩淵さんみたいな女性が原因なのだ、と、ヤニと脂のこびりついた壁をスポンジでこすりながら小夜子は考える。たとえば学生時代も、もっとさかのぼった少女時代も、数年前まで勤めていた映画配給会社でも、岩淵さんみたいな人はいて、自分にすっと近づいてくる。まったく垣根のないような気安さで、だれかれと境なく悪口を吹きこみ、それに賛同するようあおり、けれど気がつけば自分自身がやり玉にあげられていたりする。
p62


それでも、小夜子は新しい仕事を覚えて、それに打ち込む中で、人づきあいへの苦手意識もなくなっていく。何より、もう一人の主人公である同い年の葵に人間的な魅力を感じて惹かれ、どんどん親密になる。
しかし、膨らんだ風船は割れてしまう。あれほど信じていた葵とは、もうわかり合えないと失望し、仕事もやめてしまった。
そして久しぶりのママ友とのお茶のみの場でこう思うのだ。

唐突にはじまった働くママバッシングにも曖昧な相づちを打ちながら、小夜子は既視感を覚える。既視感というよりも、それは記憶なのだとすぐに気づく。いくつも年齢を重ねたのに、机をくっつけて弁当を食べていた高校生のころとまったくかわらない。架空の敵をつくりいっとき強く団結する。けれどその団結が、驚くほど脆いことも小夜子は知っている。おそらく数か月後には、ひとり子どもを塾に通わせる早田さんが、彼女たちの攻撃の的になっているのではないか、などと無責任な想像をする。
なんのために私たちは歳を重ねるんだろう。
(略)
なんのために歳を重ねたのか。人と関わり合うことが煩わしくなったとき、都合よく生活に逃げこむためだろうか。銀行に用事がある、子どもを迎えにいかな きゃならない、食事の支度をしなくちゃならない、そう口にして、家のドアをぱたんと閉めるためだろうか。そんなことを思う。
p309-p311


同じ疑問を、高校時代の葵も抱いている。
小夜子は高校2年のときに進路の違いもあって突然多数の友人を失った。その後予備校で仲良くなった相手とも進学先が異なることもあり、疎遠に。そんなこともあり、人との関わり合いに積極的ではなくなってしまう。
並行して描かれる高校時代の葵も、クラス内のイジメ(標的が移り変わる)に常に脅えながら暮らして、親友ナナコとも突然会えなくなるなど、小夜子に似ている状況にあり、ある大きな事件のあとで父親にこう訴える。

おとうさん、なんであたしたちはなんにも選ぶことができないんだろう。(中略)
なんのためにあたしたちは大人になるの? 大人になれば自分で何かを選べるようになるの? 大切だと思う人を失うことなく、いきたいと思う方向に、まっすぐ足を踏み出せるの?
p259


小夜子の「なんのために」は、葵の「なんのために」と同じで、世の中への絶望を意味している。にもかかわらず、高校時代の葵が(期待もこめて)投げかけた質問への回答は少なくとも後半二つは「NO」だ。つまり、大人になっても

  • 大切だと思う人を失うことはなくせない
  • いきたいと思う方向に、まっすぐ足を踏み出すことも難しい

いつ自分が標的にされるかとびくびくし、信じたものに裏切られ、分かり合えると思っていた友人とは心が離れてしまう。そんな風にして人との関わり合いに苦しむことがこれからもずっと続くのなら、歳を重ねても意味がないのではないか?
小夜子も、高校時代の葵も、そして解説の森絵都もそんな風に思っていた。


これに対して葵は大学時代に訪れたタイで自分の身に振りかかったた出来事から答えを得る。「そうではない」「歳を重ねる意味はある」と。

信じるんだ。そう決めたんだ。だからもうこわくない。馬鹿な嘘をつき脅す男がいる世界がある一方で、仕事を放り出し足を棒にして空いている安宿を探し、礼の言葉も聞かず立ち去る男のいる世界も、またあるのだ。おんなじことだ。p292


小夜子はファミリーサポートセンターの50代夫婦の話を聞いていて気が付く。

なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。
p321

出会う相手が良い人なのか悪い人なのかは分からない。目の前の老夫婦に娘のあかりの保育園の送り迎えや預かりをお願いして何か問題が起きることもあるかもしれない。
50代夫婦の立場から考えたって、相手がクレームばかり言うような人間かもしれない。
双方ともに、出会うことのその先に何か価値のあるものを求めているが、何かをやろうとしたとき一人では何もできない。だから、大切なことに近づくためにサポートをしてくれるような人との出会いが必要になる。
そして、人と出会うことによって、自分の心に灯がともる。沸々とやる気が湧いてくる。
新年になって、小夜子、スカートについた醤油の染みを落としながら思い出していた「こんちくしょう、こんちくしょうと歌うようにつぶやきながら、自転車を走らせた日」というのは、生きるエネルギーに満ちていた日々だ。


遡って読み返すと、人と出会うことの大切さは小夜子のマンションに来たときに、葵が「海外旅行にマニュアルは有害」という話をしたときの内容に既に表れている。

異国って、『ここ』とは違うじゃない、人はみんなわかりあえるとか、人間なんだから同じはずとか、そういうのは嘘っぱちで、みんな違う。みんな違うってことに気づかないと、出会えない。マニュアルってのは、あれしなさいとかこれが常識だって説明するだけで、違うって感覚的にわかることを邪魔するんだと思うんだ。p164


つまり、小夜子は気が付いていたとも言える。
自分と葵は全く違う。だからこそ「違いを乗り越えてわかりあえる」のではなく、「わかりあえない、だから面白い」。そこが葵と仕事をしていたときに一番魅力を感じていた部分だったのだ。
森絵都が解説で最後にまとめているように、出会いというのは「熱源」で、それによって自分を「内側から」あたためてくれる。

人と出会うということは、自分の中にその人にしか埋められない鋳型を穿つようなことだと思っていた。人と出会えば出会うだけ、だから自分は穴だらけになっていくのだ、と。
けれどもその穴は、もしかしたら私の熱源でもあるのかもしれない。時に仄かに発光し、時に発熱し、いつも内側から私をあたためてくれる得難い空洞なのかもしれない。


ただし、よく読むと、この小説では、価値をおくものを「人と」出会うことに限定していないということもわかる。
小夜子が初めて葵の家に行ったときに、葵が次のような話をしている。

けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね。
p112

つまり、最も重要なのは「ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何か」との出会いで、出会いの相手を「人」に限定するものではない。ましてや、人とに合わせて自分の行動を縛るようなことになっては本末転倒だといえる。


この物語の面白いところは、十数年ずれた時間軸で、主人公の小夜子と葵が、並行して、生きる目的に気が付く構成を取っていること。しかし、十数年先を行く葵が、成功者として登場するのではなく、物語の終盤では失敗していること。
つまり、最後に取った小夜子の選択は「正解」というわけでなく、非常に先行き不透明。それもわかった上で小夜子が最後に「出会うこと」を決断したということだろう。
それは、葵の人の良さに惹かれたのではなく、残された葵を可哀想と思ったのでもない。見ているものも、欲しているものも、目指しているその先も全く違う葵といることで、自分の中で化学反応が起きる。葵がまた何か突拍子もないことを言いだすことで、それに対する負の感情も含めて自分のエネルギーが湧いてくる。


最後のシーンで、小夜子の頭に浮かぶ風景は、対岸を歩いていく二人の女子高生。
対岸に架かる橋を目指して、彼女たちと出会うことを目指して、女子高生の小夜子は走り出す。
タイトルで言う「対岸の彼女」は、勿論、小夜子とは何もかもが違う、いわば対岸側にいる葵のことを指すと考えるのが自然だ。(勿論、対岸を歩いているのは二人であることを考えると、葵の心の中にいるナナコのことも指している。)
川を挟んだ二人は、橋まで辿り着けば、お互いのことをもう少しわかりあえるかもしれないと思っている。しかし、橋が幻だったとしても、対岸に彼女が見えることが、自分が前に進むエネルギーになっている。それが重要だと言うのが、作品のメッセージだろう。


葵のような生き方は刹那的で破滅的に見える部分もあるが、思いついたら即行動というのは、それこそ自分には全く欠けている部分だろう。そういった自分と異なるタイプの人間と付き合うことによる方が、生きる力が湧いてくるのかもしれない。人は一人では生きられないのだから、出来るだけ多くの人と影響し合って残りの人生を生きていきたいなあ。


⇒補足:他人の悪口を言うということ〜『岡崎に捧ぐ』×『対岸の彼女』×『レタスバーガープリーズ.OK,OK!』