- 作者: 山口かこ,にしかわたく
- 出版社/メーカー: かもがわ出版
- 発売日: 2013/03/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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幼い時に父を亡くした私の夢は「家族をつくって平凡に暮らすこと」。だが、不妊治療、流産を乗り越え、ようやく授かった娘は広汎性発達障害だった。娘が幸せになる手がかりを探して療育に奔走するも、わが子と心が通いあわないことに悩む。さらに将来を悲観し、気づけばうつ状態に。チャット、浮気、宗教…現実 逃避を重ねるなか、夫に突きつけられた離婚届。娘と離れ、徐々に現実から目をそらし逃げていたことに気づくのだが…「親は子どもの幸せを諦めてはいけな い」娘の障害受容ができず、一時は死をも考えるほど、どん底に落ちた著者の絶望と再生の物語。
Amazonでも評が分かれる問題作。
色々思いはあるけれど、全体的には読んでとても良かった一冊でした。
作・絵が分かれるコミックエッセイ
最初に内容とは別の部分。
自分がこれまで読んだコミックエッセイは、そのほとんどが漫画家自身が体験したことを書いたものだったが、この本は違い、「絵・にしかわたく、文・山口かこ」ということで、漫画を描くのは出来事を体験した作者ではない。しかし、コミックエッセイという形式への先入観が強すぎて、途中までは作者と漫画家が別であることに気が付かなかった。
通常のタイプ、つまり漫画家自身が書くコミックエッセイがの強みは、文章よりも絵のほうが、体験を大げさに書くのに適しているということ以外に、自分へのツッコミが入れやすいということが言えると思う。ツッコミを入れることで、失敗や間違いを笑いに昇華できる。
しかし、この漫画では、扱っている内容のせいもあるが、暗い場面になればなるほどツッコミがなくなっていく。10章あたりからの暗さは異常だ。
あとがきを読むと、このあたりは、漫画を描いている「にしかわたく」さんの意向が強く、この人の作風なのかもしれない。
こうして自分の体験を書くことになったわけですが、
正直、自らの醜態をさらけ出すことに、まだ抵抗がありました。
そんな私の心を漫画家のにしかわさんは、見抜いたのでしょう。
最初の原作を読み、私に言いました。
「ありのままを書かなければ体験コミックエッセイじゃない。
いいことだけを書いていたら、それは『偽善の本』になってしまう」
この厳しい助言もあり、内容に言い訳がなくスリムになっていることで、あとで書く通り、この漫画は伝えたい人には届く漫画になっていると思う。
作者の選んだ行動について
この本に関しては、Amazon評を見ても、作者の考え方や行動に疑問を呈する声が多い。ここで目次にしたがって簡単にあらすじを整理する。
- 序章「たから誕生」
⇒2年間の不妊治療と1度の流産を経て念願の子どもに恵まれるまで。
- 第1章「親ばかですか」
⇒可愛くてしかたない娘のたからちゃん。1歳半の頃から次第に神経質な部分が目立ち始める。
- 第2章「愚痴ってもいいですか」
⇒たからちゃん2歳。かんしゃくが目立つように。
- 第3章「私の娘、ヘンですか」
⇒ネットを検索して娘に近いタイプの子どもの相談を見つけ、発達障害の可能性を疑う。児童精神科で「広汎性発達障害」との診断を受ける
- 第4章「療育ってなんですか」
⇒母子通園施設(はぐくみ)で療育を受ける中で、少しずつできることが増えていくたからちゃん。
- 第5章「普通の子は可愛いですか」
⇒はぐくみのママ友マユちゃんと話す中で他の親も苦しんでいることを知る。さらに、「アスペルガー症候群の女子高生のブログ」や「広汎性発達障害の息子を持つ母親のブログ」を読み、不安を増やす一方で「明るく前向き」で子どもに無償の愛を与えるママ友を見て、自分は「わが子を可愛いと思っていない」ことに気が付く。
- 第6章「死んだらダメですか」
⇒人間関係に気を使って生きてきた作者にとって、他の子と遊ぼうとしないたからちゃんは受け入れがたく、心中を考えるところまで悩んでしまう。
- 第7章「子は鎹ってホントですか」
⇒夫との出会いからこれまでを綴る。たからのかんしゃくと広汎性発達障害の診断で、二人の溝は深まってしまう。
- 第8章「チャットは逃避の始まりですか」
⇒たからちゃんは3歳になり公立保育園に入園。一方で作者はネットを徘徊して見つけたメンタルヘルス部屋というチャットルームにはまり、睡眠不足に。それを見て、夫も呆れ気味。
- 第9章「女になっていいですか」
⇒たからちゃんは4歳に。チャットルームで知り合った男性と電話をするようになり、直接会って関係を持ってしまう。さらに夫に恋愛相談をするなど末期的状況に。
- 第10章「信じる者は救われますか」
⇒久しぶりに連絡したマユちゃん(はぐくみのママ友)は鬱になり、リストカットを繰り返した挙句、新興宗教にすがっている状況。チャットの彼を忘れたい思いから作者もお祈りを始めるも破門。マユちゃんはオーバードーズ後、結局別居し、子ども3人は夫が引き取ることに。
- 第11章「娘を手放していいですか」
⇒たからちゃん6歳の夏に離婚成立。育児も家事もほぼ放棄している状態だった。たからちゃんは夫の実家に行くことに。作者はまたチャットの彼と付き合い始める。
- 第12章「たからはたからですか」
⇒1年生になったたからちゃんと8か月ぶりに会うことに。1週間の滞在の間、娘の成長を感じ、夫や義両親の頑張りと、それとは対照的な自分のダメさに気がつく。
- 第13章「母親続けていいですか」
⇒たからちゃんと離れて暮らすようになり3年半。ライターの仕事をしながら娘にも数か月おきに会い、幸せを感じている状態。こんな形だけど「たからとの幸せを探していきたい」というラスト。
この構成でやや特殊だと思うのは、自身を反省するまで(11章まで)の主人公は、後から振り返れば間違った思い込みに囚われており、所々でその思いが間違ったまま綴られるところ。まるで読者の反感を買うことこそを目的にするようにして。
特に強烈なのは、8〜10章でダークサイドにどんどん落ちていった末の、離婚成立を描いた11章での吐露。
だんなとたからが家を出ていくまでの数ヶ月間
私は毎週末たからを母に預け、タガが外れたように遊びまくった
「この人」と思える相手と結婚した
だんなの無職&転職、不妊、流産を乗り越えて
ようやく授かった子には全力で向き合った
24時間泣き叫ばれてもくじけなかった
あともう少しもう少しで夢に手が届く…
そう信じて頑張ってきたのに
最後の最後に「広汎性発達障害」の壁に立ちふさがれ
何もかもこっぱみじんに砕け散った
「自分のことしか考えていない」って!?
うるさい!!
発達障害さえなけりゃ
私だっていいお母さんになっていたよ!!
「世の中にはもっと重い障害や病気の子どもを持つお母さんもいる」って!?
うるさい!!
うるさい!!
私は“普通の家族“が欲しかったんだ!!
普通の家族がいるお前らなんかになにがわかる!!
お前らなんかになにがわかる!!
ここだけ書き出して改めて読むと、とても強烈で、特に自身が発達障害だったり、親類に発達障害の人がいる方にとっては、あり得ないような発言だ。
今現在はライターとして発達障害についての取材もしながら、子どもたちをサポートしていきたいと支援の勉強をしているというし、本文中でも何度も反省の弁が述べられているから、このような気持ちは、むしろ「なかったことにしたい」のではないだろうか。それでも、別のところ(p55)で「人生のハズレくじを引いた」という言葉も鍵カッコつきで出てくるように、当時の彼女は実際にそう思っていたのだろう。
「チャットで知り合った別の男性とさんざん不倫しておいて何様!」という風に思う人がほとんどであることが分かっていても、当時彼女の頭を占めていたこの考えを漫画の中で吐き出さなければ、にしかわたくさんの言うところの『偽善の本』になってしまっていた。むしろ、悩みの「底」から出た我儘発言を残しているからこそ、この部分に救われる人も多いと思う。
そんな作者も、離婚後8か月を経てから(12章)、 自閉症当事者であるジム ・シンクレアという人の「私たちのことを嘆かないで」という文章*1に出会って、かつて「たからが広汎性発達障害じゃなくなるように」と願っていた自分の過ちに気がつく。
「自閉症」は人を閉じ込める殻ではありません
中に「普通の子ども」が隠れているわけではないのです
「自閉症」は私が私であることそのもの
私という人格から切り離すことはできません
うちの子が自閉症でなければよかった
この子の自閉症が良くなりますように
その嘆き、その祈りは、私にはこう聞こえます
「自閉症ではない別の子がよかった」
両親が語りかける夢や希望に私たち自閉症者は思い知るのです
彼らの一番の願いは私の人格が消えてなくなりもっと愛せる別の子が
私の顔だけを引き継いでくれることなのだと…
(ジム ・シンクレア「私たちのことを嘆かないで」)
結局のところ、作者を悩ませたのは、娘というよりは「普通の子」にこだわり過ぎた作者自身の強い思い込みなのだ。この本の中でのたからちゃんや周りの子たちの成長の様子を見ていると、、誰もが性格や発達状況に凸凹がある以上、「普通の子」というのは幻想であることがよくわかる。だからこそ、8章〜11章のどん底期での思考パターンの駄目さ加減が、よく見える作品になったのだと思う。
特に、ラストで9歳のたからちゃんが立派に育っているのを見ると、その思いは強くなる。
そうした作者の悩みまくる様子をさんざん見せるのとバランスを取るようにして、高機能自閉症やアスペルガー症候群の権威の一人である杉山登志郎先生との対談が漫画の合間合間に挟まっている。この部分が無ければ、ややバランスを欠いた「奇書」のようになっていた可能性もあるが、これがあるのでマイルドになっているし、実際の悩みを持ちながら読む人にとっても助けになるだろう。
この中では、自閉症スペクトラム障害の子どもを持つ母親のうつ発症リスクは非常に高いことが話題に出て、母親へのメンタルケアも重要とされている。これも作品の流れから考えて当然の内容だとは思うが、ひとつ抜けていることがあるように思う。本の中で積極的なアドバイスが書かれていないが、彼女の場合、状態を悪化させ、また夫婦の絆を奪ったのは、ネット依存に原因があるように思う。彼女が当事者だからこそ、こういった悩みを持った場合のネットとの付き合い方についても、もう少し文章を割いてもらった方がよかったのではないだろうか。
繰り返しになるが、たからちゃんが無事に育っているのは何よりだ。
成長した彼女が、この本の存在に気が付き、自分の母親のアレコレを見て傷つくことは十分考えられる。しかし、この本が作者一人の考えで世に出たものではないことを考えれば、そこらへんのケアについては元夫含め周囲の人間の間では方針が決まっていて、これからも母娘で直接会って、その思いを色んなかたちで本人に教えていくのかもしれない。そこが最終章の(これもなかなか外部から理解しにくい)「もう一度たからと一緒に、たからの幸せを探していきたい」の部分にこめられた決意なのだろうと思う。
Amazon評などを見ても、この本は、一部の人をイライラさせながらも、確実に、一部の悩める人の支えになるのではないかと思う。ただ、理想的には、そういった悩みが発達障害の子どもを持つ親だけに共有されるのではなく、年齢性別関係なしにより多くの人が、こういった悩みを知ることが、生活しやすい社会にしていくためには重要なのではないかと感じた。