Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

光と音を感じなくても〜荒美有紀『手のひらから広がる未来』

手のひらから広がる未来 ヘレン・ケラーになった女子大生

手のひらから広がる未来 ヘレン・ケラーになった女子大生

前々から視覚障害者の方の本をよく読んでいましたが、昨年末に、福島智さん(東京大学教授)の本を読んだことをきっかけに、盲ろうの人に興味を持ちました。
盲ろうとは、視覚と聴覚の両方に障害を併せ持つこことで、この本の副題にもあるヘレン・ケラーが世界で最も有名な盲ろうの人ということになるでしょう。
自分が視覚障害者の人、また、盲ろうの人の本を読むのは、悪い言い方をすれば単純に「興味本位」です。しかし、前にも書いたことがありますが、ダイアログ・イン・ザ・ダークでの2度の体験が非常に心に残っているからでもあります。視覚が制限されるということは、コミュニケーションだけでなく、時間経過の感覚まで変わってくる、ということを、そのときに初めて知りました。
一方で、視覚障害者の方が書いた本を読んでいると、中途失明者の方で点字を読めない方もたくさんいることを知り、自分が今から目が見えなくなっても点字をマスターするのは難しいだろう、大好きな本を読むのも基本的には耳からだろう、とも思っています。また、パソコンの読み上げ機能なども充実しているようなので、眼の代わりに耳に依存する生活になるのだろうと考えていました。
だからこそ視覚に加えて聴覚を失うというのは、自分にとっては想像を超えた世界、そういった盲ろう者の世界を知りたい、というのが、この本を読むきっかけということになるでしょうか。

荒さんの病気の進行

荒さんの場合、難病(神経線維腫症?型)のために高1で右耳が聞こえづらくなったのが最初。
一浪で大学に入学し、フランス文学を勉強しながら野球サークルのマネージャーも頑張っていましたが、入学後半年で左耳の張力が急激に悪化し、大学3年生からは補聴器をつけて通学するも聞こえない場面が増えたそうです。
就職活動を続ける中で、視界がどんどん白くなり、4年生の4月に緊急入院、5月には手術を受けます。
その後、視力は少し回復した時期もありながら、見えない状態が続き、盲ろうの状態に。入院後1年経った2012年の4月に退院し大学に復学、という経過をたどりました。
今から社会人という時期になって、それまで感じることのできた光と音がなくなってしまうという状況に陥るということを、なかなか想像できませんが、それを受け入れるのは大変だったことと思います。

盲ろうの人のコミュニケーション

盲ろうの人のコミュニケーションは福島智さんの本を読んでいたので知っていましたが、手書き文字や指点字というものを使います。その際、福島さんも書かれていましたが、直接話法/間接話法の違いは、非常に大きな問題だということが、この本の中にもありました。
手書き文字でのコミュニケーションに苦戦していた時期の荒さんが一対一以外のコミュニケーションに感じていた不満を、「東京盲ろう者支援センター」の「こださん」が変えてくれた、と書いています。

私は、会話をあきらめるしかなく、どうしたって、「薬を看護師さんが置いていったよ」などのように、物事はすでに過去に起こってしまっていて、私の反応を差し込むすきがなかった。そんなふうに、いつもいつも、過去に完結している物事ばかり伝えられるのだ。
どうしても、物事が起きている、リアルタイムで伝えてはもらえなかったし、第三者を含めた会話はあきらめていた。現実世界との間に大きな隔たりがあることは、痛烈に感じていた。でも、こださんが伝えてくれる会話は違った。
こだ/こんにちは!はじめまして
母/遠いところ、わざわざありがとうございます
というように、会話をそのまま、直接話法で私の手に書いてくれた。いつもなら「こださんがあいさつをして、お母さんがお礼を言ったよ」となるはずだ。
(p144)

また、相手の反応どころか存在自体が分からない世界では、たとえ周りに6人いたとしても「伝えてくれる人がいなければ、私にとってはただ一人きりでいるのと同じことだった。孤独で、寂しくて、悲しくて、いつも心は張り裂けそうだった。」と孤独感を常に感じることになります。しかし、伝えてくれる人がいても、感じる疎外感について、本の中では繰り返し書かれます。
以下の記述は入院の初期について書かれた部分。

私が話すことができるのは、私の手をつかんで話しかけてくれる相手だけ。(略)
私には伝えてもらえないことがたくさんあった。自分が1人の人間として、尊重されていないと感じた。自分のことは自分で判断させてほしかった。私のことをまわりが話し合い、勝手に決めて、私には結果しか言わない。どういう流れでそういう結果になったのか、まったくわからない。そんな状況がとても苦痛だった。
私の情報源は母の手だけ。母の手は私の目と耳の代わりでもあり、私が世界の中で生きていられるための、最終手段でもあった。パソコンの接続プラグのようなもので、その手を離せば、私はいつでもシャットダウンされてしまうのだった。(p118)

また、信頼している医師「ひげ先生」の誕生日プレゼントに秘密でミサンガを作ろうとしたときのエピソードも、印象に残っています。「秘密」というのは、相手から見られていない聞かれていないことに確信が持てるからこそ可能なことで、それができないところでは実現できません。よく「情報の非対称性」などという言葉が使われますが、これほどまでに非対称な人間関係もないのかもしれません。

病院では、話したことがなんでもカルテに書かれて、知らないはずの人までその点を聞いてくるから、なんにも話せなかった。(p126)

なにもかも見られていて、他人がみんな私のことを知っているのに、自分はまわりで起こっていることをなにも知らないというような、不公平で、気持ちが休まらない生活だった。(p128)


しかし、そういった沢山の「不自由」を感じる中で、短い期間で点字を習得し、大学に復学し、また、ブログを通じて、情報を発信していくという部分は、荒さんの前向きな性格と不断の努力によるところなのでしょう。
ブログ(→コチラ)は、本の中で「ゆゆさん」と書かれる武内祐子さんと共同で作成しているとのことで、とても更新頻度が多く、話題も豊富です。
こういったブログの更新やメールのやりとりは「ブレイルセンス」という、点字ディスプレー表示と点字入力が可能な、いわく「お弁当箱みたいなスマホ」を使って行っているそうです。
自分もブレイルセンスを使いこなすことができるのだろうか、と思いながらブログを読みました。

迷いや苛立ち

この本の特徴は、盲ろうになってから日が浅い荒さんの気持ちがとてもよく伝わってくることで、福島智先生の本と比べると、その違いがよくわかります。
福島先生の本は、盲ろうになってから何年も経っており、その間に繰り返し(大学時代の研究論文も含め)半生を振り返っているためか、人生や世界の捉え方が達観しており迷いがなく、遠い存在、いわば神の言葉を聞いてるような気分になります。
それに比べると、荒さんの本には現在進行形の迷いや葛藤がストレートに表現されており、それが読んでいる側にも強く伝わってきます。
特に、自分が障害者であることを、どう受け入れていくか、認めていくかの部分については、非常に多くの時間がかかったようで、大学2年生で初めて補聴器のお店に行ったときの話や、障害者手帳をもらったときの話などの複雑な気持ちが書かれています。

お店のおじさんは、ニコニコと優しげで、外から見えないように、ブラインドを下げてくれた。新設にさまざまなタイプの補聴器を差し出してくれたけれど、私は補聴器をてにするだけで涙がにじみ、そこにいることが嫌で嫌で仕方がなかった。補聴器をすることが恥ずかしかった。(略)
「私はまだ20歳なのに…。私が、どんな悪いことをしたっていうのか」
まるで、耳に十字架をかけられているようだった。(p55)

あんなに拒んでいた障害者手帳。これは私が障がい者だという証明だった。
普通の女の子でいたかった。自分が障がい者だなんて認めたくなかった。障害者手帳に書かれた金の刻印を指でなぞりながら私の心は寂しさでいっぱいになった。(p63)


そういった迷いや葛藤から、荒さんが健常者に向けて、時に、苛立ちや厳しい視線を向ける文章には、読んでいて辛くなる部分もあります。自分の想像力が問われているような感じがします。

理解を深めてもらうために盲ろう体験というのもある。アイマスクをしてノイズ音を流したヘッドフォンをする。(略)体験をしてもらえると、仲間が増えたようでうれしい。
でも疑似体験はやっぱり「疑似」体験。盲ろう状態を体験してくれた人たちは、「怖い!」と口々に叫ぶ。そして、ものの数分程度で「無理無理!!」とアイマスクとヘッドフォンをはずしてしまう。「ああ、よかった!光と音が元通り!」とホッと安心するのだ。
けれど、盲ろう者は途中でやめることは許されない。盲ろう者には休憩も交代もない。オールウェイズ盲ろう。(p16)

ゆゆさんは、私が思っていた「心理の人」のイメージとは全然違っていた。「心理の人」というと、私には「どんなふうにつらいの?話してごらん。そうだよね、わかるよ!」みたいに、無理やり気持ちを聞き出されて、それに対して薬を処方されたり、コントロールされるようなイメージがあった。
でも、ゆゆさんはそんな「活動」は一切していかなかった。(p94)

知人の中には、障がいに対する興味本位で近づいてくる人たちもいた。「いくら私がもがいていようと、世間はそんなに甘くない。今は、関心を持ってもらうことが大切で、できるサポートをしてもらえるだけでありがたい」とは思ったけれど、一方で、健常の彼らが手話や点字に興味を持っても「それを使おうとしないなら意味がないんじゃない?」と冷めた見方もしていた。(p192)

私たちはもともと健常だったけれど、くるみはその頃、難聴になっていて、「障がいを持つと、まわりの反応が変わること」を2人とも敏感に感じていた。障がいを気にして、話をする内容が変わったり、障がいを持つことについての話を当事者になった私たちから聞こうとしたり、試験の時期になると「授業を聞いていなかったから」とノートテイクしてもらったデータをほしがる人がいたりした。人間の興味本位な部分や身勝手な一面も嫌というほど目の当たりにして、くるみと私は悲しくなっていた。(p213)


これらは文句としてではなく、ゆゆさん(臨床心理士の武内祐子さん)や彼、また、「心友」のくるみさんが、「他の健常者」とは違って、信頼できることを示すために敢えて(ダメな例として)書かれている文章がほとんどです。また、勿論、すべての盲ろうの人がこのように感じているというのではなく、荒さんの感覚でしょう。
しかし、自分が、今、盲ろうの立場になったら、こういった思いを抱くだろうなあという気持ちも理解できます。
こういうとき、人を傷つけないために相手の気持ちを想像することが大事だというのは、どういう場合でも同じだと思います。したがって、例えば、盲ろうなど障害についての基本的な知識を身に付けておくことは、自分の直接の知り合いに、重度の視覚障害聴覚障害を持つ人がいない今からでもできる準備だと思うので、まずは勉強第一ということではないかというのが今の自分の結論です。

最後に

本書の中で、荒さん自身が「すごい」と言われることに嫌悪感を覚えると何度も書かれていますが、それでもすごいと思わざるを得ないのは、この人が、難病を抱えていることです。この本は基本的に盲ろうのことをメインで書かれており、そのことにはあまり触れられていませんが、「盲ろうよりも病気はもっとつらい」(p216)などの言葉もありました。
それでも足腰の不調を押してフィリピンで行われた「ヘレン・ケラー世界会議」(2013)に参加するなど、ほかの盲ろう者を支援する活動にも積極的に関わっているところは、すごいとしか言いようがありません。
荒さんだけでなく、福島智さんが病院に来て、5時間も話をしていってくれた話など、関わる人たちも含め、誰かの役に立ちたいという気持ちの暖かさを感じるエピソードも多く、改めて自分の普段の行動を振り返るきっかけにもなりました。
色々な人に読んでほしい一冊です。


ちょうど今度の月曜日(2016/2/22)にNHKで荒さんが取り上げられるとのことで、とても楽しみです。


なお、福島智さんの本は沢山ありますが、自分が読んだのはコチラ。

ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて

ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて