Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「好き」がそれほど重要か?〜西炯子『お父さん、チビがいなくなりました』

これは久しぶりにキタ!作品です。
世間の評価は良いのに、よくわからない。良さを理解できない…。
そもそも、先日「泣く」と紹介されて読んだのに、泣きどころすらよくわからない。
自分の感性のずれを感じてしまいます。
こんなに自分の感想と一般的な評価がずれるのは、村上たかし星守る犬』以来です。


短くまとめると、「老夫婦が仲直りする話」です。
男1人女2人の子どもはそれぞれ独立して家を出て生活し、夫婦は猫と一緒に暮らしています。
主人公は、37歳の末娘で、作品冒頭で課長に昇格したキャリアウーマンの菜穂子。
久しぶりに家に帰って母親・有喜子と話しているとき衝撃的な一言を聞いてしまいます。
「お母さんね…別れようと思ってるの。お父さんと」
…というところから始まり、最終的には、長年積み重なった夫婦間の誤解を解消することで仲が戻った。
そのことは良いです。
しかし、何となくうまく言った風のラストシーンからこぼれ落ちてしまっているものが沢山あるように思います。

「好き」原理主義への違和感

菜穂子がつき合うことになる山崎君の特殊性については、Amazon評でも非難の嵐なので、ここでは特に書きませんが、お父さん・勝と山崎の共通点は、「自分が相手を想う気持ち」が何より重要だと思っていること。
相手の気持ちは置いておいて、「想う気持ち」が強ければ強いほど、自分勝手な気持ちが正当化できると信じています。
自分が特に嫌なのは、勝も山崎も、その想いが「好き」の一言で相手に伝わって、しかも、それで全てが赦されてしまっていること。西原先生の名言に例えれば、「好き」の一言で、貯めたポイントをチャラにできるということ。それは明確に「ない」んじゃないかと思います。

女の人の感情ってポイントカードなんですよ。急に怒り出すって言うけど、日常の細かいことをずっとカードに判子で押してるんですよ。で、さっきのその一言が50ポイント目だったんですよ。キャッシュバックキャンペーンがはじまるんですよ。(西原理恵子※『実録!あるこーる白書』)

いくつか読んだAmazon評では、多くが山崎にダメ出しをしていますが、ほぼ同じ理由で勝もダメだと思います。

勝の犯した「罪」

まず、勝が、この漫画の最終話で想いを「告白」するまで、読者がやきもきしたのは、読み始めてからせいぜい30〜40分間だけだったかもしれません。しかし、有喜子は44年間ずっと不安に思っていた。この時間スケールを考えると、勝の犯した「罪」はとても大きいように思います。
有喜子から相談事があっても話を途中で切り上げて、2階の自室に上がってしまう冷淡な部分や、飼っている猫・チビをぞんざいに扱う態度、何十年にも及ぶこういった仕打ちが「恥ずかしがり屋」だからで済まされるとは到底思えません。この物語の時間スパンが1〜2年であれば、「いい話」として読めますが、明確に「ひどい話」です。


それだけではありません。有喜子のかつての同僚・志津子に対しても、44年間、淡い期待を抱かせ続けた上で、一方的に「もう会えない」と言い切る。数か月前に夫に先立たれて元気を取り戻していた志津子が、生きる糧にしていたものを、ここで断ち切る必要が何故あるのでしょうか。いわゆる「けじめ」なのか、「男の美学」なのか、よくわかりませんが、単に、志津子が(読者をミスリーディングさせるための)物語のコマとして使われているようで、とても嫌いなシーンです。

「男と女」というマジックワード

物語全体を通して、最初に書いた「好き」という言葉と合わせて「男と女」というマジックワードで、何か分かった気にさせるのもとても嫌いです。例えば、菜穂子と山崎のベッドの中*1での会話。

菜:…父と母が本当に別れちゃったらどうしよう…
山:別れないと思うよ
菜:…どうかしら 私にとっては「親」だけど、あの人たちも「男と女」なのよね
山:「男と女」だから大丈夫でしょ

何が大丈夫なのでしょうか。山崎は、最近読んだ漫画に出てくるキャラクターの中で、1,2を争う(いやブッチギリの)共感できないキャラクターなので、あまり言葉を引用したくありませんが、上で「大丈夫」と言った山崎は、勝と将棋を指しているとき、「でも燃えません?自分の女がほかの男にとか思うと、こうメラメラ」とか言っている。菜穂子の元カレのことを知っている山崎の立場を考えると、略奪するのが好き、と言っているようにも聞こえ、全く腑に落ちません。

改めて、勝が直さなければならないこと

アンドロイド研究の第一人者である石黒浩は「心とは、観察する側の問題である」と言っています。
AIBOのようなペット型ロボットが良い例ですが、ロボットに人間並みの知能があるかどうかは問題ではなく、人間側がロボットの中に「心」を感じることができるかどうかが重要ということです。
44年間、誰にも明かさなかった、誰にも伝わることのなかった勝の心。それはほとんど「無かった」ことと同じです。もっと言えば「好きという気持ち」が心の中にあるかどうかは、あまり重要ではないと思うのです。
相手の「話を聞いてほしい」という気持ちに答えてあげる、相手のやりたいこと(旅行)に理解を示してあげる、相手の好きなもの(チビ)を一緒になって好きになってあげる。
このうちのいくつかは、ペッパー君(ロボット)ならできる気がします。勝が直さなくてはいけない部分は、「好き」と相手に伝えること以外の方が沢山あるように思えてしまうのです。(勿論、その対象は有喜子だけではありません。志津子に対する振る舞いも同じです。)


勿論、自分もペッパー君に負けないように相手の気持ちを考えて日々行動したいと思います。

追記

そのあとで、この本を勧めてくれた方や、読んだ人と話をする機会がありました。
そこで、自分の意見が大きく変わったということはないのですが、感情移入する相手によって物語が大きく変わって見えることがわかりました。
どうも、女性は有喜子さんに感情移入して読む人が多く、「もしかしたら勝は志津子さんの方が好きなのでは?」という風に思ってしまうようです。
すると、勝が志津子さんと切れることは「安心」に繋がるため、「志津子さんが可哀想」という気持ちにならないとのこと。
自分は、どちらかといえば勝に感情移入しており、読んでいて「勝は志津子さんが好きなのかも?」という見方には全くならなかったので、読み方によって、捉え方が大きく異なるという意味で、とても面白い作品だと思いました。

参考(過去日記)

*1:追加するなら、勝・有喜子の時間感覚(44年間!)と比べて、菜穂子・山崎の時間感覚のずれも気になります。もっと時間かけろよ。