Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

聞かれたくなかった質問〜森岡正博『感じない男』×サンキュータツオ・春日太一『俺たちのBL論』

ビブリオバトルという、読みたくなる本を紹介しあって勝ち負けを決めるゲームがあり、ここ数年よく参加しています。
先日参加したビブリオバトルは、通常5分で1冊を紹介するところを、5分で2冊紹介するイレギュラーな形式。
ビブリオバトルは、身内でやる場合と、顔見知りでない観客がいる場合がありますが、このときは、顔見知りでない観客が15〜6人いる中での紹介でした。自分がぼんやり想定していた30代〜40代という想定からするとやや高めの50代以上も相当数いる中で、やや場違いな感じもする2冊を紹介しました。
ビブリオバトルでは、話すことは用意できますが、話したあとで設けられた2-3分の質問コーナーで何を質問されるかは、こちらではコントロールできません。今回紹介した2冊については、あらかじめ、これは聞かれたら嫌だなあと思っていた質問がありました。しかし、それは、紹介本の本質を突く部分であったので、口で話すのは嫌だけど、文章でなら何とか書けるし、紹介しておきたいなあと思う部分でもあったのです。
そこで、改めてビブリオバトルで喋った内容を書き下したうえで、紹介した2冊のうち、特に一冊に対する「聞かれたくなかった質問」について書くことにしました。

本の紹介(5分間で話した内容とほぼ同じ)

今日は誠実に自分の内面を掘り下げる本2冊を紹介したいと思います。


一冊目は、森岡正博『感じない男』。


森岡先生は哲学者。
この本の内容をざっくり言うと、男性視点で性(りっしんべんのせい)について語る内容です。
特殊なのは「男とはこういうものだ」という一般論ではなく、終始「自分はこうだ」と語ることです。


たとえば第1章は、私はなぜミニスカートに欲情するのか、というテーマ。
自分がミニスカートのどこに欲情するのかを掘り下げるために、
テニスウェアのミニスカートではどうか、
男がミニスカートを履いたら、とかマネキンが履いたらとか
電車で前に座った人がミニスカートだと思っていたらキュロットパンツだと分かるとがっかりするのはなぜなのか、
とか、色々な思考実験を繰り返します。
こういう文章はあまり読んだことがないので、女性も面白がって読める部分だし、
自分も含めて多くの男性は共感して読める部分だと思います。


しかし、2章以降どんどん共感しにくくなっていきます。
それだけでなく痛々しさまで感じてしまうのです。


このあと、3章「私はなぜ制服に惹かれるのか」に続いて
4章では私はロリコンの気持ちがわかるという話をしていきます。
誤解してほしくないのは、森岡先生は、性被害や性犯罪の問題などを踏まえた上であえてこれを告白しているということです。
むしろ、日本社会がロリコン的視点を許容しすぎていることに対して規制の必要性まで求めています。
そんな中で、共感しにくいのは、性的な部分ですべてを語りすぎな部分です。小学生を可愛いと思っても、そこには性的な部分以外の要素がむしろ多いはず。
例えば、「萌え」という言葉についても森岡先生は「性的に惹かれてドキドキすること」と定義して使っているのです。


…なんか違う。
漫画・アニメなどのサブカル的な寄り道をせずに、自分の内面のみを見つめているから、ここまで痛々しくなってしまうのではないかと自分は思ったのです。


そこで、もう少しサブカルをテキストとして男性の内面を掘り下げたのがもう一冊のこちらです。
サンキュータツオ春日太一『俺たちのBL論』です。


これは、形式としては男性向けのBLガイドで、お笑い芸人のサンキュータツオが、時代劇評論家の春日太一にBLを教えるという講義形式の本となっています。
こ の本の中で、サンキュータツオは、BLメガネ、BLレーシックという言葉を使います。
BLメガネで見ると世界が違って見える。
例えば、この本は表紙にある 通り、「鉛筆は消しゴムのことをどう思ってますか?」という例題から始まりますが、そういった無機物ですら輝いて見えるほど、BLメガネは強力なのです。
攻めと受けだとかカップリングだとか基礎的な知識も書かれているのですが、
自分が好きなのはサンキュータツオが自分語りをする部分です。
ここでは、サンキュータツオの漫画・アニメ遍歴と、そのときに湧き上がった感情を自己分析します。
森岡先生の本でも出てきた「萌え」については、サンキュータツオは性欲と切り離して考えています。
ざっくり言えば、
純真無垢で天真爛漫なキャラクターに癒される感覚
が「萌え」ということで、森岡先生の定義よりしっくりきます。


このあとで、第2部実践編以降は具体的なBL作品に触れて、聞き手の春日太一も開眼し、読者もBLメガネを手に入れていくわけですが、この本の一番の読みどころは、第3部の解脱編です。
「BL」についても、「萌え」の延長上で捉えて、サンキュータツオなりの解釈としては、男対男であることで、性欲から切り離して恋愛を語ることができる、という話をするのですが、
春日太一は、「そうではない。自分はBLにも欲情する(性欲と切り離せない)」と言い出します。
ここで、春日太一が突然自分の性癖を語り出す。ここがとてもエキサイティングな部分です。この部分は森岡先生の本の内容とも直結するし、ここを楽しむためにも2冊はセットで読んでほしいと思います。
(5分間の発表終了)

聞かれたくなかった質問

発表自体はとても上手く行きました。受けを取りたい場所で反応があるとこちらも安心しますが、観客の反応はかなり期待通りだったからです。その後の質問は『俺たちのBL論』についてのものがほとんどで、答えやすい内容でした。
そんな中で聞かれたくなかった質問は、ずばり「『感じない男』というタイトルの意味は何ですか」というものでした。
ビブリオバトルでは、タイトルの意味を問う質問は比較的多く出てくるので、かなり冷や冷やしたのですが、結局出なくてほっとしました。
この質問は、まさにそれこそが、自分が『感じない男』という本に共感できない一番の理由なので核心部分に当たるのですが、とても大勢の前では話したくない内容でもあるのでした。


なぜ大勢の前で話したくなかったのか。


遠まわしに言うと、ネットスラングで「賢者タイム」と呼ばれる、性的行為と直結する状況について語らなければならなくなるからです。(知らない人はググってください)


森岡正博は、『感じない男』というタイトルの意味について、この本の第二章「”男の不感症“に目を背ける男たち」の中で次のように書いています。

「男の不感症」は、二つのことを指している。ひとつは、射精がそれほどたいした快感ではないということだ。一瞬の排泄の快感でしかない。もうひとつは、射精したあとで、一気に興奮が醒め、全身が脱力し、暗く空虚な気持ちに襲われるということだ。私にとっては、前者よりも、後者のほうが深刻な問題である。なぜかと言えば、射精までのプロセスを引きのばすことによって性的な興奮を長く味わうことはできるし、セックスのやり方を工夫することで射精の快感を少しは高めることもできるのだが、しかしながら、どんな努力をしてみても、射精の直後の、あの興奮がすーっと醒めていく空虚な感じだけはけっしてなくならないからである。「死をイメージさせる虚無感」という渡辺(淳一)の表現は的確だ。射精がいつもこのような絶望的な感覚で締めくくられてしまうこと、これこそが「男の不感症」の核心なのである。p39

「死をイメージさせる虚無感」については、これ以外でも「ひとりぽつんと取り残される感覚」「ざらざらとした砂漠にひとり取り残された気分」「急に醒めていく墜落感覚」「敗北感」と言葉を変えて繰り返されます。
この本は、最初に述べた通り、一貫して「私の場合はこうなのだ」が綴られた内容で、森岡正博自身も「すべての男が不感症だとはぜんぜん思っていない」と書いていますが、まさにその通りで、自分にはピンと来なかった部分でした。自分にも当然、いわゆる「賢者タイム」はあるけれど、そこに絶望などは微塵も感じず、「そういうもの」だとしか受け止めていなかったのです。
ところで、オリジナル・ラブの代表曲にも、この「絶望感」を歌ったのではないかという歌があります。

焼けるような戯れの後に
永遠に独りでいることを知る


長く甘い口づけを交わそう
夜がすべて忘れさせる前に
fall in love きつく抱きしめるたびに
痩せた色の無い夢を見る
ORIGINAL LOVE「接吻」)

「永遠に独りでいることを知る」というのは、まさに森岡正博の言う絶望なのかもしれません…。
というか、それ以外の解釈ができないほど、一致している気がします。


このような「男の不感症」は『感じない男』の核を成す考え方で、それをベースにほとんど全てが語られるので、自分はついていけなかったのですが、もう一つ、この本の核を成しながら共感しにくい感覚がありました。

制服フェチとは、少女の体になりたいということだ。(略)
だとすると、そもそもどうして、少女の体になりたいという願望が、私の中にひそんでいるのであろうか。少女に乗り移ってまでして、少女の体を獲得したいという欲望は、どこから沸き起こってくるのだろうか。その欲望の根底にあるのは、「このごつごつして汚い男の体から、抜け出してしまいたい」という、祈りにも似た脱出願望なのではないかと私は思う。自分自身の体に対する感情は、このような自己否定の感情である。p105
(第3章「私はなぜ制服に惹かれるのか」)

自分は、「少女の体になりたい」という気持ちはわかります。男の体のままでは、アイドルのように歌って踊って世界を楽しむことができないからです。自分はカラオケが好きなので、やはり女性ボーカルの歌を歌う際に「少女(女性)の体になりたい」と感じることがあります。
しかし、「男の体から抜け出したい」という気持ちは、ほとんど考えたことがありませんでした。「男の体が汚い」という感覚も、ほとんど意識しませんでした。


しかし、この共感しにくい2つの感覚の両方について、『俺たちのBL論』で、春日太一が熱く語っているから面白いのです。2冊を紹介する際に、最後に『俺たちのBL論』第三部<解脱編>が一番の読みどころだと言った理由はここにあります。また、第三部で語られるテーマ自体、『感じない男』の論旨とかなり接近しているにも関わらず、自分は、『感じない男』を読んだときよりも(共感できなかった2つの感覚に)強い納得感を得ることができたのです。
ただ、このことを書き出すとまた長くなってしまうし、『俺たちのBL論』については別の切り口で紹介したいとも思っているので、また今度にしたいと思います。


結論としては、『俺たちのBL論』と『感じない男』を合わせて読むことで、男も女も「男の性」について改めて知ることができると思います。また、男がBLを読む意味を見出すことができる気がします。森岡先生がBLのことをどう評するのか(評しているのか)については是非聞いてみたいところです。
なお、ビブリオバトルが終わったあとに、聞いていた女性から、森岡正博草食系男子の恋愛学』について「世の中の全ての男に読ませたい本」と紹介されたので、こちらもすぐにでも読んでみたいと思っています。

参考(過去日記)

⇒10年前に書いた文章で、今回、特に振り返ってこの文章を読まなかったのですが、感想がほぼ同じでした(笑)。最近では「僕」という一人称を使わないので、自分の文章ながら、なんか新鮮です。