Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

全く分かりませんでした〜向田邦子『あ・うん』

新装版 あ・うん (文春文庫)

新装版 あ・うん (文春文庫)

つましい月給暮らしの水田仙吉と軍需景気で羽振りのいい中小企業の社長門倉修造との間の友情は、まるで神社の鳥居に並んだ一対の狛犬あ、うんのように親密なものであった。太平洋戦争をひかえた世相を背景に男の熱い友情と親友の妻への密かな思慕が織りなす市井の家族の情景を鮮やかに描いた著者唯一の長篇小説。


驚いている。
向田邦子は、中学校の教科書だかテスト勉強だかで『父の詫び状』の一部を少し読んだだけで、本としては未読。
しかし、直木賞作家とはいえ、いわゆる「文学」の人ではなく、テレビの脚本家で「万人受けする面白さ」が強みの人だろう。
それにも関わらず、この読後感。
上に引用したあらすじを検証してみると…。

  • 男の熱い友情 ⇒ これが最大の難関かも。
  • 親友の妻への密かな思慕 ⇒ これは描かれていた。が、「密かな」…なのか?
  • …が織りなす市井の家族の情景 ⇒ この時代の家族の情景は、自分には合わないのかも。


とにかく、作品の意図を受け取るだけのレセプターが自分には無かった。むしろ異物として除去したいくらい。Amazonでも高評価が多いのが本当に不思議だ。
もしかしたら、高倉健主演の映画を先に見れば違う感想になっていたのかもしれない。
今回は、できるだけ具体的に嫌いなシーンを挙げて、仙吉と門倉のどこが嫌なのかを挙げていきたい「。そうすれば、次に映画を見たときに、自分の「基本的な読解力の無さ」「人情の機微への理解の無さ」が浮き彫りになるはずだ。

あ・うん [DVD]

あ・うん [DVD]



まず、冒頭の騒動について。
たみの妊娠が判明したあと、門倉と飲んで帰ってきた仙吉が、たみに語りかける言葉を拾う。

「門倉の奴、何て言ったと思う?」
「生れた子が女だったら、くれとさ」
「おれは涙が出たね。本社へもどれたのもうれしいけど、あいつに子供をくれといわれたほうがもっとうれしかったな」
「おれ、約束してきたからな」
「お前はうれしくないのか。あれほどの男が、おれたちの子供を欲しいと言ってるんだよ」
「あいつはなんでも持ってるんだよ。地位もある。金もある。いい親戚もある。弁も立つし友達も多いよ。人にも好かれるよ。背も高いし男っぷりもいい。女にももてる。おれはな、お前だから言うけど、今度うまれたら、ああいう男になりたい。」


子どもが欲しくてもできない親友からお願いされて、それに応えてやりたい気持ちはわかる。
しかし、お酒飲んで帰ってきて楽しそうに言う話ではない。しかも話す相手は、これからその子供を産む奥さんなのだ。たみは「冗談じゃないわよ」「どしてって、そんなこと、聞くほうがどうかしてますよ」「あなた、平気なの」「あたし、嫌だわ」「断ってくださいな」と、断固拒否というしごく真っ当な対応を取るのが救いだが、仙吉の、子供を、男親の所有物として考える、その感覚は、それが時代だからと説明されても、なかなか納得できない。


そして、この騒動についての門倉の対応が、仙吉以上に気持ちが悪い。
門倉の「二号」として、このあとも何度も登場する、カフェ「バタビヤ」の禮子の言葉を拾う。

「水田の細君に子供が出来て、それをもらうことにしたから切れてくれっていうのよ。父親になる男が身持ちが悪くては申しわけがないっていうのよ。ちゃんちゃらおかしいわよ。こんなものじゃ女の気持、けりがつきませんて、奥さんからそう言って返しといて下さいな」

そういって、禮子は、たみ(水田の細君)のところに、門倉に渡された手切れ金を返しに来る。
禮子は明るい女性で、物語の中では、このあと少し幸せになるからいいが、当時の男社会のルールには辟易する。恋愛ではなく「二号」という位置づけや、「父親になる男が身持ちが悪くては申しわけがない」という理屈が、到底理解できない。
こういった冒頭の場面から、既に、仙吉と門倉には全く共感できない。
そして、この物語で、筋が通ったことを言っているのは、大体において女性(特に娘のさと子)である。


その後、たみは流産をしてしまい、今度は禮子が門倉の子を妊娠をする。
そのことを門倉は、たみに報告に来る。

「いいでしょう、奥さん。生んでもいいと言って下さいよ」
「女房をどうこうしようっていうんじゃないんだ。あっちはちゃんと立てた上で血のつながった子供が欲しいんですよ」

まず、門倉が話している相手は、親友の妻、というだけでなく、つい半年程度前に「子供をくれ」という理不尽なお願いをして、その後、流産という辛い経験をした人であるという前提を確認したい。強い信頼感があるからこそ、こういう話ができるのだ、という言い方もできるかもしれないが、全くデリカシーに欠けている。
しかも「あっちはちゃんと立てた上で」という、まさに語るに落ちる本妻の扱い。
2016年の年初からずっとやっているベッキー騒動を、門倉に見せてあげたい。


仙吉の亡父初太郎の一周忌に、水田の家に、禮子と子供の守が訪れる。しかし、その後、遅れて来た本妻の君子と鉢合わせにならないように、禮子と守は二階に上げられる。しかし、子供の泣き声がするから君子は気づいて嫌味をいう。

(「隣の子が泣いている」という門倉に対して「お隣さん、二階家でした?」と言ったあとダメ押しで)
「男の子だわねえ。泣き声に力があるわ」
と感心してみせた。
看護婦上りでよく出来た女だが、こういうところが門倉の気に入らないのである。


君子が知らないふりして通してくれているんだから、むしろ「いい奥さん」に違いないのに「気に入らない」というのもどうかと思うし、「看護婦上りでよく出来た女」という表現すら、扱いの低さが見えるような表現で、それこそ、自分の気に入らない部分だ。


そして、その流れで、仙吉と門倉は、精進落としだとか理由をつけて料亭に行って芸者遊びをする、という展開も、全然納得が行かないが、そこで知り合った、まり奴という芸者に、真面目な水田が入れあげてしまうことになり、その後の展開に大きくかかわる。
ある日、芸者で遊ぶお金を銀行におろしに行こうとするのを、たみに見つかったときの仙吉の言い訳。

「男はここ一番というときがあるんだ。そういうときにケチケチしてたら、ケチケチした人間で終わるんだよ。門倉を見ろよ、門倉を。あいつの器量は遊ぶべきときには豪気に遊ぶというとこから来ているんだ」

ダメ過ぎる…。


そして、その後の展開が衝撃的過ぎた。


ある日、二号の禮子が、「最近門倉が全く家に来なくなった、どうも三号がいるらしい」というのだ。
そして、三軒茶屋の三号の家に、仙吉と禮子と守で押しかけると、門倉と一緒にいたのは、最近芸者を辞めてしまった、まり奴その人だったのだ。
そこでの仙吉の言葉は珍しく正論だ。

「一人の女が、籍入れないで子供を生むってことがどれほど重たいか、考えたことあるのか。日陰者になるってことは、親戚づきあいもあきらめて、世間様に下向いて、普通の女の一生、諦めるってことなんだぞ」
「お前は子供がない。だから二号までは認める。うちの奴も言ってたよ。だけどな、三号は断るね。つき合いきれないよ。第一、不愉快だ。娘の手前もあるよ。教育上よくないよ」
「どっちみち金で、札束で横っ面張って落籍(ひか)したんだろうが、金さえありゃ何でも出来るってやり方は、男としちゃ下の下だよ」
(「落籍す」というのは「芸者・遊女などの 借金を払って、自由な身にしてやる。身受けする。」という意味)

まり奴にあれだけお金をつぎ込んでいてよく言うな、という気持ちもあるが、勿論、自分が惚れていた女だから強い言葉が出たのかもしれない。


しかし、事の真相は、またもや「友情」だった。
芸者に入れあげ過ぎて、このままでは道を過る、と思った門倉が、そんな仙吉を見るに見かねて、仙吉がこれ以上お金を使わないために、まり奴を落籍して囲ってしまったといううのだ。
そんな風にして、いい話っぽく、このエピソードが終わっているが、奇策過ぎて完全に理解を越えている。
ちょっと意味がわからな過ぎる。馬鹿じゃないの、と思ってしまう。


最後の方では、さと子の恋愛に口出しして、殴りつけた挙句、「命がけで戦争してる人間がいるっていうのに、お前は」という仙吉の迷言が出てくる。それだけ遊んでいるお前らが何を言うんだ、という感想しか出て来ず、本当に意味がわからない。
奥さんや二号、三号までダシにして成立する「男の友情ごっこ」のどこに感動すればいいのか理解できない。
『あ・うん』は、テレビドラマが1980年、小説は1981年。ちょうど松田聖子がデビューした頃で、それほど昔ではない気がする。さらに、高倉健の映画は1989年ということで本当に最近じゃないか。当時は、まだ、こんなにも男尊女卑の思想がまかり通っていた。しかも女性脚本家がこれを書いていたのだ、というのが、衝撃的だ。
とはいえ、自分には、家族的な幸せを理解する能力が欠けている、と言う可能性もある。2013年のクローズアップ現代になるが、最近、向田邦子が人気があるなんていう特集もあったようだ*1し、自分の感性が特殊である可能性は結構高いかもしれない。「家族」や「友情」をテーマにした別の作品をもう少し読んでみたい。