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他人の物語の中で人は生きられない〜あさのあつこ『バッテリー』

バッテリー (角川文庫)

バッテリー (角川文庫)

「そうだ、本気になれよ。関係ないこと全部すてて、おれの球だけを見ろよ。」

中学入学を目前に控えた春休み、父の転勤で岡山の県境の街に引っ越してきた巧。ピッチャーとしての自分の才能を信じ、ストイックなまでにセルフトレーニングに励む巧の前に同級生の豪が現れ、バッテリーを組むが…。


今週からアニメが始まるということで、是非放映開始前に!と思って、この本を読んだ。
(アニメ→TVアニメ「バッテリー」公式サイト


10年以上前に1巻だけ読んで、今回は2度目になるが、驚いたことに、全く読み方が変わった。
これを読み手としての成長と言えるかどうかは分からないが、自分の感想がこうも変わるというのはとても面白い。
(前回の感想⇒あさのあつこ『バッテリー1』(2005年2月))


端的に言うと、「バッテリー」は、ただの傑作小説ではなく、BL要素が強い傑作小説だ。
このことに前回全く気が付かなかったのはどうかしてたんじゃないかと思うが、その手のリテラシーが欠けていたことも確かだ。
特に、ここ半年くらいの間に、『俺たちのBL論』を読んだことも大きいが、BL分野に造詣の深い方からBL漫画を複数冊プレゼントしてもらうなど、何かとBLジャンルに触れる機会に恵まれ、何となく感性的なものが芽生えて来たところだ。とても「BLが分かった」などと言うつもりはないが、今の自分の読書関心に、偶然にもマッチした題材だったと言える。

意識的に散りばめられたBL要素

さて、改めて11年前(!)に書いた感想を読んでみると、基本的に、「感じたこと」は今回読んだ感想と変わらない。しかし、感動の種類は同じでも「強度」が違う気がする。
これは上手く言えないが、BL要素を意識することで、それぞれの登場人物の「気持ちのベクトル」に、より注目するようになったからだと思う。巧、豪、青波、そして家族たち、登場人物同士に向けられる気持ちのベクトルが強い小説だからこそ、BL要素が上手くハマるのではないか。それは、『バッテリー』が「児童小説」であるということも関係がある。登場人物の気持ちを説明するのに、「組織」や「社会」を噛ませる小説ほどBL要素はハマりにくい。子ども同士の、もしくは子どもが親に向けるまっすぐな感情は、恋愛小説のそれに近い、いや、恋愛の純度が高いBLに近づいていく。
つまり、もともと児童小説と相性の良いBL要素を、作者が意識的に書くことで、『バッテリー』は、野間児童文芸賞を取り、映画化・アニメ化もされるような傑作になったのではないかと思う。


そう。作者は意識的に書いている。
キャッチャーが「女房役」と呼ばれる「バッテリー」を、野球の中でも特化して題材にしている時点で、「気づけよ」という世界なのかもしれないが、一切の邪心抜きで読んでも、作品内に散りばめられたBL要素の中には、誰でもすぐに気がつくように直接的に書かれている部分がある。

例えば、以下の部分は象徴的だ。

「だからおれの球は…」
言いかけた巧の首に、豪の腕が回ってきた。
「原田な、おれ、おまえ好きじゃ」
首をしめられているからではない。何故か、息がつまる。好きだなんて言葉、こんなに堂々と使っていいのかと、少しうろたえる。
「よせ、やめろ。おまえはホモか」
「勘違いすんな。おまえの球が好きじゃという意味でだぞ。ぞくっとする球じゃもんな」
p71

「おまえも青波、青波ってうるさいな」
「だって、青波はかわいいぜ」
巧は、自転車にまたがったまま、豪に目をやった。
「永倉、おまえ、まさか変な気があるんじゃないんだろうな」
「変な気って?」
「年下の男の子が趣味だとかさ」
p207


こういった直球過ぎる表現は、もしかしたら、あさのあつこ自身が巻末の文章で「作品の未熟さと稚拙さ」として振り返っている部分なのかもしれない。
しかし、作品が描こうとしている題材に合致していてとても成功しているように思う。

あさのあつこが「書きたかった者」

直接的な表現だけではなく、登場人物間でのさりげないスキンシップや、逆に体を触られることを神経質に嫌がる巧の様子、そして、時折、心の中でだけボッっと火が付く巧の暴力衝動は、BL的に読み込むことが十分可能だ。
勿論、これらの要素は、BLではなく、精神的に不安定な部分のある思春期の少年の特徴を上手く表しているとも言える。
これについて、あさのあつこ自身が、渾身の文章「あとがきにかえて」の中で、作品内で書きたかったテーマは?という自問に答えるようにこう書く。

そうなのか本当に…おまえが捉えようとした少年は、心に無明の闇を抱き、ポケットに凶器を忍ばせた存なのか。罰する対象、恐れる対象としかならない者たちなのか…そうなのか本当に…いや、違う、明らかに違う。なら、おまえの書きたかった者は誰だ…わたしの書きたかった者は…
傲慢、脆弱、一途、繊細、未熟、無神経、思考力、希求の想い、惑う心、悪とか善とか簡単に二分されないすべてを含んで、屹立するたった一人の少年ではなかったのか。

ここで挙げられている要素は、屈折した恋愛を描くBLというジャンルの得意とするところだと思う。
BLは一つのジャンルを指す言葉ではあるけれど、優れたBL作品は、既存ジャンルからはみ出た部分を上手く拾い上げて出来ている。
児童小説と言われながら、実はボーダレスな部分に位置するこの小説も、やはり、そういった曖昧でありながら本質を捉えた部分を上手く表現している。
そして、大らかで人懐こい永倉豪ではなく、生意気で愛想のない原田巧を主人公にしていることも、上手く作用している。例えば、「傲慢」「繊細」「無神経」などの特徴は、巧が主人公だからこそ、効果的に表すことが出来ていると思う。

第三の男

BL要素から離れるが、この『バッテリー』(1巻)が凄いのは、野球自体にあまりページが割かれない部分。中学校入学前の春休みを描いていることで、登場人物が絞られ、最小限の関係性に集中できる。
この作品のメインの登場人物は以下の二人。

  • 原田巧:生意気で自己中心的な天才ピッチャー(新中学1年生)
  • 永山豪:気配りが出来て、チームプレイに長けたキャッチャー(新中学1年生)

しかし、読者に野球の魅力を伝え、その成長を期待させるのは、彼ら2人ではなくズブの素人…原田巧の病弱な弟・青波(新小4)であるところが面白い。
男臭い二人に対して中世的なアイドル的立ち位置の青波が、野球バカの巧から、よりにもよって野球のことで嫉妬を受ける対象になる。自分は、そこが一番この『バッテリー』(1巻)で面白いと感じたところだ。
圧巻なのはクライマックスシーン。神社で、巧が青波を誹り、興奮した青波が「兄ちゃんもママも関係ないけん。ぼく、野球するもんな」と断言するシーン(p204)から、池の近くで行方不明になった青波を見つけた巧が、自分の感情を制御できないまま嗚咽するに至るところまで。
このクライマックスは、巧と青波の気持ちがもっとも高まる場面で、青波のかわいさや真っすぐさと、巧の捻じれた、しかしそれも真っすぐな気持ちに感動して泣いてしまった。

熱過ぎる「あとがきにかえて」

なお、改めて繰り返すが、あさのあつこ本人による「あとがきにかえて」が本当に熱い。
本編を読む前に、ここを読めば、もう本文を読まずにはいられなくなる。BLに造詣の深い三浦しをんが、BL要素抜きに褒める解説も、作品の魅力を上手に伝えているが、やはり、この「あとがきにかえて」の熱量は凄すぎる。前回と同じ部分を最後に引用する。

他人の物語の中で人は生きられない。生きようとすれば、自らを抑え込むしかないのだ。定型に合わせて、自らを切り落とさなくてはならない。自らの口を閉じ、自らの耳を塞ぐ。自らの言葉を失い、自らの思考を停滞させる。この国に溢れているそんな大人のわたしも一人だ。自分の身体を賭けて、言葉を発したこともなく、発した言葉に全力で責任を負おうとしたこともなかった。賢しらな、毒にも薬にもならない、つまり誰も傷つけない代わりに自分も傷つかない萎えた言葉をまき散らして生きてきた。


それでも、この一冊を書き上げたとき、わたしはマウンドに立っていた。異議申し立てをするために、自分を信じ引き受けるために、定型に押し込められないために、予定調和の物語を食い破るために、わたしはわたしのマウンドに立っていたのだ。


全6巻だけれど、この1冊だけでも十分楽しめる大傑作。
是非多くの人に読んでもらいたい本です。