Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

一橋大の「アウティング」のニュースに絡めて〜室井舞花『恋の相手は女の子』

先日、こんなニュースがありました


ちょうど、女性同士の結婚に関する本を読んだばかりだったので、ニュースの話と合わせて本の感想を書いてみたいと思います。
今回のニュース記事で話題になっているのは「アウティング」についてです。
自分も知らなかったのですが、記事の文章を引用すると、”自ら望んで、同性愛者だと告白することを「カミング・アウト」という。一方、同性愛者だということを、勝手にばらされることを「アウティング」という”のだそうです。
「カミングアウト」という言葉は既に一般的で、むしろカミングアウトされたら社会はそれを受け入れてあげようというポジティブな印象を持つ言葉だと思っています。「アウティング」は、それとは逆に、相手を傷つけようという意図が含まれる、悪いイメージの言葉と言えそうです。
しかし、「カミングアウト」も、それが済めば、気持ち的に楽になる、というものでもなく、マイノリティーの生きづらさを減らすためには、もっと社会の、つまりは個人個人の理解が必要だと、本を読んで改めて思いました。

恋の相手は女の子 (岩波ジュニア新書)

恋の相手は女の子 (岩波ジュニア新書)


この本の著者、室井舞花さんは、13歳の時の初恋の相手が女性だったことに対して、相手を好きであることをなかなか認められず、結局「私が間違っているんだ」と結論づけ、中高を通して(女性への)恋愛への興味を封印することになります。
そのきっかけは、同性愛への周囲の無理解もありましたが、決定的だったのが、保健体育の授業だったといいます。

思春期になると人は、異性に関心を持つようになります。これはだれにでもおきることです。

教科書に書いてあったこの一文に、室井さんは打ちのめされ、「自分がふつうじゃない」という最終宣告を受けたように感じたといいます。


室井さんは大学入学後、世界で何が起きているのかを学びたいという強い気持ちからピースボートに参加し、その船旅の中でカミングアウトし、恋人もできます。最初にカミングアウトした相手は「自分」。
自分自身が認めることで、他人に向けても発言ができるようになるようになるというのは、確かにその通りだなあ、と気づかされました。
ピースボートの船旅から日本に戻り、家族(姉)にカミングアウトしますが、結局、両親には結婚直前までカミングアウトすることが出来ませんでした。
また、室井さんは、このようにカミングアウトの範囲を広げていく中で、社会の無理解というよりは、自分の中の差別意識とも戦うことになります。

10代のころ、映画やテレビを通して見てきたセクシュアルマイノリティたちは、笑われ者で、孤独で、隠れていなければならない存在で、ときに化け物扱いされていました。そして、日常でも「ホモ」や「オカマ」という言葉は、人をからかうときに使われていました。だから、そこに自分がふくまれると認めたくなかったのです。
(略)
カミングアウトしてから数年たっても、「レズビアン」や「同性愛者」と言葉にするときは毎回緊張して汗をかきました。それでも、私自身を説明するために、多くの人に知ってもらうために、何度も何度も口に出すことで、私は私自身に刷り込まれた差別や偏見を、「なんでもないこと」にしていきました。 p51


室井さんの本で、実際のLGBT当事者のカミングアウトの事例を知ると、一口に「カミングアウト」と言っても、(自分自身に向けて/親しい友人に向けて/広くオープンに/両親に向けて等)色々な段階があり、どこまで行っても当事者の気持ちはなかなか晴れない、ということが分かりました。


一橋大のニュースの記事の中で、自らも同性愛者であることを認める南和行弁護士は以下のように言います。

「大学の対応をみていると、まるでAくんが『同性愛者であることを気に病んで』自殺したかのようです。しかし、Aくんは、自分が同性愛者だということは受け入れていました。同性愛を秘密にしていたのは、同性愛者への差別・偏見がある社会を冷静に見つめていたからです」

つまり、今回、自殺してしまったAくんは、自分へのカミングアウトは済んで、自分が同性愛者であることを受け入れていた。しかし、周囲の無理解の空気を読み取って、それを隠していたというわけです。
勿論、その秘密に穴を空けてしまったのはAくん自身の告白であり、仲間たちの無理解をわかっていながらの告白なので、Aくん自身にも非があるという指摘ももっともですが、この状態でのアウティングは、本人にとっては、非常にダメージが大きかったということも想像できます。


室井さんの場合、その後、現在のパートナー(ぶいちゃん)と巡り合い、彼女と結婚式を挙げることになります。(本の表紙のイラストの左側が室井さん、右側の背が高いのがぶいちゃん)
しかし、ぶいちゃんと出会うまでは、同性カップルは、最終的に社会の中で隠れて生きなければならない存在なのだと思っていたし、彼女と出会ったあとも、結婚式を挙げることには消極的だったと言います。
それは、日本では同性婚が法的に認められていないということも理由として大きいようです。*1
つまり、カミングアウトし、理想の相手と出会ってもなお、同性愛者であることの後ろめたさを感じて生きざるを得ないというのが、現在の日本で、性的マイノリティが置かれた状況なのだと理解しました。


ただし、一橋大学のA君の裁判で訴えられていたZ君の主張「恋愛感情をうち明けられて困惑した側として、アウティングするしか逃れる方法はなく、正当な行為だった」というのも理解ができます。
室井さんは本の中でこのように書いています。

一方で、この本にも出てきた家族のように、セクシュアルマイノリティに関する知識を持たない人が、ある日カミングアウトされてとまどったり、すぐに受け入れることができないというのも、よくわかります。私が自分を受け入れていくために、(1)情報・知識、(2)身近なロールモデル、(3)時間が必要だったように、カミングアウトをされた人、まだ理解できないという人にも同じような段階を踏んでいくための時間が、必要なのかもしれません。 p176

今回の裁判のニュースについて、「告白されたZ君の側が秘密を守る義務を一方的に負わされて可哀想」という意見*2があり、自分もその意見に傾きかけましたが、これからはダイバーシティだ、という世の中の流れの中では、むしろ、マジョリティ側が努力をしていく必要があるのではないかと、思い直しました。そもそも、セクシュアルマイノリティの側が、それを秘密にしなければならない状況を当然と思ってはいけないでしょう。少なくとも、こういったニュースに触れた際に、少しでもマイノリティ側の考えていることを理解しようと歩み寄る必要があります。


さて、この本では1〜3章までで、結婚式までの室井さんの体験談が書かれているのに対して、4〜6章は、それ以降の室井さんの活動や最近の日本の動きについて書かれています。
セクシュアルマイノリティのいる風景を映した写真展「ラブ・イズ・カラフル」の企画や、学習指導要領にセクシュアルマイノリティの存在を配慮した内容を盛り込んでもらうための署名キャンペーンなど、義務教育の過程でセクシュアルマイノリティが絶望せず、周囲が理解してくれるような社会を、室井さんは目指しています。勿論、その先にあるのは「先進国」で認められているセクシュアルマイノリティの権利や法制度(結婚など)があるのでしょう。
本の中では、欧米以外のお手本として、何世紀も前からマフと呼ばれる「第三の性」が存在するタヒチの例が挙げられていますが、これも非常に面白いと思いました。


改めて一橋大のニュースに戻ると、Aくんを自殺に追い込んだのは、Zくん個人の問題というよりは、日本社会の、教育や法制度の問題と言えそうです。その意味で、今回の裁判でZくんを提訴するのは筋違いだと思います。(その後、少し考えを改めました。→下段の追記)
一方で、記事の中では、Aくんが大学の保健センターに相談したにもかかわらず、「性同一性障害」を専門とするクリニックへの受診を勧められるなど、かなり頓珍漢な対応が見て取られ、ここで一気にZくんの絶望が深くなった可能性は高いでしょう。その意味では、大学への提訴には意味があると思います。


本の一番最後に「多様性に寛容な社会」について、室井さんは次のように書いています。

セクシュアルマイノリティについて考えることは、「知らないこと」「ちがうもの」について考えることです。あらゆる人に、人とちがう部分があるのだと想像力をはたらかせ、目の前の人を一方的に「あなたはこうだよね」と決めつけず、「個人」として接することを大切にしたいと思っています。
いつだって、自分の話をするよりも、人の話を聞くことのほうが、じつは難しい。どれだけ人のことを理解しているつもりでも、結局は「わたし」と「あなた」は別々の人間です。だれかに自分を説明する言葉を探すこと、だれかの話に耳を傾けること、バカにしないこと。それが「人にやさしい社会」や「多様性に寛容な社会」への一歩になるのだと、私は思います。 p186


自分自身が、同級生男子から告白された状況や、子どもが同性の恋人を連れてきた状況を考えると、うまくふるまえる自信がありません。しかし、とにかく、相手の話に耳を傾けることが何より重要だとわかっていれば、少しは良い対応ができるかな、と思いました。
勿論、教育や法制度など社会の仕組みづくりについて熱心な政治家は後押しするべきだし、その判断をできるように、勉強も頑張って続けていきたいです。
ちょうど巻末に、おすすめの本や映画が載っているので、このあたりも参考にしたい。

LGBTってなんだろう?--からだの性・こころの性・好きになる性

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境界を生きる 性と生のはざまで

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百合のリアル (星海社新書)

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追記

その後、このニュースの詳細について、遺族を取材した以下のような記事がありました。

これを読むと、やはり大学側の対応には疑問符がつきますが、中でもショックだったのは、遺族への説明のスタンスです。

亡くなった翌日、両親は大学に説明を求めた。その場で大学側は、こんな風に話を切り出した。
「ショックなことをお伝えします」「息子さんは、同性愛者でした」。

記事の中でも何度も書かれている通り、大学側が「Aくんの心の問題」として済ませたい、と考えている様子が、遺族へかける言葉からも見て取れます。
勿論、そういった大学側のスタンスは別としても、息子を自殺で亡くした両親にかける言葉として、引用部分はどう考えても不適切だとしか言いようがありません。
記事自体が、遺族側の視点に立ったものだから仕方がないとしても、事件後の大学側の対応がことごとく遺族の神経を逆なでしていることは間違いありません。遺族が大学を訴える気持ちはとてもよくわかります。

息子はなぜ、ここまで追い詰められたのか。それを知りたいと、遺族は何度も学校に問い合わせた。

「息子が、大学のハラスメント窓口に何を訴えていたのか、記録をみせてほしい」

「亡くなった日の分も含め、保健センターでの相談記録をみせてほしい」

だが、大学は「公務員あるいは医師の守秘義務の保持の観点から開示はお断りします」と言ってきた。

クラスメイトに事情を聞きたいという要望には、「教育的見地から面談はお差し控えくださるよう希望いたします」。

そして、一度は「自宅に説明に伺う」と言っていたのも「撤回します」と告げてきた。

両親は愕然とした。プライバシー情報は、本人が生きているなら、親でも見せてもらえないのはわかる。しかし、亡くなった息子のことを親が知りたいと願った時に、この対応はなんだ。

「こんなのは、まるでクレーマー扱いじゃないか」

一方で、大学に「ハラスメント窓口」「ハラスメント委員会」というものが用意されているということも今回の記事で知りました。しかも、Aくんは、その窓口を通して、事態の改善を大学側に訴えていたとのことです。
学生の相談に対応する保健センター、ハラスメント委員会という2つの組織が動いていたにもかかわらず、事態が改善しなかったのは、大学側がZ君ら「ハラスメント当事者」へのアプローチが少なかったからだと考えられますが、結局それも、LGBTへの理解が不十分だったことが原因なのでしょう。

「Zくんが同級生のLINEグループでアウティングをしたのは、ZくんがAくんを遠ざけようとしたからです。これは『いじめ』の構造です。学校はまずZくんに『いじめ』をやめ、アウティングについて謝罪するよう指導すべきでした。それなのに大学は、あたかもこれがAくんの心の問題であるかのような対応をしてきました」


なお、記事を読むと、Z君を含む同級生たちの対応も「葬儀、四十九日、その後も姿を見せない」など、疑問を感じるものがあります。
A君が、(卒業の為に必須である)模擬裁判の授業を休んでしまった件などを見るにつけ、同級生たちによる「いじめ構造」は、本人にとって相当に辛いものであったことが想像され、また、生前のA君の遺志を継げば、Z君を訴えることになったのも当然だと、(以前はZ君を訴えるのは筋違いと考えていましたが)少し考えを改めました。
ただ、大学ではなく、同級生たちについて考える際に、アウティングとハラスメント構造、それぞれについては分けて考えないといけないかなと思います。やはり「アウティング」行為自体が、訴えられて当然、とまで言っていいものなのかどうか、自分にはよくわかりません。
いずれにしても、色々な立場の人の気持ちになって物事を見ることができるような人を育てること、そしてどんな人も学びやすい場をつくることを教育機関には期待したいです。

*1:昨年ニュースになった渋谷区と世田谷区の事例は、法的な「結婚」を意味しないとのこと。

*2:たとえば、ここでのまとめの論調⇒アウティングと当事者性―「告白」という暴力 - Togetterまとめ