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沙耶香…おそろしい子!村田沙耶香『ギンイロノウタ』

ギンイロノウタ (新潮文庫)

ギンイロノウタ (新潮文庫)

「ひかりのあしおと」「ギンイロノウタ」の二編を含む、クレイジー紗耶香というあだ名も納得の一冊だった。

極端に臆病な幼い有里の初恋の相手は、文房具屋で買った銀のステッキだった。アニメの魔法使いみたいに杖をひと振り、押入れの暗闇に銀の星がきらめき、無数の目玉が少女を秘密の快楽へ誘う。クラスメイトにステッキが汚され、有里が憎しみの化け物と化すまでは……。少女の孤独に巣くう怪物を描く表題作と、殺意と恋愛でつむぐ女子大生の物語「ひかりのあしおと」。衝撃の2編。


村田沙耶香は3冊目になるが、直近の『コンビニ人間』と今回の2編の共通点を考えると、その物語の特徴は、〝徹底した主観描写”にあると思う。
何でもない日常的な風景が歪んで見えるくらい偏りのある主人公(女性)が自己分析を交えながら語る。主観で語る以上、どうしてもそこに主人公の考えが入ってしまう。ちょうど「ひかりのあしおと」で主人公・土屋有里が言うように。

今まで全ての光景は、私の指紋がぎっしりついてから私の中に運ばれてきていました。誰しもが、自分のこころをまったく介さない世界を見ることはできないのでしょうが、私のは特に濁っているという気がします。p72


そう、主人公はみんな変わった考え方をするので、まず、そこが読者の興味を強く惹く。
しかし、それだけではなく、彼女たちは、自分が他の人たちと比べて少し変わっていることを認識していて、その中で、自分がどうふるまっていけばいいかを考える。そこが重要で、それこそが興味だけにとどまらず、読者の共感する気持ちを(心の奥底で)引き起こす。
これほど極端じゃないが、自分にも、こういうシーンがあった。自分も今までこういう風に考えていたのかもしれない…等々。
だから村田沙耶香の作品を語るときに、「怖い」という形容詞が使われるのだと思う。封印しておきたかった記憶が明らかにされてしまう。ダメな自分を登場人物の中に見つけてしまう。それらはホラー映画以上に「怖い」ことだ。

怖い。容赦がない。気味が悪い。それはもう、短編でも長編でも変わることなく、時にはあまりの生々しさに、読んでいた本を遠ざけたこともありました。そうでもしなければ、主人公が侵されている毒に感染してしまうような気がして。
藤田香織による文庫解説)


最初に書いた「徹底した主観描写」によって、2つの物語は、序盤から「怖い」。
「ひかりのあしおと」と「ギンイロノウタ」の両方から、物語冒頭に登場する、主人公の住む街の描写を拾ってみる。

模型の真ん中には白い長方形の駅が宙に浮いています。それは今私が立っている駅とそっくりで、ずっと模型を見つめていると、どこからが模型でどこからが本物なのか、境界線がわからなくなってきます。この街そのものが巨大な模型に思えてくるのです。(「ひかりのあしおと」p9)

私の住むマンションは、オフィス街の真ん中にあった。結婚の際、父は自分の職場への利便を最優先に一人でさっさと決めてしまったそうだ。
残業の多い父には便利だったかもしれないが、ここは、生活するのに向かない街だった。大通り沿いには白く大きいオフィスビルがそびえたち、カーテンのない窓ガラスが羅列し中が透けて見えた。私にはそれらが巨大な蝉の抜け殻に思えた。力をこめて掘れば簡単に壊れてしまう気がしてならなかった。(「ギンイロノウタ」p119)

自分の住む街を、人間が生活する世界と捉えない主人公。彼女たちの生きづらさを紹介するエピソードも強烈だ。繰り返すが、こういったネガティブ過ぎるイメージを主人公自身の視点で語っているのが怖い。
「ひかりのあしおと」の主人公である古島誉(こしまほまれ)は大学の教室でこんなことを言われる。

「あの人、なんか、気持ち悪くない?」
私はふいと顔をそちらへ向けました。小学校のころから、よく揺れるバスか船の中でなければ気持ちが悪いというのはたいてい私のことです。今日もその認識は間違っていなかったらしく、水色のカットソーを着た女の子が目をそらし、隣の子と気まずそうに笑いあいました。
私は前に向き直り、ノートと筆箱をじっと見つめました。私はいつもこうして押し黙ります。小さいころは、「岩」というのが私の渾名でした。(「ひかりのあしおと」p23)

「ギンイロノウタ」の主人公である有里は、小学校に上がる前から対人関係を苦手としていた。

「あら、有里ちゃん、ママとお買い物?いいわねえ」
聞きなれない声が降ってくると、私はすぐに顔を伏せた。身体はこわばり、目玉だけがせわしなく上下左右に動き始めた。重い瞼の肉の隙間を、私の淀んだ黒目は湿った便所の隅で逃げ回っている虫の背中そっくりに這いずり回った。その動きが、相手に靴の裏で踏み潰して動きを止めてしまいたい衝動を与えていると思えば思うほど、目玉の上下は激しくなり、私は気づかれないように可能な限り深く俯いた。p117


解説にも書かれているように、作品内で直接的な言及はないが、どちらの作品も、主人公を呪縛しているものが家庭環境にあるのは明白で、自分は、直前に読んだ姫野カオルコ『謎の毒親』の印象から、「ひかりのあしおと」も「ギンイロノウタ」も完全に"毒親小説"として読んでいた。
特に、「ギンイロノウタ」に出てくる“アカオさん”は強烈なインパクトを与える。

母は皮膚でできた細長い袋で、普段は白い乾いた表面を出しているが、何かのきっかけで、それが突然ぐるりと裏返しになるときがあるのだった。私はそのときの母をアカオさんと心の中で呼んでいた。お母さんとまるで反対という意味で逆さ言葉からつけた名前だった。p131

私にはわかっていた。アカオさんの言うことこそ、母の本当の言葉なのだ。いつもはじっと我慢して、辛抱強く私に優しい嘘をついているだけで、これが真実なのだ。p141

このように家庭で、学校で、少しずつ傷を増やしながらそれでも懸命に生きる主人公たちは、、物語がラストに進むにつれて、その偏りを増していく。
「ギンイロノウタ」では、辛い中学時代を脱して高校に入学したばかりの主人公・土屋有里が、コンビニのバイトを始める場面がある。もしかしたら「コンビニ人間」と同様に、有里もコンビニに居場所を見つけるのかもしれない…という淡い期待は裏切られ、彼女は学校生活と同様、コンビニでも「できない子」から抜け出せない。
そんな彼女が物語後半で「一種の悟り」を開いてからラストに至るまでは手に汗握るだけでなく、突出した主観描写が加速する。「手が勃起している」には驚いた。

扉を開けたい。私は鞄から教科書を取り出し、表紙を滅茶苦茶に破いたが、手に宿った衝動は治まらなかった。
自分の手が勃起しているのがわかった。生き物になった手には、刺激を食べさせないくてはならないのだ。そしてそれは紙をちぎるような感触ではだめなのだ。p254


ただし、2作品とも、主人公が暴走してしまうラストになったことによって、逆に、読者が主人公との間に線を引いて安心してしまう結果を招いていると思う。『コンビニ人間』が芥川賞を取ったのは、ラストまで行っても、読者は主人公との間に明確な線を引けない=安心できないからかもしれない。


主人公と両親以外のキャラクターでは、「ひかりのあしおと」では、独自恋愛理論をかざすとても面倒くさい男・隆志さん、「ギンイロノウタ」では、とことんダメなタイプの熱血教師・赤津が登場する。ちょうど、「コンビニ人間」の理屈っぽい無職・白羽と対応するのかもしれないが、戯画的ながらギリギリ本当にいそうなタイプで、これも上手い。特に、熱血教師・赤津が、クラスに馴染めない主人公・土屋有里のために、帰りの会で『土屋の五分間即席スピーチ』の時間を設けるという話は、実際にあったエピソードだったとしたら怖い。


ということで、マイルドだった『コンビニ人間』と比べて、「怖さ」の目立った一冊だった。引き続き、怖いもの見たさで、次こそは三島賞の『しろいろの街の、その骨の体温の』、もしくは、解説で「恋愛という枠を超え、性について真摯に掘り下げた」とされる『星が吸う水』を読んでみたい。

星が吸う水 (講談社文庫)

星が吸う水 (講談社文庫)