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似非科学という難しいテーマ〜朱野帰子『賢者の石、売ります』

賢者の石、売ります

賢者の石、売ります

マイナスイオンドライヤーなどの美容家電製品は廃止すべきです」。大手電器メーカーに勤める科学マニアの羽嶋賢児は、自社の目玉製品にダメ出しをするというタブーを犯し、最も行きたくなかった商品企画部に異動になる。心から科学を愛する賢児は、似非科学的な効果を宣伝して売り上げを伸ばそうとする美容家電商品を許せなかったのだ。だが正論を振りかざす彼は、鼻つまみ者扱いに。まっすぐすぎる科学愛は、美容家電を変えることができるのか!?


テーマが似非科学と知って、まず興味を惹かれました。
しかも、似非科学嫌いの主人公が、外野から否定するのではなく、美容家電を売る側の立場になる、という設定が面白い。
そうだよ、自分のモヤモヤを吹き飛ばすのは、きっとこんな感じの小説だよ、と期待度を上げて読み始めたのです。

僕と似非科学

小説の感想を書く前に、ここ数年、科学とニセ科学似非科学)に対して考えていることを書きます。
というのも、この話題についての問題意識が以前とは少し異なってきているからです。
以前は無邪気に「この考え方は非科学的だ!」と、断罪するような強い気持ちで、もしくは、嘲笑するような気持でニセ科学に向き合っていたような気がします。
しかし、最近では、ニセ科学批判に慎重になりました。もっと言うと、ニセ科学批判をする人に対する否定的な気分さえ出てきたのです。


大きなきっかけの一つは東日本大震災です。
あのときの、放射能に対する扱い(例えば、東京での生活が安全か)では、身の回りでも安全か危険かで大きく意見が分かれ、西日本への移住を真剣に考えた人もいました。あのとき、どちらの陣営も「専門家」の意見を盾にお互いの意見の正当性を主張しましたが、それを理由に多くの専門家が批判されました。
当時自分は、収集できる情報から論理的に判断している人が多いのは、「安全(ただちに危険はない)」派だと考えましたが、一方で、メディア・リテラシー科学リテラシー)を持って、個々人が情報の正否を判断していくのは、相当に厳しいことだと考えました。
だから、風評被害のデマを広めるような人は論外ですが、家族が食べる食品の産地に過敏過ぎる人に対して、たとえそれを非科学的だと思っていたとしても、特に否定的なことは言いませんでした。
常に科学的に正しいことを選択するのは相当に難しいことだし、「専門家」が言っているから大丈夫だ、という発言の説得力が全くない時期で、ネットで繰り返される安全厨VS危険厨の貶し合いに、ただひたすら両者の考え方の断絶を痛感する日々でした。


もう一つのきっかけは、『賢者の石、売ります』でも(個人名を上げずに)何度も話題に上りますが、小保方さんのSTAP細胞騒動があります。あのときは論文捏造の検証に、ネットが威力を発揮したこともあり、ネット上での小保方さん叩きの熱は強いものでした。一方で、(どこからその気持ちが出てくるのか分かりませんでしたが)陰謀論まで出すほどの小保方擁護派もいて、それに対する小保方否定派の罵詈雑言具合というのも、なかなか見るに堪えないものがありました。


さらには、また、改めて書きたいと思いますが、最近ほぼ決着した子宮頸がんワクチンの問題。
これについては、ワクチンの副反応被害に苦しむ人たちや、それを支援する人たちが「ニセ科学」として批判されるという、何だかやるせない状況が続きました。
一方的にニセ科学を断罪したがるような人は、専門家でも何でもなく、虎の威を借りて武装し、常に「正しい」ことを人に教えなくては気が済まないネット弁慶の人が多いように思いますが、科学的かどうか以前の問題として、もっと人として考慮しなくちゃいけないことがあるのでは?」という疑問が離れませんでした。


ということで、もはや、自分にとって、ニセ科学についての問題意識は、「科学的か/非科学的か」というよりも、毎度毎度、「科学」派を気取るネット弁慶が、「正しさ」の剣で、無邪気な「ニセ科学」派を斬って斬って斬りまくるのが状況をどう受け入れるのかという部分が大きくなっていきました。そして、そのように斬りまくるのが、断絶した2つの立場の歩み寄りに役立つとはあまり思えませんでした。


最初にも書いたように、一個人がメディアリテラシーを駆使し、正しかろう情報に辿り着いて、「科学的な判断」を行うのは、相当に難しいことだと思います。誰もが、時間的な制約から、どこかで「思考のショートカット」をしなければならない中で、「ニセ科学」に自分の判断を委ねる人が出てしまうのも理解できます。
そういった、思考のショートカットをする際に、「ニセ科学」を選択する人を出来るだけ減らすにはどうすればいいのか、というのが、今の自分の問題意識です。


だから、「ニセ科学」の出鱈目さを説明して、嘲笑するようなタイプの本(例えば、『買ってはいけない』批判本)は、今の自分は読みたくありましせんでした。こういった方法こそが、トランプを支持するような反知性主義者を勢いづかせ、さらに断絶を深くした根本にあると考えるからです。
その点、『賢者の石、売ります』は、主人公が科学マニアでありながら、美容家電を売り、主人公の姉はパワーストーンを売る、ということで、絶対に、「両者の歩み寄り」が書かれるはずの小説で、そこが、読む前に自分が一番期待したところです。


以下、ネタバレを含みます。


賢児は「未開人」に歩み寄ったのか?

最初に結論を書くと、この小説の読後感は「スッキリしない」というものでした。
なぜスッキリしなかったのかを考えてみると、まず第一に、主人公である賢児の性格が原因だと思います。
「科学マニア」なり「理系男子」なりの類型化された特徴を誇張しているにしても、相手の感情を逆なでする発言が多過ぎて、ついていけません。
科学的知識の不足から騙されやすい人を「未開人」と呼ぶのもどうかと思いますが、特に、姉・美空が流産を報告したメール(赤ちゃん、だめだった。助けられなかった。)への返事(以下)は、あり得なさ過ぎて、とても「不器用」などという言葉では片づけられません。

「美空に助けられるわけがない。これは自然淘汰の一種なんだから」p56


しかし、そんな賢児を、メンター役の上司・桜川が、あるべきプロフェッショナルの道へ導いていく、それがこの小説のひとつの読みどころです。

じゃあこっちも訊くけど、似非科学を撲滅して君は何がしたいの?(略)
おまえが幸せな錯覚でしかないと決めつけたその価値を、寺内は柴田電器の商品として売ると決めたんだ(略)
それにひきかえ、羽嶋、お前の商売人としての誇りはなんだ。存在しないものでもいいから信じたい。そんな顧客のささやかな願いをひとつひとつ潰していくことか?
p241

それが似非科学だと分かっていてもマイナスイオン商品を売る、そういった商売人としての矜持が感じられる桜川のセリフには説得力があり、賢児の反論を待たずして「試合終了」となりかねません。
が、その後、賢児は、改めて自己を省みて、2つの行動に出ます。この2つが自分には納得しづらいもので、全く腑に落ちませんでした。
1つ目は、血脇守之助的行動。これは後述します。
もう1つが、新しい中長期計画の立案です。

おれは自分の主張を通すことだけに囚われていた。顧客の願いと真剣に向き合っていなかった。結果、自分の企画した商品が顧客にとって魅力的な商品かどうかさえもわかっていない。(略)
視点を変えて、人はなぜ偽物の科学に惹かれてしまうのか、について考えてみる。(略)
彼女たちは本物の科学に背を向けているわけではない。むしろ近づこうとしているのだ。「怪しいほうが効く気がする」という言葉の裏にあるものは未知のものへの憧れだ。その欲求は本物だ。本物の欲求に、本物の科学で応えていけばいい。
p278

このあと、地球上でもっとも過酷な職場である宇宙ステーションで働く女性宇宙飛行士のために開発をしたというストーリーを思いつくのですが、この結論は、自分にとって納得しづらいものでした。


賢児が「未開人」と呼ぶ、似非科学商品信奉者が「未知のもの」への憧れを持っている。果たしてそうでしょうか。
そうではなく、「信じたいものを信じる」という本能に、難しいことは別にして「直感的に効きそう」なものに惹かれる「ショートカット思考」が結びついているだけだと思います。
12月に、DeNAが運営していた医療情報サイト「ウェルク」が閉鎖しましたが、似非科学がこれだけ幅を利かせている理由は、まとめサイトが流行る理由と似ていると言えます。

洪水のように情報があふれるネット時代。だが、私たちの脳の処理能力は、2万年前のクロマニョン人とさほど変わらない。こう指摘するのは、国立遺伝学研究所の有田正規教授(生命情報学)だ。まとめサイトなどは「生物としての人間が限界を超えた情報を処理するために生み出した処方箋(せん)」だというのだ。

 「ただ一部では間違った情報が拡散するなどの副作用も出ている」と有田教授は言う。「一定の時間をかけて体系的な知識を身につけ、誤りをより分けたり、批判的に咀嚼(そしゃく)したりできるような教育が重要だ」
単純な「答え」に群がる人々 まとめサイトだけ信じ批判(朝日新聞)

このように、賢児の出した結論は、似非科学に対する自分の実感とは異なっています。
しかし、この小説の中の賢児が好きになれない理由は、それ以外の部分にあります。
最初に書いたように、自分は、「科学者」と「未開人」の歩み寄りを期待して、この小説を読んでいました。
確かに、上に引用したように、賢児は初めて顧客の立場に立って、自社商品のことを考え始めます。その部分に「歩み寄り」はあると言えるでしょう。しかし、賢児の出した結論は、この小説の流れからしても、やや納得しづらく、賢児の独りよがりの考えを、顧客に、未開人に押し付けているようにしか感じられませんでした。賢児は決して歩み寄っていません。
(賢児が「賢者の石」を子どもの頃に信じていた気持ちと、未開人が似非科学商品を信じる気持ちとがイコールだとは思えませんでした。)


一方で、「未開人」側の、美空が、どう歩み寄るか、というのも注目していたポイントです。
出産後に、母子の運命を預けるように信頼していた花代さんに対して、「なんだか怪しい」と思い始め、自ら判断して、そこから逃げ出す。そのシーンでのモノローグは、科学の本質を突くようで、美空の成長が感じられます。

NASAは万全を尽くしたはずだ。後は科学のはしごを信じるだけだ」信じるだけだという言葉が、そのときの美空にはおそろしかった。
でもきっとそれが科学なのだ。科学者たちは絶対に大丈夫だなどとは言わない。長い時をかけて出した答えを疑って、試して、また疑って。人に褒められたいという欲望も、うまくいきますようにという温かな祈りも、心からしめだして、冷徹につくられた科学のはしごだけが過酷な宇宙へ続いているのだろう。
p249


最後まで、独りよがりな「科学マニア」だった賢児に比べると、美空にはとても好感が持てます。

科学コミュニケーションという「歩み寄り」

この小説の主人公が科学者ではないことから、「どう歩み寄るか」ということに対するメインの話にはなっていませんが、普通に考えれば、科学者から一般向けのアプローチとしては、サイエンスカフェなどの科学コミュニケーションが挙げられると思います。、
名古屋大学の科学コミュニケーションのページを見ると、その意義が非常に分かりやすく書かれています。

科学にもとづく社会的問題の解決と、科学・技術のあり方に対する社会的意志決定とが、現代社会の重大な課題となってきています。

こうした問題解決・意志決定の主体は誰でしょうか。民主主義社会では、答えは「市民」です。こうした重要な問題についての決定を、科学者のような専門家にお任せしておいて、何かあったら文句を言おう、という態度はもはや通用しなくなってきています。同じように科学の専門家も、「わたしたちに任せて、市民は黙ってついてくれればよい」とは言えなくなってきています。科学・技術にたずさわる専門家は、非専門家の市民と協働して、問題を解決していかなくてはなりません。

そこで、注目されてきたのが、コミュニケーションの「双方向性」です。これまでの理解増進活動のように、

だけではなく、

  • 科学についてのさまざまな思いを市民から学び、科学者自身が社会的リテラシーを高めること

さらには、

  • 科学と社会の望ましい関係について、市民と科学者がともに考えていくこと

までを視野に入れた活動が求められるようになってきました。こうして「科学コミュニケーション」という言葉がつくられたのです。
研究者のための科学コミュニケーションStarter's Kit


また、ここで挙げられている「科学コミュニケーションの3つの方針」も納得度の高いものです。

  1. 科学の本質的おもしろさを利用して、市民を科学の世界に巻き込む
  2. 市民の多様性を尊重する
  3. 市民と語り合う場を大切にする

ここでは、最後まで賢児が崩さなかった「未開人を諭す」というスタンス、かつての「啓蒙活動」は、前時代のものと整理されており、市民の多様性を尊重し、より双方向性が重要としている点が興味深いです。ただ、目的としては、一般の人の科学リテラシーのレベルの底上げが重要ということだと思います。こういった正攻法の歩み寄りは、いつの時代も必要なアプローチだと思います。


小説の中では、賢児のかつての親友で、地球惑星物理学者である蓼科譲が、科学コミュニケーションに関する様々な取り組みを行っています。シンポジウムでの市民とのやり取り、ブログ執筆、書籍出版(未遂)など、読者は、蓼科譲を通じて、今の科学者像を感じることが出来ます。

譲は、賢児のかつての婚約者でもある編集者・紗綾と組んで本を出そうとします。最初に出ていた似非科学批判本という案は無くなり、次に「パワーストーンの選び方」という案が出ます。自分はこの案はとても面白いと思いました。「パワーストーン」という題材は、譲の進路に強い影響を与えた賢児の父にも関連が強く、タイトルとも符合します。また、一般の人が興味を持っているものを題材とすることは、科学者が市民の側に寄り添う形になり、双方向性を重んじる科学コミュニケーションの主旨とも合致します。

小説の最後では、パワーストーンも没案になり、出版の話自体が白紙になってしまうのですが、「歩み寄り」についての賢児のアプローチに納得が行かない自分としては、譲のアプローチに期待しており、とても残念に思いました。

科学者を悩ませる「お金」の問題

この小説には、「似非科学」以外にもう一つ大きなテーマがあります。それは研究費をどこから持ってくるかという「お金」の問題です。
2つのテーマを取り扱う、ということ自体は問題ではありません。
しかし、この小説を読んで、自分が「スッキリしない」と思った理由は、2つのテーマを題材にしていながら、それが混在してしまっていて、読み終えても頭が整理された気にならない、というところが大きいと思います。

例えば、譲が科学コミュニケーションに期待していたことは、似非科学を撲滅することではありませんでした。

失望しただろ。知らなかっただろ。科学者がこんなに金に振り回されてるなんて。無理もないよ。僕だって院に進むまでは実感できなかったから。ほんとはさ、マスコミはこういうことこそ深く追及すべきなんだ。いや、他人まかせはよくないな。自分で本を描いたりして、そういう問題を発信できればいいんだけど、なかなか方法がなくて。
p192


譲のこの発言がきっかけとなった出版話は、編集者(紗綾)との話の中で、「似非科学批判」→「パワーストーンの作り方」と変わって行ってしまいますが、譲が本当に伝えたかったのは、研究費用のことだったはずです。2つのテーマの境界が曖昧になっていることで、登場人物たちも混乱しているように見えます。


いや、この小説自体も、似非科学の話ではなく、メインを研究費の話にすれば、(賢児の思いつきのアイデア出しで終わらない)より地に足のついた、筋の通った話になっていたように思います。何度も登場する小保方さんの話も、結局は、研究費用の話と密接に関わり、小説の中で取り上げる意味づけがより分かりやすいものとなっていたはずです。
この『賢者の石、売ります』自体が、売るときのフックや派手さを重視して、「似非科学」をメインにすることになったという事実がもしあるのであれば、譲と同じ悩みを小説家も抱えているという、高度なメタ小説になっているということで、それはそれで面白いですが・・。


さて、この研究費の問題についても、賢児が理解不能の行動を起こします。
野口英世を支えた血脇守之助(ちわきもりのすけ)に倣って、譲の研究費に使ってほしいと、1000万円超の貯金を全て渡そうとするのです。
自分には、その行動がストーカー的に映り、全く共感できませんでした。
別の場面でも、譲は賢児の行動が迷惑だ、とはっきり言っています。

心配も行き過ぎると滑稽だよ。大人になってもまだそんななのか。賢児のほうがよっぽど心配だよ。友達とかいる?いないだろ?
p272

賢児はきちんとした企業に勤めてる。盤石な人生だ。すごいと思うよ。だから今でも科学に無邪気に夢を持ち続けていられるんだろう。でも僕にとってはこれが現実で、精一杯なんだよ。だからこれ以上、理想を押しつけないでくれ。
p273


『賢者の石、売ります』が、自分にとって、スッキリしない作品になったのは、やはり賢児のせいです。まず、友達すらいないような賢児の性格に問題がありますが、賢児が美容家電を販売する電機メーカー社員でなければ、もっと「似非科学」をメインにしないテーマ設定が可能だったと思います。

例えば、研究費の方をメインテーマにして、理研の広報担当が苦労する話であれば、ここまでスッキリしない終わり方にはならなかったように思ってしまうのです。
なお、このテーマに関連して、鳥澤という研究者が配置されている理由がよく分かりませんでした。読みが浅いのかかもしれません。

終わりに

もはや、世の中では、科学VS似非科学どころか、脱真実(post-truth)や非科学と親和性の高いアメリカ大統領が選ばれてしまうような時代になっています。

今月20日に就任するアメリカのトランプ次期大統領が地球温暖化対策や医療保険制度改革などに否定的な姿勢を明確にする中、科学者からは科学に基づく政策がとられるよう注視する必要があるという声が高まっています。
トランプ政権 科学や医療分野で科学者から懸念(NHKニュース)

ドナルド・トランプ氏が1月20日アメリカ大統領に正式就任する。そのトランプ氏が当選した昨秋の大統領選挙で一躍注目を集めたのが、不確定で誤解を意図的に招きやすい情報や明らかな偽ニュースが拡散していく「脱真実(post-truth)」と呼ばれる現象であった。ねつ造された情報がインターネットの保守系のサイトが取り上げることで注目され、それがソーシャルメディアを通じて一気に広がっていった。「脱真実」現象とその今後について考えてみたい(上智大学教授・前嶋和弘)
“嘘のニュース”が世論をつくる? 米大統領選で注目集めた「脱真実」(The PAGE)


この記事の中では、その情報が真実かどうかよりも「信じたい情報」かどうかが優先されるというSNSの特質が指摘されていますが、小説の中で、美空が似非科学の情報に惹かれて行ったのも同じ理由でしょう。
ネット隆盛の現代日本においても、しばらくの間、似非科学がこれまで以上にのさばるのはほぼ確実だと思います。そのことに、むしろ賢児は絶望して欲しかったというのが自分の気持ちです。
いや、そういった絶望の中で、賢児には、上から目線をやめて、(美容家電を売るかたわら)「未開人」に自らアプローチすることで、科学ファンを増やすような地道な取り組みを進めてもらえば共感しやすかった。
おそらく、あくまでエンタメ小説として読めるように、「うまくまとめた」というところがあるのかもしれませんが、軽いテーマではないので、もう少し工夫があると良かったのになと思います。

参考(過去日記)

最近は、科学に関する本をあまり読んでいないので、もうちょっと読まないとな、という気持ちになりました。


実は、朱野先生の本は『駅物語』は読んでいますが、感想をアップしていません。また、『海に降る』がまだ途中になっているので、科学を題材にした小説として、まずは、そちらを読んでみたいと思います。