Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

今そこにある凶悪の種〜白石和彌監督『凶悪』

凶悪

凶悪

ずっと前に聞いたタマフルの映画評で「ぶっこむ」という言葉が印象に残っていた『凶悪』。
これまた印象に残る映画だった。
以前見た映画だと『ヒーローショー』も、同様の後味の悪さがあったが、この映画では、より観ている側が自身に引き付けて見られるような設定上の工夫がされている。それが、山田孝之演じる記者・藤井の「家庭の事情」だ。勿論、原作にあたる新潮45のノンフィクションには無い設定だろう。
諸悪の根源のように描かれる「先生」木村孝雄(リリー・フランキー)、そして、木村を告発した死刑囚・須藤(ピエール瀧)。「凶悪」というのは、当然彼らを指す言葉だ。
のうのうと暮らす木村を、藤井(山田孝之)は、どうしても許せず、証拠を挙げるために奔走する。しかし、藤井自身の生き方も、そんなに褒められたものでないことを、藤井の妻(池脇千鶴)がことあるごとに追及する。

  • 死んだ人たちのためじゃなくて今生きている自分のためにエネルギーを使ってほしい。
  • 修ちゃんはいつもそう。大事なことから逃げてばかり。
  • 世の中には、こんな怖い人たちがいるっていうことがよくわかった。この記事は面白いよ。でもそれが大事?
  • 自分は最近、お義母さんに、暴力を振るってる。

社会悪に向けた藤井の執着は、自らの足元の花を踏みつけることで成り立っている。そもそも悪を裁きたいという気持ち自体が、好奇心の延長上にあり、もっと大切なことからの逃避のあらわれではないか、と藤井は妻から言われ続ける。
仕事か家庭か、みたいな話は誰にでもあるが、それ以上にこの映画で問われている重要な点は大きく二つあると思う。

  1. 高齢者の殺人で金を稼いでいた「先生」を裁こうと必死だった藤井の足元で、高齢者への暴力が起きている。つまり、「凶悪」でないところにも、凶悪の種がある。(事実、電気屋のお爺さんの殺人は家族からの依頼で起きている)
  2. 人を「罰したい」という気持ちは、どこから出てきているのか?


この映画の最後で、誰が一番人を殺したいと思っているのか、という話が出てくるが、観ている側は、ずっとそのことを突きつけられている。この映画で直接的に触れられているわけではないが、報道が増えているように感じられる介護殺人なんかの話題とあわせて考えると、人を罰したい気持ち、家族への「叱る」意味での暴力など、多くの人が経験しているようなことが、殺人と地続きであるような気がしてくる。
『ヒーローショー』は、酷い、怖い、関わりたくない、という感想だったが、『凶悪』は、酷い、怖い、でも自分と少し関わりがある、という感想を持った点が違った。


後半になって須藤が、牧師の薦めで俳句やペン習字を習い始め、生きている実感が湧いてきたと語る部分のむずがゆさ、何故かこれから殺す爺さんの願いを聞いてしまう五十嵐の人柄など、駒かいディテールで気に入ったシーンも多かった。
池脇千鶴は『舟を編む』でも出てきたが、だらしない感じの彼女、疲れた感じの主婦など、輝かない女性を演じるのが上手い。山田孝之は、ヨシヒコや北区赤羽とも共通するけど、まっすぐさが良いですね。
これに関しては、やはり原作本も読んでみたいと強く思った。


凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)

凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)