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「ページをめくらせる魅力」と「ページをめくる手を止めさせる詩性」〜山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

「社会の芯に繋がるようなストローを見つけたかった。」1978年生まれの私は大学をでて働きながら、小説を書いている。お金を稼ぐこと。国のこと。二人暮らしのこと。戸籍のこと。幾度も川を越えながら流れる私の日常のなかで生まれた、数々の疑問と思索。そこから私は、何を見つけ、何を選んでいくのだろうか。「日本」の中で新しい居場所を探す若者の挑戦を描いたポップな社会派小説。


文庫解説(西加奈子)によれば、山崎ナオコーラさんは「無意味なものを書きたい」「ストーリー性を排除したものを書きたい」とインタビューなどで語っているらしい。
確かに、この小説にはストーリーの起伏が少なく、むしろ日記のようなものであり、そこに積み重なった栞の「違和感」がメインで構成されている。
「違和感」と言っても、世の中に対して不満が多いというのではない。そうであれば、栞というキャラクターは、ここまで魅力的には映らないだろう。
違和感を感じるということは、人より物を考えている分だけ、「引っ掛かり」を多く感じてしまうことを意味する。自分がしっかりしているということの表れなのだと思う。そして、この小説の特徴は、栞の違和感が、嫌いな相手に向けられているわけではなく、家族や恋人に向けられているところ。フェミニズム的な内容も多いが、「権利を求める」というタイプのものではなく、あくまで日々の会話の中から出てきた「違和感」に留まるので、それほど煩く感じない。
自分自身を顧みて考えても、他の人と交わす会話の中で、色々な違和感が湧いてはスルーし、反対に、知らないうちに違和感を与えているのだろうとは思う。しかし、そういった違和感にこそ、個々人の輪郭が明確になるヒントがあると思えば、もっと自分は違和感に敏感にならなくては駄目じゃないか、と思った。

彼は「日本」においても、若い女が夜中に歩くことに眉をひそめる。「女の子は家にいるべきだ」と思っているのだ。
貞操を守るために生きているわけじゃない」
私は言い放った。
文化的に発展した国においても、決まった男に操を立て、子を産み、その男に子育ての手助けをしてもらうことが、幸せと定義される。私は子どもを産みたいが、周囲の雰囲気に飲まれて産むのは嫌だ。もちろん、自分さえ楽しく生きられれば良いと考えているわけではない。死んだあとの世界をより素敵にできるような今を生きたい。p40

どうして男は、少女マンガとレディースコミックを分けたがるのだろう。
少年マンガにも、性描写はあるでしょ?少年に性欲があることは肯定してるんでしょ?」
女の子とを「性的な存在になってからが大人」と捉えているのではないだろうか。男のことは、性に関係なく、「社会的な存在になってからが大人」と捉えているだろうに。p50

母はおそらく、(略)女を大事にしない男と仲良くしようとすることを、女自身の価値を下げることだと考えているのだ。(略)
しかし私の考えは、母と違う。母の考えは古く、受け身過ぎるように、私には感じられる。私は「見られる性」ではない。私は自分が気に入った男と仲良くしようと努めるし、金をかける。主体的に動いて、自分の決めた行動ができたときに自分の価値を知る。自分で関係を育てる。その関係が他の人からどう見られるか、相手の男にどう思われるかは大した問題にならない。p146

世の中のみんながみんな、自分の人生を生きなくてはならないものなのだろうか。幸せになる義務はないはずだ。p160


主人公の栞自らが小説家を志すということもあり、美術、音楽、映画、本の話題が身辺雑記的に綴られるところも多い。たとえば、冒頭でもラストでも登場するフリッパーズギター小沢健二。栞が(そして山崎ナオコーラが)1978年生まれで自分と世代が近いこともあるだろうが、時代の流れは共有する部分がある。
ただし、それらに対する視線は熱くなり過ぎず、むしろ冷めている。

私は小説も、絵も、音楽も、教養や心の豊かさのために使ったことがない。ただの逃避手段だ。視点を移すため。現実の状況とは違う、別の考え事をしたくて、芸術を道具にしていた。p117

こういう部分は、とても面白い。自分は、楽しく生きるためには、大袈裟に盛り上がった方がいい、と思うタチなので、完全に同意できないが、意味は分かる。
このように、冷静に自分や他人の考え方や発言を、添削し定義するように顧みる、というのは栞の思考パターンで、恋愛に対するものが面白い。だからこのタイトルなのだが。

好きだ、という科白をひとりの異性にしか使ってはいけないという社会通念を、私はばかにしていた。どうして全員が二人組にならなくてはならないのか、なぜ三人組や五人組がいないのか、不思議だった。
だから、好きだ、というのを、二人組になりたいという意味には捉えないことにしていた。p23

「つき合って」と言うので、「はい」と返事しておいた。「つき合って」というのは現代日本の恋愛用語であり、パートナーと呼ぶほどではないが、他人を前にしたら「彼」だの「彼女」だのという三人称を「特定の異性」という意味あいで使って紹介し、その異性と「つき合い」をやめるときには別れの挨拶を必要とし、それなしで他の異性と仲良くなると「浮気」だの「本気」だのという言葉を使うことになるということを、暗黙の了解として共有したい、という科白である。p28

9月に入ってから、2人は、間に距離を置くことになった。(略)「距離を置きたい」というのは現代日本の恋愛用語であり、別れの挨拶はしたくないが、つき合いはやめている状態にしたい、というときに使う科白だ。その後、「忙しい時期が終わったから」と戻ったり、「会わないでいる方が自然だったから」と正式に離れたりする。p112


というように、引用していくとキリがないが、ストーリーとは無関係の部分で、言葉に触れる楽しさが、この本にはある。
西加奈子さんの解説では、こういった言葉には読者の手を止めさせる作用がある、とし、山崎ナオコーラ作品の魅力を次のように書いている。

「ページをめくらせる魅力」と「ページをめくる手を止めさせる詩性」を、ナチュラルに物語の中に共存させるのは、ナオコーラさんの驚くべき才能だろう。それって、小説家として、ほとんど最強の能力ではないだろうか。p180


その通りだと思う。何度も戻って読み返してしまうような表現、恥ずかしいか恥ずかしくないかギリギリの詩的表現に満ちていて、文字を追うのが楽しくなる。
「詩性」という意味で、最後にもう一つ冒頭の文章を引用する。「この小説の、舞台は狭いアパートだ。」が堪らない。

広い宇宙の中の極小の星、地球。その海に浮かぶミニ国家、「日本」。その国の首都、小さな東京につきまとい、豆のような暮らしが続く。この小説の、舞台は狭いアパートだ。

いいなあ。