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もはや神々しささえ漂う傑作〜沼田まほかる『猫鳴り』

猫鳴り (双葉文庫)

猫鳴り (双葉文庫)

猫は鳴くもので、鳴るものではない。それなのに猫鳴り。
海鳴りのイメージなのだろうか。
そのタイトルだけで、色々な想像が広がる。


ただ、これまで自分の読んだ沼田まほかるは、すべて「イヤミス」という括りに入る。
覚悟して読み出すと、やはりというか、主人公の信枝の猫に対する言動が怖い。
家の近くで鳴く毛の生えそろったばかりの仔猫に対して「早くカラスにでもさらわれてくれればいいのに」と考える女性が冒頭で出てくる話は、なかなか読んだことがない。

第一部

信枝は、猫を何度も捨てようと試みる。霧雨の降る森の中で、仔猫を胸に抱えながら、つい先日、流産してしまった子どものことを重ねて考え、猫を捨てる行為に「弔いなおす」という意味を持たせようとする。

ときどき、目の眩むほど恐ろしいことに思える。死なせてしまった者の姿かたちも顔も、なにひとつ思い浮かべられないことが。あとに残されたのが、ただ空っぽの暗闇でしかないことが。生まれる前に死ぬ、まだ生まれてもいないのにすでに死んでいる、それがどういうことなのか、自分はたぶん一生理解できないだろう。p29

信枝が主人公の第一部は、生まれたての猫は「命」の象徴として登場するが、ここでの命は、「生まれてもいないのにすでに死んでいる」ものだったり、罪悪感とともにあったりする。(流産してしまった信枝の子どもは夫の子ではない)
通常とは違って、多方面から否定的にとらえられる「命」の象徴である、その猫に対して、信枝が愛着を持って育て始めるところまでで第一部は終わる。
その猫の名前が、夫婦でつけた名(チビ)ではなく、猫を捨てた女の子(アヤメ)によって、無理矢理「モン」と決まってしまうあたりも面白い。

第二部

そして5年ほど経過した第二部。
主人公は、父親と二人暮らしの中学生・行雄。
学校へも行かず、公園をたむろし、楽しそうに遊ぶ子どもたちに苛々を募らせながら過ごす行雄は、ついには犯罪すれすれの行為に及んでしまう。

滑り台の階段に肩をもたせて、後ろ手でナイフを開いた。近づいてくるチビを横目でうかがいながら、行雄は約束された開放を先取りしているような幸福感を味わった。自分が生まれ変わって神と融合するために、今このチビを生贄として捧げなければならない。それはその瞬間の行雄には、疑ってみることもできないほど自然な法則だった。p94

行雄を狂気から救ったのは、父親が連れ帰った「ペンギン」という名前の仔猫だった。
ここからは、正直振り回されっぱなしだった。
下痢を繰り返すペンギンに対して、行雄は丁寧に世話をし、父親とも協力体制が取れ、さあ今から、というところで、呆気なくペンギンは死んでしまう。
さらに衝撃的なのはそのあとだ。
土に埋めて弔ってあげようと向かった公園。同級生のアヤメに、ペンギンの亡骸を見せようと、タッパーのふたを開けると、モンちゃんが、ペンギンをくわえて走り去ってしまうのだ。
ここでのアヤメの台詞は異常だ。

「あんた、あの子この公園に埋めたるつもりやったん?せやけどあの子かてきっと、土の下に埋められるぐらいやったら、モンちゃんに食べられる方が幸せやわ。そやろ。なあ、そんなに泣かんと」

第二部でのアヤメとモンちゃんは、「災害」のようだ。
突然の不幸と、理不尽な慰め。
読者は、モンちゃんはアヤメや信枝らに支えられて立派に育っているのだな、と感じるが、モンちゃんがたくましく育つ裏には、行雄のように、モンちゃんに傷つけられる人もいる。
信枝・藤治夫妻の話の間に挟まれた第二部の存在理由を考えてしまうが、「生」と「死」を扱った第一部と第三部の間で、「成長」すら、周囲にマイナスを与えることがある、という話を入れたかったのかもしれない。つまり、「生」が、それだけで無条件に賞賛されるべきものではない、ということを釘を刺しておきたかったのではないか。

第三部

第三部は、一言で言えば、20歳となったモンちゃんの死を、独り身になった藤治(第一部の主人公・信枝の夫)が看取る話ということになる。
同種の本には谷口ジロー『犬を飼う』などの傑作もあるが、それよりももっと心の奥深くまで入り込んだ内容になっており、自らの老いも感じながら、老いていくモンを眺める藤治の気持ちの変化が、ゆっくりと時間をかけて描写される。

向かい合ってしゃがんだまま、頭を撫で、首を撫で全身をさすっていると、モンの体から無数の毛が抜けて
西日にきらめきながら風に飛ばされていった。
モンはいつまでも腑抜けた様子でいたが、そのうちに半眼になってグルグルと喉を鳴らしはじめた。猫のこういうのを何と言うのか知らないが、藤治は勝手に<猫鳴り>と呼んでいる。最初は小さかった猫鳴りは徐々に大きくなって、やがて小型の雑種犬ほどもある体全体に共鳴し、ヒゲの先が小刻みに震えた。モンがゆっくりと気持ちをほどいていくのがわかった。p140

そうか、タイトルの「猫鳴り」というのは、藤治とモンのスキンシップを意味していたのか。
以降、モンに死が近づくにつれ、藤治の中での「猫鳴り」の位置づけが変化してくるのが興味深い。

特に理由はないが、猫鳴りが来るうちはモンは死なない、という思い込みが藤治にはあった。日に何度もモンに触れ、肩の骨や腰の骨が、割れものの破片のように飛び出た体を、力をかけすぎないように注意しながらさすった。なんとしてでも猫鳴りを呼び込まなければならない。p184

さすってやれば今でも鳴るのはわかっていた。だが落ち着き払った猫を見ていると、もうわざわざ猫鳴りをさせることもないような気がしてくる。鳴っていないときにも、藤治に聞こえないだけでほんとうは鳴っているのだ。いつもそうだった。そういう鳴りっぱなしの猫なのだ。p196


とにかく、この章は、この物語の一番の核の部分に当たり、静かながら熱量が溢れている。つい先日亡くなってしまった日野原重明先生のこと、また、若くして乳がんで亡くなってしまった小林麻央さんのこと、テレビで取り扱っていた「遺族外来」のこと、上野で生まれてすくすく育つパンダのこと、そして「安楽死」についてなど、色々なことを考えさせる内容だった。
全体を通して振り返ると、第2部では「絶望」を、ブラックホールという比喩で扱っていたのに対して、第3部では「希望」について触れられる。
しかし、それは、全てを解決するオールマイティなアイテムとしての「希望」ではない。
藤治もモンも、もはや「希望」に対して無頓着になっている。それは「絶望」しているのではなく、もはや悟りを開いてしまっている状態に近い。

余分な、役にも立たない、たくさんの美しいもの。
若くて、そういうものが周囲にひしめいていて、同時に欲望の作りだす黒々とした影もたち込めていた頃には、たとえ実態は狐火であるとしても<希望>の明かりがどうしても必要だった。そんなときもあった。
だが今は希望もなく欲望もなく闇もない。ただ見通しのよい平坦な道が、最後の地点に向かってなだらかに伸びているだけだった。それもまた悪い気分ではない。p170

ラスト直前の多幸感いっぱいのシーンが印象的だが、モンの病状が悪化する中での藤治のジタバタする様子から、最後、十分に納得する時間を経て、ついに死を受け入れる境地に至るまでの流れは、どこか宗教的とすら言え、神々しく映る。花に囲まれながら、ぼやけた輪郭でこちらを見つめるモンの表紙は、この本に合っている。
解説の豊崎社長の絶賛も納得の、すごい本でした。

その時々のモンの命の在りようを通して、登場人物たちの心と生の襞に分け入っていく作者の丁寧で容赦がない筆致と、でも、だからこそ生じる公平で優しい気配が胸にしみる。第一部のつらいつらい描写を乗り越えて読む甲斐と価値が十二分にある。これは、わたしが書評家として自信をもっておすすめできる、生と死の際を描いて素晴らしい傑作文芸作品です。