Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

三秋縋『三日間の幸福』×キリンジ「この部屋に住む人へ」

寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

ときどきストロングゼロが飲みたくなる。
読書にも、もう少し刺激が欲しいなあ、と思っていたときに出会ったのがネット発というこの小説。
少し前に、ネット小説隆盛の中、それでも編集者が小説家を発掘し育てていく面白さが描かれた『書店ガール』の伸光パートを読んだあとに、こういう本を選択するのはどうかと思うが、ストロングゼロを飲みたくなるときは体に悪そうだと思っていたとしてもそれを選んでしまう。

どうやら俺の人生には、今後何一つ良いことがないらしい。寿命の“査定価格”が一年につき一万円ぽっちだったのは、そのせいだ。未来を悲観して寿命の大半を売り払った俺は、僅かな余生で幸せを掴もうと躍起になるが…。


今読み直すと、裏表紙のあらすじは、本編の内容をかなり書いてしまっているように感じたので、後半部は削って引用したが、こんな話。マンガ化の際には『寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。』となっているが、ラストに1ミリも触れないという意味では、このマンガ版の方が良いタイトルかもしれない。(総じていえば『三日間の幸福』の方が作者の書きたかった核心をついていて素晴らしいのだが)
物語の導入部で、主人公は実際に寿命を買い取ってもらう。生涯年収は3億円と聞いたことがあるから…と皮算用していたのにもかかわらず、「1年につき1万円」というあまりにも低い査定金額が出てくるという辛過ぎる話だ。


さて、今回は、あまりネタバレせずに書きたいのだが、この本は、以前読んでややイマイチに感じた『君の膵臓を食べたい』と共通点が多い。

  • 性格やコミュニケーション能力に難のある男性が主人公
  • 少ない登場人物の中で、主人公の相手として、お互いをかけがえのないと感じるような女性が登場する
  • どちらかの命が残り僅かであり、お互いがそれを知っている
  • ラストに向けて主人公は改心し、大切なことに気が付く


しかし、以下の点で2作品は全く異なり、自分は圧倒的に『三日間の幸福』を推したい。
『君の膵臓が食べたい』がイマイチだったのは何故か?ということについて「実在感」だなんだと理屈をつけたが、やはり、キミスイの主人公には「共感できない」。これに尽きるのだ。
人には誰にでも都合のいい思い込みがあるが、2作の主人公のようにコミュニケーションが少ないほどそれは顕著だと思う。(自分がそうだから特にそう思う)そんな自身の思い込みについて、『三日間の幸福』の主人公は、何人かから徹底的に批判されてボロボロになるのに対して、『キミスイ』では主人公が傷つかない。それが自分は許せない。
つまり、主人公がどん底に落ちないのに(しかも大切な人は死んでしまうのに)明るい未来が開けてしまう話になっているというのが、キミスイの主人公に共感できない理由だ。
『三日間の幸福』の作者は、その点(絶望の必要性)に意識的なようで、あとがきで以下のように書いている。

ですが、冒頭で述べた通り、僕はこうした馬鹿を、死ぬまでには治るものと考えているのです。より正確にいえば、「死の直前になって、初めて治るだろう」というのが僕の考えです。幸福な人はそうなる前に治るきっかけを得られるかもしれませんが、たとえ不運な人でも、自身の死が避けられないものであると実感的に悟り、「この世界で生き続けなければならない」というしがらみから解放されたそのとき−ようやく、馬鹿から解放されるのではないでしょうか。(略)
ただ、僕が思うに、そうした「馬鹿は治ったが、もう手遅れの彼」の目を通して見る世界は、たぶん、すべてがどうでもよくなってしまうくらいに、美しいのです。「俺は、こんなにも素晴らしい世界に住んでいたのに」、「今の俺には、すべてを受け入れて生きることができるのに」といった後悔や嘆きが深ければ深いほど、世界はかえって、残酷なくらいに美しくなるのではないでしょうか。
そういう美しさについて書きたいと、僕は常々考えています。この『三日間の幸福』にせよ、作品を通して命の価値だとか愛の力だとかについて語ろうという気は、実をいうと更々ないのです。


この通りの小説だと思う。
SFと捉えると設定に緻密さが欠けるのかもしれないが、多くの人に支持されている理由が分かる、とても清々しい気持ちになれる小説だった。

キリンジ『7』について

7-seven-

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ちょうど、キリンジ / KIRINJI メジャーデビュー20周年記念ライブ「KIRINJI 20th Anniversary LIVE19982018」の直前だったこともあり、キリンジの中であまり聴き込んでいなかったアルバム『7』を聴きながら、『三日間の幸福』を読んでいた。
キリンジ(KIRINJI)の音楽を聴くとき、自分はそれほど歌詞を気にしない。が、小説の内容とシンクロすると、途端に聴こえてくるもので、それが面白いのだと思う。以前、重松清カシオペアの丘で』を読みながらキリンジ「小さなおとなたち」を聴いたときのマジックを期待して、今回も試してみた。
すると、アルバム全体から滲み出る「もの悲しい中での幸せ」みたいなものが浮かび上がってくる。

  • 独り言呟いたなら 詠み人知らずの歌になる 街を覆う 明日の朝には消えるが(家路)
  • 人生って不思議さ すべてが手遅れのようでいて 始まったばかり そんな気もするね(タンデム・ラナウェイ)
  • 君にもしもの何かがあったら 堪えられないよ 電話の繋がるどこかにいるよ(もしもの時は)

そうそう。キリンジってこんな感じ。
キリンジが小説に合うのは、背景の書き込みがしっかりしているからだと思う。
このあたりは、映画『咲-saki-』のときにも書いたことだが、自分は、登場人物と舞台設定の組合せで物語を受容するようだ。その舞台設定=背景の部分が、キリンジは抜群に上手いから登場人物の心情がより引き立つ歌詞になっていると思う。
絵を描くときに、人物の余白を埋めるように描かれた背景なら要らない。よく批判されるJPOPの歌詞の悪い見本では、恋の背景として「夏の海」や「花火」が「枕詞」的に描かれる。それを巧妙に避けながら、主人公の住む街や生活を描くというのは、高樹、泰行に共通に見られるキリンジの歌詞の特徴だ。
今回の20周年ライブで一番感動した「Drifter」の歌詞の何がすごいって「冷蔵庫」だと思う。あそこまで歌詞で泣ける冷蔵庫は無い。


さて、話を『7』に戻すが、このアルバムで一番読み応えのある歌詞は「この部屋に住む人へ」だろう。
まず、3番で主人公が変わるという構成。宇多田ヒカル『俺の彼女』も似た構成だが、珍しいし、効果的だ。
何より、「終わり」と「始まり」を「手紙」が繋ぐという歌詞のモチーフが面白い。

旅立ちの時 終わりの季節 カーテンを外して
窓を拭く眺めが好きだった でも忘れるだろう

旅立ちの時 終わりの季節 僕が行った後に
どんな人この部屋に住むだろう 
手紙を置いていきたいけど
気味が悪いだけさ


基本的な解釈は引越しについて歌った歌だろう。
しかし、『三日間の幸福』を読みながら聴くこの歌では、そうしても「僕が逝った後に」と聴こえてしまうし、「置いていく手紙」は、「遺書」のようにも感じられる。
ただ、『三日間の幸福』で描かれる死はとても明るく迎えられるものだけに、「この部屋に住む人へ」で歌われる「旅立ちの時 終わりの季節」と同じ程度に、軽く、前向きな内容の「遺書」だ。
考えてみれば、人の死というのは、広い視点で見れば、引越しで新しい空き部屋が出るという程度の軽いものなのかもしれない。そうして、他の誰かの「旅立ちの時 始まりの季節」が上手く行くように、時にはメッセージを受け渡していくものなのかもしれない。


なお、この小説は、ダメダメになってしまった20歳の主人公が、10年前小学生だった頃まで振り返って「あの時ちゃんとしていれば…」という後悔を繰り返すような内容とも取れ、中学2年生のよう太には辛い鬱小説と感じたようだ。しかし、反面教師的に作用したようなので、ことあるごとに、この小説をダシにして、今頑張っておかないと『三日間の幸福』みたいになるよ、というような話をしている。(笑)
同じ意味で、自分にとっての鬱小説は米澤穂信ボトルネック』なので、是非読んで比べてほしい、と薦めておきました。(笑)

参考日記

 ⇒東日本の震災直前の日記ですが、いまだに「小さなおとなたち」を聞くと重松清のこの小説を思い出します。

 ⇒ここから始まった『キミスイ』研究(笑)

 ⇒続『キミスイ』がイマイチだった理由

 ⇒さらに続『キミスイ』がイマイチだった理由(奇しくもキミスイ映画版でヒロインを演じた浜辺美波繋がりの映画評)

 ⇒改めて感想を読むと、よう太に薦めたのは間違いだった気がしてくる…(笑)