Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

うつは心の病気ではない~先崎学『うつ病九段』

10連休のGWもいよいよ最終盤を迎え、出社するのが嫌になる、だけでなく、休みが明けてから自分はちゃんと普通の生活に戻れるのかと不安になる。
うつ病は、そんな気持ちの延長上にあるんだろう、と何となく思っていたが、この本を読むと全く違うようだ。そもそも、うつ病で休んでいる人は周りで見てきているが、その時の話を聞いたことがない。また、うつ病についての本を読んだこともない。自分はこれまで何となくのイメージで「うつ病」を捉え、それで理解していた気になっていたのかもしれない。うつ病は心の病気ではなく脳の病気ということすら知らなかった。


この本は、2017年から2018年にかけて、棋士先崎学九段が将棋を休んでいたおよそ1年の記録であり、うつ病当事者が、回復過程を細かく書いている点で、実は珍しい本だという。(また、本人が書いているように、「治りかけ」の時点から書き出しているので、本書の前半では、接続詞が多用されるなど、やや文章が拙いとのこと)
この期間は将棋界で以下のように色々なことが起きたが、いずれも自分は興味を持って追いかけて来たので、とても身近に感じながら読み進めることが出来た。

  • 「不正ソフト使用疑惑事件」を受けた将棋連盟会長および一部理事の辞任
  • 藤井聡太4段(当時)の快進撃
  • 3月のライオン』の実写映画化


何より、先崎学九段は、自分にとっては、何より漫画『3月のライオン』の監修を務め、コミックスではコラムを執筆されている方で、その点でも親しみを持っていた。その流れで『聖の青春』の村山聖と対戦したこともある羽生世代の棋士であることも知っていた。コラムを読む限りは、将棋一本というよりは、おそらく多様な視点を持てている人で、その時点で「うつ病」にはならなさそうなタイプの人だと思っていた。


ところが、まさに『3月のライオン』実写映画のためのプロモーションで駆け回り、 「不正ソフト使用疑惑事件」への対応で毎日議論を重ねていた2017年6月に突如「うつ」がやって来た。

  • うつっぽいのとうつとは違う。前者は表面的に暗いだけだが、後者は無反応。あらゆる感受性が消えてしまう。(p156)
  • なかなか本や活字が読めない。意味を追えなくなる。(p31)
  • ひどい不眠に苦しめられる(p49)
  • 死に向かって一歩を踏み出すハードルが極端に低く、すぐに自殺を選ぼうとする。(p13)

周りから見ても症状はまず「表情」に表れるらしい。先崎九段の兄が精神科医だったこともあり、この兄と奥さんの協力により、先崎九段はすぐに入院することになる。
この本は、「うつ」状態からの回復過程が書かれているので、それを読むことで「うつ」がどういう状態だったのかも推し量ることができる。
例えば、入院後2週間で久しぶりに物を食べて「美味しい」と感じ、同じタイミングで「エロ動画が観たい」と思う場面が典型的だが、生きるための、楽しんで生きるためのエネルギーがゼロの状態が「うつ」ということだろうか。本書の中では繰り返されるが、ある程度回復が進むまで「退屈を感じない」のだという。脳がリラックスできない状態が継続している(p126)のだろう。
ちなみに、先崎九段が慶応大学病院入院中に一番多く行った外食はカレー屋の「メーヤウ」だという。(まだ行けてない…)


途中で、兄からのアドバイスにも出てくるが、うつに効くのは「散歩」だという。

医者や薬は助けてくれるだけなんだ。自分自身がうつを治すんだ。風の音や花の香り、色、そういった大自然こそうつを治す力で、足で一歩一歩それらのエネルギーを取り込むんだ!(p66:精神科医の兄の言葉)

自分が週末、遠出して主に公園や神社を巡りながら走っているのは、実感していたが、体力的な部分というよりはメンタル的な部分に効いているんだろうというランニングの効能を裏付けられた思いだ。


さて、この本は「棋士」がどうやって「うつ」から回復するかという話なので、ある意味で回復過程がわかりやすい。
そもそも手を全く読めず、前に指した手を覚えていられないので、将棋を本格的に指すのは難しい状態の10月(退院後2か月)に、詰将棋の問題集(9手詰から13手詰)に取り組んだときのエピソードが印象深い。以前は30分で100問全問を解いていたレベルのものに対して、はじめの1問が解けずにギブアップし、7手詰でもダメだったのだ。この話を知るだけでも、うつは心の病気ではなく、脳の病気であることがよく分かる。
その後、回復が進むと、詰将棋が解け、将棋も勝てるようになってくる。当時、羽生さんから王座を奪った中村太地七段*1とのエピソード(王座就位パーティには必ず行くという約束など)も面白い。
しかし、弱肉強食の世界にまた帰らなくてはならない隔靴掻痒の感じも出ていて、とても読ませる文章だった。


この本を書くことになったきっかけは、精神科医の兄からのススメによると言う。
先崎兄は語る。

人間というのは、自分の理性でわからない物事に直面すると、自然と遠ざかるようになっているんだ。うつ病というのはまさにそれだ。何が苦しいのか、まわりはまったくわからない。いくら病気についての知識が普及したところで、どこまでいっても当事者以外には理解できない病気なんだよ。(略)
うつ病患者というのは、本当に簡単に死んでしまうんだ。(略)
うつ病は必ず治る病気なんだ。必ず治る。人間は不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。だから、絶対に自殺だけはいけない。死んでしまったらすべて終わりなんだ。だいたい残された家族がどんなに辛い思いをするか。(略)
究極的にいえば、精神科医というのは患者を自殺させないというためだけにいるんだ。
p173

先崎学九段は 17歳からプロ棋士として活躍されていることもあり、かなり人生の先輩のように感じるが、1970年生まれ(羽生さんと同い年)で、自分とは4つしか違わない。プロ棋士という厳しい世界で生き残っているだけでなく、全国の障害者施設、老人ホーム、刑務所などへの慰問で各地を飛び回っているというので、自分のようなサラリーマンとは全く違った感覚で日々を過ごされているのかもしれないが、そんな中でも「うつ」が来るのだ。
これを知ると、どんな働き方をしていても「うつ病」になることは避けられないのだろう。これまで、あまり関連書を読んでいなかったが、(類書は少ないとのことだが)もう少し他の本も読んでみたい。

*1:中村太地七段は、NHKで夜にやっていた NEWS WEBというニュース番組で水曜の司会をしていたことがあり勝手に親しみを感じている。先崎九段にとっては米長邦雄棋聖の弟弟子にあたる。