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気功、尾崎豊、フェミニズム~森岡正博『完全版-宗教なき時代を生きるために―オウム事件と「生きる意味」』

宗教なき時代を生きるために

宗教なき時代を生きるために

この本で、私が執拗に追い求めたのは「オウム真理教とは何であったか」という問いではなく「オウム真理教の時代を生きなければならない〈私〉とは何か」という問いである。なぜなら、オウム真理教事件が我々にほんとうに問いかけているのは「オウムとは何か」ということではなく「オウムを見てしまったあなたとは何者なのか、あなたはあしたからいったいどういうふうに生きていくのか」ということだからである

森岡正博については、『感じない男』を何度か読み返していますが、まさに、上に引用した「はじめに」に書かれているような問題意識を持った方です。
つまり、この人の語り口は、テレビ番組のコメンテーターのように、「いたましい事件が起きました」とか「こういう人は許せません」など、紋切り型で「他人事」のスタンスとは正反対で、すべて自分の責任の中で、自分の行動を振り返り、反省するように書かれます。
その「逃げない」姿勢は、読み手としてはスリリングで、途中は、森岡正博は、これからどうなるんだろう?と好奇心でページをめくり読み進めるのですが、最後に読者は自身に向き合わなくてはならなくなります。
当然、 著者からの読者へのメッセージとして 、自分の頭で考えることを求めているからです。


また、この人の正直なところは、自分の限界も常に認めていることで、これが「あとがき」に強く表れています。この態度は、受け取り方によっては、とてもドライです。

この本はこれで終わるわけだが、きっと読者の頭の中には、数えきれないくらい多くの疑問が渦巻いているにちがいない。
たとえば、自分の目と頭で最後まで考えていこうと言うが、世の中にはそういう重荷に耐えることができず、誰かに答えを出してもらったり、誰かにすがることで解決したいと思っている人もたくさんいる。そういう人たちは、じゃあ、どうすればいいんだ。そういう人たちに向かっても、自分の目と頭で最後まで考えろと言うのか。
まず、この疑問に対しては、次のように答えたい。
そういう選択肢を選びたい人たちに対して、私は、自分の目と頭で考えることを強制したりはしない。そういう人たちがどうすればいいのかについて、私は何の答えも持っていない。それがこの本の限界である。

このあたりまで含めて、他にはない特徴的なスタンスに自分は惹かれます。
そしてその人柄に憧れます。自分もこのくらい物事を深く考えたいといつも思っています。
以下、目次ごとに、印象に残った部分をまとめます。

第一章 宗教なき時代を生きるために

第一章では、科学と宗教について考えていく。私は自然科学によって真理を知ることができると考えていた。だが実際に大学で専門的な学習を始めるとそれが誤りであることが分かった、真理を求めていた私は宗教へと接近した。しかし私の前には「信仰」という大きな壁が立ちはだかった。私は科学からも宗教からも拒まれてしまったのだ。
(2018年版に書かれた冒頭文章。以下同じ)

森岡さんは1977年に東京大学の理科Ⅰ類に入学しました。これは入学年は30年以上離れていますが『彼女は頭が悪いから』の男性側主人公(であり蔑むべき人間)であるつばさと同じ学部になります。
この2冊の本では、それぞれ大学入学後の学生たちの様子が出てくるわけですが、自分の想像する理系大学生のイメージに近いのは、森岡さんの方です。オウム真理教の事件が起きた1994年当時は、ちょうど自分も理系大学生だったので、入学時は森岡正博と同様のオウム事件「以前」。オウム事件前後で大学と宗教の距離感は変わって行った可能性もあるかと思っています。
実際、類が友を呼んでいただけなのかもしれませんが、大学に入学した頃の自分の周囲には、『彼女は頭が悪いから』のつばさのようなタイプは見当たらず、イケてない(でも真面目な)人が多かったように思います。自分も含めて何かあれば宗教に傾きそうなタイプも多かったに違いなく、新勧時期は盛んに「原理研に注意」と警告を受けていたにもかかわらず、セミナーを聞きに行ってしまった人もいました。
その意味で、非常に共感しながら読みました。

第二章 神秘体験とは何か

第二章では、神秘体験について考える。神秘体験はオウム真理教にとって決定的に重要である。私が経験した「神秘体験」と「閉じた共同体の罠」についてこの章で詳しく述べる。「我々だけが正しい」という甘い蜜がいかに形成されるかを読者は知ることができるだろう。

この章は、この本の真骨頂かもしれないと思います。自分には「神秘体験」と言えるような経験はなく、オウムのそれは、インチキだとか、薬物による幻覚だと考えて、特に気にも留めていませんでした。
しかし、森岡正博は、神秘体験こそが重要と説きます。そして、自身が体験したヨーガの瞑想からの「神秘体験」と、一時期入っていた気功の共同体における活動についてが語られます。
この章は、オウムのような新新宗教に入信してしまった人の「目を覚ます」ことを目的として書かれている意味合いが強い内容です。自身の経験をもとに 「神秘体験」自体は、修行や信仰などと直接関係がなく、呼吸などの訓練で独力でも得ることが出来るものであり、教祖に分け与えてもらうものでもなければ、教祖を信じる根拠となり得るものでもない、ということが繰り返し説かれます。
この意図が分からないと、「気功」の話も含めて、本を読んでいる自分自身が何かの宗教の勧誘を受けているのでは?という気にさせてしまう、奇妙な、でも真に迫った章です。
「社会を変えれば世界が変わる」という学生運動が消滅した80年代日本では「私が変われば世界が変わる」というエコロジー運動が台頭した、という話はとても分かりやすかったですが、2000年代以降は、もしかしたら「何をしても世界は変わらない」という諦観に満ちているのかもしれないと思ってしまいました。

第三章 癒しと救済の罠

第三章ではオウム真理教と同時代に活躍して夭折した歌手、尾崎豊について考える。尾崎は一貫して「生きる意味」を追い求めた歌手だった。しかし彼はやがて観客たちの期待を一身に担い、彼らの殺意までをも抱え込むことになった。この救済の罠は、カルト宗教においても見られる。

ここでも森岡さんは、社会現象としての尾崎豊ではなく、一人のファンとしての目線から尾崎豊を語ります。実際のアルバムや曲名、具体的な歌詞の解釈があり、尾崎の曲は数曲しか知らない自分にとっても、とても読み応えのある内容でした。
「ロックコンサートに行ったことのない人がこれを聴くと、たぶん、新新宗教か何かの集会の様子ではないかと感じてしまうかもしれない」と語られる、尾崎の死の数か月前に行われたライブステージの様子を収録したアルバム『約束の日』は、折角なので聴いてみたいです。

第四章 私が私であるための勇気

第四章では、オウム真理教の信者だけではなく、私たちのほとんどが絡め取られているところの、見たくないものを見なくてすむようにする巧妙な仕組みについて考える。この「目隠し構造」は社会のあちこちに、そして私たちの心の隅々に仕掛けられている。そこから抜け出すために何が必要なのか、その道筋を追い求めていく。

「目隠し構造」というのは、かつての出家僧が、酒のことを「般若湯」と言い換えたり、オウム真理教で言えば殺人をポワと言い換えたりすることで、法や道徳を違反している現実を見なくて済むようになってている仕組みのことを指します。
さらに、オウム真理教側の目隠し構造だけではなく、「こちら側」の目隠し構造についても書かれています。特にフェミニズムを例に説明された部分が印象に残ったので、かなり長いですが引用します。

フェミニズムというものに最初に接した男性は、フェミニズムの主張を次のように理解するだろう。すなわち、「いままでは男性が女性を支配することによって社会が運営されていた。しかし、これからは、男性と女性が真に対等で平等な関係を保出るような社会に、変わらなければならない。そういう社会を求めて行動しているのがフェミニズムである」。
たしかに、この「 」のなかの主張それ自体は、フェミニズムが言ってきたことである。それは、大枠では間違ってはいない。だから、男性がフェミニズムの主張をそういったものとして理解するのは正当である。しかし大事なのは、この「 」のなかの主張が、フェミニズムの主張のすべてではないということだ。この「 」のなかの言明では、フェミニズムの主張の半分しか表現されていない。
なぜならフェミニズムの主張と言うのは、「 」のなかの言明という形では、言いたいことが半分しか伝わらないという、そういう種類の主張だからである。
では、この言明の裏に隠されている、フェミニズムの残り半分の主張とはいったい何か。それは、「 」のなかのことを理解したそのあなた自身が、いまこの瞬間から、自分の身のまわりの女たちに対して、どのように関わっていくつもりなのかということなのである。そしてこの点が、男性たちにもっとも伝わりにくいのだ。なぜかと言うと、それこそが、男性たちがもっとも<直面したくない>メッセージだからである。だから男に伝わりにくいのだ。

それに直面したくない男性知識人や学者たちの一部は、むしろ積極的にフェミニズムという思想に理解を示し、それを学習し、それについて議論をしようとする。そうすることによって、フェミニズムからの問いかけが、あたかもさきほどの「 」のなかの命題だけにあるのだというふうにみんなで錯覚できるのではないかと期待する。それに直面したくない男性ほど、フェミニズムの「命題内容」には理解を示そうとする。
p210

この感じはとても分かります。まさに自分が“ フェミニズムの「命題内容」には理解を示そうとする”人間だからです。そして、『82年生まれ、キム・ジヨン』のラストがそうであるように、フェミニズムに理解を示すタイプの男の典型的な行動なのかとも思います。これが怖いのは、「理解を示す姿勢」そのものが「目隠し構造」になっていることです。おそらくこれはフェミニズム以外の事項にも当てはまるのでしょう。


森岡正博は、「目隠し構造」と絡めて、自らが目指す「ほんとうの自分」について以下のように述べます。

「ほんとうの自分」とは、目を閉じて自分を真っ白にしていくことによって獲得されるのではない。「ほんとうの自分」とは、目を見開いて、見たくないものをどこまでも見てゆくプロセスのなかで、そのつど立ち現れてくるものなのである。(略)
だが、自分がはまっている目隠し構造を、自分ひとりだけの力で発見し、取り除くのは至難の業である。(略)
だから、自分がはまっている目隠し構造に出会うのは、私が他者とはげしく深いやり取りを行なう、その道筋においてである。あるときは他者のほうから暴力的に私はそれを突きつけられ、またあるときは、私が他者へと介入してゆくその過程において私自身によって発見されるだろう。

こうした目隠し構造に気がついて、自分を変容させることのできる「勇気」が必要である、ということが、4章最後に、ということは、この本のまとめとして書かれています。
さらに、そういう「勇気」を、ひとりで保ち続けることはできないので、「勇気」を持つことを励まし合ってゆける人々の節度ある距離のネットワークが必要だとしています。
このあたりは、最初に引用した「あとがき」に書かれているよう、すべての読者に考え方を強制するものではない、としている部分になります。
ということで、強制されてはいないわけですが、考え方(理想論)としては分かりますが、なかなか難しいというのが実感です。
第一に、思索をめぐらす時間がない、という至極現実的な部分があります。
第二に、勇気も持てそうにない、という部分があります。
そして、最後に「ほんとうの自分」にこだわる必要がないのではないかという部分があります。
「ほんとうの自分」について、少し説明を加えます。
4章の最初にオウム真理教を題材にした本として宮台真司『終わりなき日常を生きろ』と橋本治『宗教なんかこわくない!』を取り上げ、このうち宮台真司が主張する「終わりのない日常をまったりと適応して生きてみよう」というメッセージにダメ出しをします。

この現実社会に適応しようと、いろいろ試行錯誤したのだが、やっぱり「まったり」と生きることを選択できず、生きる意味と絶対の真理を求めてこの社会を後にしたのが、オウム出家信者なのであり、その予備群なのである。つまり、宮台のこの処方箋は、生きる意味と絶対の真理を求めてオウムに入ろうとしている人々の耳には届かないのだ。
(略)
もっとはっきり言おう。
宮台の「終わらない日常をまったりと生きろ」という主張は、この私のこころを、まったく動かさないのである。p191

ここも、森岡正博宮台真司の差が大きく出ていて面白いですが、自分の気持ちは、理想論を推し進めすぎるよりも、実利的な宮台真司の意見の方に傾きます。
平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』でも「ほんとうの自分」を探す無意味について語られていましたが、そこに入り込む必要を感じません。
さらに、「ほんとうの自分」を探して悩む姿を見るにつけ、むしろ、森岡正博が最初に捨てた「信仰」という「不自由」が、むしろ実利的なのではないかと思ったりします。生き方の教科書としてのコーランがあるイスラム教は、不自由だからこそ「楽」(考える必要がない)という思いもあるのです。
しかし、自分を覆う「目隠し構造」に常に意識的になり、他者から指摘にはよく耳を傾けなければならないという指摘は、ほとんどの人に当てはまる重要な内容だと思います。そして、「目隠し構造」に目を向け、正していく「勇気」はやはり必要でしょうこの本が最初に出版された1995年から四半世紀が経ち、その間にインターネットが普及したことで、「考える」機会はどんどん減っている気がします。そんな中で、森岡正博さんの書く「考える」で満ちている文章を読み、改めて、自分を見つめ直すいい機会になりました。
少し経ったタイミングで、今度は『無痛文明論』も読んでみたいです。

無痛文明論

無痛文明論

約束の日 Vol.1

約束の日 Vol.1

約束の日 Vol.2

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参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com