Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

シンエヴァあれこれと「労働」

映画を観てから1週間。
前回書いた「感想」に足すべきものが増えたので改めて書いてみた。
何となく自分の気持ちとも折り合いをつけられた気がする。

プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」(2021/3/22)

www.nhk-ondemand.jp

シンエヴァの制作現場に密着したNHKプロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル」を観た。
どんな仕事をやっていても締め切りギリギリでの掌返しなど似たシチュエーションはあるだろうが、ちょうどNHKで再放送されている『SHIROBAKO』を観ており、アニメーション制作の現場の話に親近感を持っていたので、より怖い話ではあった。
一方で「制作の裏側」的な要素もあり、特に「絵コンテを書かない」代わりに、序盤でモーションキャプチャーを使って「アングルを探る」制作過程が興味深く、これだけでも2回目を観る楽しみが増えた。
また、やはりこれもアングルの話だが、パリでの8号機を撮影するカメラの「寄り」「引き」にダメ出しをするシーンも印象的だった。

しかし、それ以上に、スタッフ、そして現場とは別の場所にいる人たちによる庵野評が面白い。庵野秀明を「大人になりそこねた人」と評する鈴木敏夫のヤクザっぽい佇まいが良いし、今回の映画を語る上で欠かせない安野モヨコ庵野評も温かい。

安野モヨコ『監督不行届』(2005)

監督不行届 (FEEL COMICS)

監督不行届 (FEEL COMICS)

ところで、エヴァンゲリオンを、「庵野秀明が成長する映画」として観る場合、安野モヨコが最重要人物であるというのは理解できる。
実際、今回、映画の中でも『オチビサン』が出てきて、ここで綾波が読む本としてわざわざ奥さんの本を選ぶか!と驚いたので、本棚から『監督不行届』を引っ張り出して読み直した。*1
ところが、当時読んだときも同じ印象だったけれど、今読んでも、イマイチよくわからない。
これを「特殊な趣味」の持ち主の生態本(例えば『となりの801ちゃん』)として読むと、なんだかヌルく、「これは絶対に理解できない」みたいなものがない。庵野秀明は変な人だという前提があるからかもしれないが想定の範囲内過ぎて面白みがない。
ただ、巻末の庵野秀明による解説がとても興味深い。

嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。(略)嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。(略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。

2005年2月刊行のこの漫画のあと、2006年5月に株式会社カラーを設立し、9月にスタジオカラーを立ち上げ、2007年から新劇場版が始まる。
この時間の流れを考えても、ここで「エヴァで出来なかった」ことをやり遂げたい、というのは、新劇場版のひとつのモチベーションになっていたんじゃないかと思う。

『おおきなカブ(株)』(2016)

annomoyoco.com

むしろ、今回のシン・エヴァンゲリオンと合わせて観ると感慨深いのは『おおきなかぶ(株)』の方だろう。
こちらは、スタジオカラー設立からの歴史を辿り、新劇場版の序破Qだけでなく、『風立ちぬ』や『シン・ゴジラ』への言及もあり、エヴァンゲリオンの諸々が、やはり庵野秀明の内面の問題とリンクしているんだろうな、ということを感じさせる内容になっている。
ただ、自分が『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観て感動した理由の一部には、やはり「庵野秀明が吹っ切れた」というカタルシスがあるが、そこはメインではない。そもそも庵野監督のことが心配で映画を観に行っている人は少数だろう。

RAM RIDER 週刊文春記事(2021年3月)

bunshun.jp

テレビ番組『プロフェッショナル』は、映画を取り上げたのではなく「庵野秀明」を取り上げたので、当然、シン・エヴァンゲリオンへの光の当て方も庵野秀明に重きを置いたものになっている。
しかし、番組の中では、まさにそのエヴァのドラマの中心にいる庵野秀明自身が書いたシナリオも、スタッフの理解が及ばないことが理由で没になっていることも描かれる。
当然ともいえるが、出来るだけ多くの観客に届くような作り方がされている、ということでいえば、この作品が受ける理由は、個人的な内面が社会的な状況とリンクしているからなのだと思う。
したがって、いくつかの記事を読んだ中では、 RAM RIDERさんの書いた文春の記事の冒頭部分にとても共感できた。(昔はむしろこちらの方を結び付けて語られることが多かったように思う)

世紀末を前にどこか浮ついていたあの時代(略)、エヴァの中で描かれる地球規模の「クライシス」に自らの破壊願望を重ねた人は多かったのではないか。「破壊」は言葉として強すぎるとしても、世界に対する淡いリセット願望のようなものが少なくとも僕自身の中にはあった。

阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件などを経ても、なお壮大な死や世界の崩壊をテーマにした作品が目立ったのは、それらの事件の衝撃波は浴びつつも、そこで起きた個人個人の死を映し出す術がまだマスメディアに限られ、解像度も低い世の中だったということかもしれない。

しかしインターネットが発展、普及して世界は様変わりした。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件ではブログが、2011年3月11日の東日本大震災では個人が撮影した動画が、それぞれ日常の崩れ去る様子を伝えた。それを目の当たりにし、世界の崩壊がロマン溢れる一過性のものではなく、どこまでも現実と地続きで、個人的で、容易には終わらない地味な長い戦いとなることを我々は知ってしまった。

特に新劇場版の3作目にあたる「Q」の直前に起きた3.11が庵野監督自身や作品の内容になんの影響も与えていないはずがない。(略)

新劇場版の制作において、庵野監督は「現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい」と声明を出した。一体どのような気持ちで「エヴァ」の最後と向き合ったのだろうか。

今回の映画を観るまで、エヴァンゲリオンの「終わらせ方」は、シンジ君が人類補完計画を拒否する生き方を選ぶ、また、それなのだろう。とすれば、自分や同世代の観客の心には響かないのではないか、と思った。
自分も「大人になり切れない人」の自覚はあるが、一応、一社会人として機能しているし、改めて14歳のシンジ君が大人になる話を観て、(今までも何度も観てるのに)それは感動するのかな、と思っていた。
第一、ATフィールド云々ではなく、もっと根本的な部分で心の余裕を失っている人が多い中で、シンジ君や庵野秀明の内面の問題が解決しても、所詮は他人事なのではないか、と思ったのだった。


だからこそ、ある意味で「同じ終わらせ方」にもかかわらず、自分が感動した理由を「社会的な状況とのリンク」にあると考えた。勿論、多くの人に受け入れられているのも同じ理由だろう。

したがって、何かと庵野秀明本人の話と合わせて作品が語られる傾向を見渡したとき、RAM RIDERさんのような視点こそが自分にとってはしっくり来たのだった。


だから、前回、感想として書いた文章の中には、やや書き過ぎている部分(自分でも、「それは誤解では?」と思うのだが)があり、傍から見れば強引なこじつけだが、書かずにはいられなかった部分だ。

このあたりの、世界が行き止まりにハマっている感じは、エヴァの始まった20世紀末よりも今の方が、より「世紀末」的で、逃げ道が無いように見える。

また、(本の内容については)別の機会に書きたいが、斎藤幸平『人新世の資本論』に書かれているように、今、世界が進んでいる方向には絶望しかなく、それとは別の選択肢の方に希望を見出してしまう自分の感覚と、シンエヴァが見出そうとしている希望(村の生活に代表されるもの)はリンクしているように見えた。
人間の叡智、協力、工夫は神を超えることができる、という「希望」を前面に出す終わり方は、自然災害やコロナ禍で不自由な生活を強いられている多くの観客にとっても「希望」(逆に、希望に向かっていないことが明確であれば「絶望」)として伝わったように思う。


なお、何度か書いているが、特にエヴァンゲリオンのような作品については、他人の感想や考察を読むのは避ける。自分の記憶容量は非常に小さく、鑑賞後の感想自体もそれほどの強度を持たない。したがって、良い解説記事や感想、批評を読めば読むほど記憶が上書きされてしまい、「自分の感想」はどこにも残らなくなる。
その意味では「誤解」であっても「自分の感想」は貴重なので、とりあえず書いておきたい。


話を戻すと、社会的な状況、および、個人的な内面(不安)と重ね合わせて、この作品を観た場合、これまでのエヴァで描かれなかった追加要素で一番印象に残ったのは「ゲンドウの一人語り」よりも「村の生活」だ。
しかし、正直に言えば『Q』(『破』?)で、加地さんがシンジに農業を薦めるシーンには辟易した。「都市」の生活と対照的な「農業」を出してくるのは安直だし、とても都会的な発想で恥ずかしいと思った。
だから、今回良いと思ったのは「農業」や自給自足的な生活、というよりは、労働の成果として喜んでくれる人の顔が見えることの大切さの部分だ。
レイ(そっくりさん)の「ありがとう」から始まる様々な挨拶の解釈についても、改めて日常の中で、日常の人とのつながりや労働の中で、大切だけれど疎かにしてしまう部分でもある。
エヴァの過去作では、「労働」について書かれた部分はあまりなかったように思う。ただ、日々向き合う必要があるものだから、エヴァンゲリオンにこそ必要だった要素なのではと改めて思う。
考えてみると、安野モヨコは労働女子マンガを代表作にもつ作家だ。
庵野秀明が『監督不行届』で、エヴァになく安野モヨコにあるものとして「読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガ」というとき、「外側に出て行動する」のに欠かせない要素として今回の映画に「労働」を入れたのには納得がいく。


「ありがとう」等のお礼や挨拶は、決して「労働の対価」ではなく、別に、それでご飯が食べられるわけではない。
しかし、職場や家庭、コンビニのレジで「ありがとう」を言うことは、バトンタッチするように広げていける善意なんじゃないか、と、そこに自分は希望を感じた。
現在の社会状況には、相変わらず不安を感じている部分はあるけれど、少しずつ良くしていける、自分に出来る部分もあるんじゃないか、と、先日映画を観た『きみはいい子』を思い返しながら、今は『シン・エヴァンゲリオン』のことをそんな風に考えている。

きみはいい子

きみはいい子

  • 発売日: 2016/01/13
  • メディア: Prime Video

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:「そっくりさん」が自分の名前について、読んだ本から「モヨコ」を希望するという展開を考えている人がいたが、それは流石に怖い笑