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死にたい二人を救ったもの~映画『聲の形』

映画『聲の形』Blu-ray 初回限定版

映画『聲の形』Blu-ray 初回限定版

  • 発売日: 2017/05/17
  • メディア: Blu-ray


聲の形』には、もともと漫画連載時から興味があったので、何となくの筋は知っていたが、実際に映画を観てみると、「あらすじ」を超える圧倒的なものを持った作品になっていた。
ここでは作品での中心的に扱われる「いじめ」の描き方について書いてから、死にたい二人を救ったものについて考えたことをメモに残しておきたい。

「いじめ」について

まず、「いじめ」について。
この映画の凄みは、いじめの「酷さ」と、いじめに関わるプレイヤーの多さ。

まず、聴覚障害者として転校してきた西宮(ヒロイン)に対するいじめが度を越して酷い。補聴器の紛失など、100万円以上の補償が必要な悪質ないたずらを含むのは勿論、重要なコミュニケーション手段で ある筆談ノートへの仕打ちも、金額に換算できないが酷い。
西宮の母親が、高校生になった石田の頬を叩くシーンがあるが、親なら絶対に許せない、本当に胸糞悪くなる。何も知らない小学生だから、などという言い訳は聞きたくない。死んで詫びろと言いたくなる酷いいじめだ。


次に、いじめに関わるプレイヤーの多さ。
「いじめる側」だった主人公が、「いじめられる側」も経験して改心し、かつての被害者に加害者として謝罪する、という話は、もしかしたらそれなりによくあるかもしれない。
しかし、この映画のメインキャラクターは、それぞれに異なる立場で「西宮へのいじめ」に関わり、かつ、「石田(主人公)へのいじめ」については、おそらく「傍観者」だった。

  • 西宮に色々な気持ちを持ちながらも、主体的にいじめた当事者であり、その後、いじめられる立場に回った主人公(石田)
  • 主人公以上に「悪意」を持って西宮をいじめていた女子(植野)
  • 正義感は強いが、直接的に関係しようとせず、結果的に傍観者となった女子(川井)
  • いじめられっ子の友だちになろうと努力するも、そのことで周囲から非難され不登校になった女子(佐原)

この小学校時代の出来事に対して、別の小学校出身で直接いじめを知らない男子(永束、真柴)も出てくるが、彼らにつべこべ言われたくない、と切れてしまう主人公・石田の気持ちもわかる。


登場人物が 、「いじめる側」「いじめられる側」の2種類だけしか用意されていなければ、おそらく多数派である「傍観者」の立場の視聴者は安全側にいられる。しかし、一見「いい人」に見える川井も佐原も、結局は「傍観者」だったのだと思うと、逃げ場がなくなる。
この映画は、観ている者に、「これは酷いいじめだ」と思うと同時に、「自分には止められなかったのか」という罪悪感を抱かせる。それは、石田のみならず、川井も佐原も持ち続けた気持ちなのだろう。(植野は少し違う)

「死にたい」ということについて(石田)

この作品では、2人のキャラクターが「死にたい」と思うくらいに気持ち的に追い込まれるが、まず、石田について見てみる。
小学校で「いじめられる」側に立って以降、どんどん追い込まれていった気持ちは、誰の顔も見ることができない(=顔に「×」印がつく)石田視点の学校風景によく表れている。
この部分の描き方こそが作品のキモだろう。


映画を観ていて、繰り返し登場する植野に「なぜ植野、お前が出てくるのか?」とずっと気になっていた。一生懸命になっている人に「ウケる~笑」とバカにしたような態度をとる性格は高校生になっても変わらない。西宮の補聴器を奪おうとするところまで小学生時代から変わっていない。正直、このキャラクターが登場すると気分が悪くなる。
しかし、植野と西宮の観覧車内での会話のシーンを見ると、植野にもそれなりの言い分があったことが分かる。つまり、植野から見ると、心を閉ざしていたのは西宮で、相手を見ようとしない西宮こそ、世界を自分の都合のいいように捉えているということだ。
そんなのは植野に都合のいいコジツケだとは思いつつも、自分にとっては、植野の世界の見方があったから、映画全体を捉えやすくなった。
つまり、「相手を見る」ことから世界は始まる。(なお、自らの発言により我が身を顧みたのかもしれないが、その後、植野は、西宮のために手話を覚える、という「相手を見た」上でのアプローチをかけるのは良かった)


ラストで石田が「救われた」のは、世界が自分を見てくれていることに気が付いたからであり、そのためには、まず相手を見ることから始めなくてはいけない。小学校で、いじめられる立場になり、その後、孤立を深めていった石田は、相手を見ないことで、さらに他者との関係性を結べなくなる悪循環に陥った。死にたくなる原因は「罪悪感」以上に「孤独」にあったのだと思う。

「死にたい」ということについて(西宮)

「孤独」という観点からすると、聾者である西宮は、リアルタイムのコミュニケーションに関われない部分が多いはずで、石田よりも孤立しやすい存在である。*1しかし、西宮が死にたくなった理由は、直接的には「孤独」ではない。
いじめの話をきっかけに、皆が仲違いをしてしまったことや、妹の結弦がいつも姉のことに一生懸命であることを見て、自分の存在が、自分の大切な人の人生に悪影響を与えていると思い込んでしまったのだ。
そんな西宮を救ったのは、病院から抜け出した石田の言葉だろう。石田は橋の上でうずくまる西宮に謝罪し、「生きることを手伝って欲しい」と告げるのだ。
ここで、また、ロボット研究者・吉藤健太朗さんの同じ言葉*2を引用するのだが、つまりはこういうことだと思う。

感謝は集めてしまってはならない。送りすぎてしまってもいけない。
何かをしてもらって「ありがとう」と言ったら、次は何かをしてあげて、「ありがとう」と言ってもらえる、つまり”循環”が人の心を健康にする。


私がつくりたいのはロボットではない。
「その人が、そこにいる」という価値だ。
たとえベッドから動けずとも、意識がある限り人は”人の間”社会の中にある。私がつくりたいものは、あらゆる状態でも、人に何かをしてあげられる自由。人から遠慮なく受けとることができる”普通”を享受できる自由、そこにいてもいいと思えること。普通の、社会への参加である。


人は、誰かに必要とされたい。
必要としてくれる人がいて、必要とする人がいる限り、人は生きていける。

(吉藤健太朗『「孤独」は消せる。』)


謝罪や感謝では、人は救えない。自分を必要としてくれる人がいる、と思えるから、人は孤独を感じずに「生きよう」と思うことができる。*3
石田にとって、永束君の存在は大きいはずで、西宮にとっては、当然、家族の存在は大きいはずだが、信じ切れない部分があったのだと思う。
しかし、信頼は「言葉」によって形になる。
より多くの人が自分を見てくれる、見てくれるはずだ、という、人間に対する信頼は「言葉(=聲の形)」によって強化される。
文化祭に集まったたくさんの顔から「×」印が消えていくシーンは、石田の明日も「生きよう」に確実に繋がっている。


聲の形』は、作品そのものが、観た者の気持ちを上向きにさせる、「生きよう」と思う気持ちを強くさせる、とてもいい作品だった。
作品テーマの真面目さや辛い思い出から距離を置き、「お笑い」パートを担った永束君の存在も良かった。
原作は映画と少し違うところもあるようだが、原作漫画もとても評価が高いので読んでみたい。

*1:「聾は盲目より不幸なこと」というヘレン・ケラーの言葉に対して、作者の杉浦さんは、視覚より聴覚の方が疎外感には関連が深いと思う、と共感を示している。杉浦さんは、視覚と聴覚を比較して情報をどこから得ているかといえば視覚がメインだが、コミュニケーションということを考えると、聴覚の重要性は視覚を上回ると考えている。→耳かきの適正頻度はどれくらい?〜杉浦彩子『驚異の小器官 耳の科学』 - Yondaful Days!

*2:私がつくりたいのはロボットではない~吉藤健太朗『「孤独」は消せる。』 - Yondaful Days!

*3:7月に起きたALS患者嘱託殺人事件は、もっと、この観点で語られるべきだった。