Yondaful Days!

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「元気をもらう」は実在する~城定秀夫監督『アルプススタンドのはしの方』

映画館に映画を見に行ったのは、4/1に『パラサイト』(2度目)を見て以来でしたが、市松模様の座席に戸惑いながらも、そして、現実には行われていない夏の高校野球選手権大会を羨ましく思いながらも、やっぱり映画は楽しい!と思える素晴らしい映画体験でした!(なお、パルクールバージョンの映画泥棒は初体験)


(以下、冒頭よりネタバレありです。)

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映画『アルプススタンドのはしの方』予告編


ラストは「ファンサービス」

最初に書くと、社会人になってからの彼らが描かれるラストは、嬉しいサプライズもあり、嫌いではない。しかし、あくまで「ファンサービス」でファンタジー(理想的世界)だと受け取った。矢野君の夢が叶い、安田(あすは)も藤野君もやりたいことを続けている将来像は、やや本編のメッセージからズレるように思う。

つまり、この映画は、「努力すれば報われる」という話ではない。高校演劇として作られた作品なのだから、演者の高校生たちは、皆「この努力が報われる」なんて思ってはいない。何が正解かわからない不安を抱えながら走っている。
その意味では、ラストが「蛇足」だという指摘も頷ける。

「しょうがない」

代わりに、この映画のテーマを象徴するように何度も語られるのは「しょうがない」という言葉。
もう少し限定的に書くと、クローズアップされるのは、誰かが夢を諦めるときに、当人以外が「しょうがない」と言っていいのか、という問題。


そもそも、何事も「しょうがない」と簡単に諦めてはいけない、というメッセージはこの物語の中では薄いと考える。むしろ、その人自身は諦めても良い。
映画の登場人物は、諦める人も沢山登場する。諦める原因は様々で、トラブル、才能、本人の思い込み、(好きな)相手の意思。
藤野君は野球を諦めた
宮下さんは恋愛を諦めようとしている
安田(あすは)は演劇を諦めかけた


中盤で、藤野君が野球部の矢野君が「才能がない、出番がないのに野球を続けている」ことを貶して、「出番のない野球部を諦めた」自分を正当化しているが、当人以外が口にする「しょうがない」が醜悪なことが際立つ部分になっている。(藤野君もそれに気づいている)

一方で、他の人の「好き」という気持ちは、成就するしないに関わらず、「しょうがない」などと言わずに肯定しよう!などという、「教訓」を伝えたい映画でもなかったと思う。


ラスト近くに「ここに来て良かった」と言い合う4人の目には、そこに「気づき」があったから、ということよりもむしろ、皆で経験を、気持ちを、その場を共有したことそのものへの喜びが溢れていたと思う。

その現象は実在する

変な言い方をすると、本作は「元気をもらう、 という現象は実在する」ということについての映画だったように思う。
つまり、頑張っている人を応援し、応援した相手が頑張っている姿を見せてくれることで、人は元気になる、ということ。
そして、それは「等価交換」ではなく、泉のように湧いて出る。


それが多分に受け取り手の問題であるから、送り手(スポーツ選手など)が気軽に「元気(勇気)を与えたい」などと言ってほしくないし、他の人が「元気をもらった」と公言するのを聞くと、「はしたない」という気持ちになる人が多いのもわかる。例えば、先日、評論家の江川紹子さんが次のように呟いていたが、そういう気持ちからだろう。

しかし、その現象は実在する。
事実、この映画を観ている自分自身が「元気」をもらっている。

シンパシーとエンパシー

見方を変えると、「しょうがない」というのはシンパシーだが、応援するという行為は、エンパシーを刺激する。

エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。(略)
つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。

ケンブリッジ英英辞典のサイトに行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。

つまり、シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p75)

人は「想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う」ことが出来るから応援することができる。そして、それは、かつて努力していた(もしくは努力を続けている)自分を重ねることで成立するから、努力したり悩んだりしたことのない人には得難い「能力」であるともいえる。

映画に登場する4人は、そしてスタンドに集まった観客は、最初はバラバラだが、9回裏には、ピッチャー園田を応援する(園田君の立場を想像することによって経験を分かち合う)ということで一つになっている。
いや「一つになる」というのは語弊がある。
数ある感動シーンの中でも自分にとってのピークは、「トランペットに負けんな!」と藤野君が(片思いの相手である)宮下さんの気持ちを後押しするところと、その宮下さんが(恋敵である)久住さんに声援を送るところで、どちらも、それぞれが、他人の立場に立って気持ちを推し量ることで成立している台詞で、一つになっているわけではない。
彼らは「応援する」ことによって、大きな「元気」をもらっている。そこが、この映画の核だと思う。
そして、『アルプススタンドのはしの方』が良いのは、「元気」をもらう側が、それぞれの方法で、もらった元気を昇華させていることが分かること。少なくとも、安田と田宮は演劇に挑戦する方向に、もらった元気を使った。


脇道にそれるが、テレビの画面越しでも「元気」はもらえるが、エンパシーの深度は浅く、冷房の効いた部屋でビール飲みながら、パッケージ商品としての「元気券」を受け取っているに過ぎないのかもしれない。また、高校生なら、部活に恋愛に勉強に(進研ゼミ(笑)のように)「元気」を使えるが、大人だったら、パチンコに行く気力に使っていたかもしれない。

つまり「元気をもらう」発言が、はしたない感じがするのは、テレビ局がパッケージ化した「元気券」を受け取ったに過ぎないのに、それを有難がっているように聞こえてしまうことに加えて、「元気を何に使ったか」が明確になっていないからのように思う。
「甲子園の熱戦からもらった元気があったから夏休みの猛勉強に耐えられた」というのであれば、何も「はしたない」感じはしない。(『アルプススタンドのはしの方』で「うざい」厚木先生が、茶道部活躍に貢献したというのも、それはそれで「元気」の使い道として清々しい)


さて、映画の話題に戻すと、ここで語られる「しょうがない」というのは、エンパシーに欠けた発言で、何かに向けて努力(何かをなげうって努力)している人の立場に立って考えていないだけでなく、無限に湧き出る「元気」を無駄にしてしまう勿体ない言葉だと言える。
勿論、夢を諦めた当人が「しょうがない」という気持ちになっているのなら、その立場に寄り添って言うこともあるかもしれないが、先回りして発言するのはNGの言葉だ。
特に、自分の子どもたちを含め、若い人と話をするときには、気軽に使うことを躊躇われる言葉と心得たい。


一方で、誰かの努力や成功、失敗を見て、「シンパシー」の立場からしか受け取れないことは、端的に言って「損」だ。
「エンパシー」の能力を発揮して、そこから「元気」を搾り取って、自分のために使いたい。「情けは人のためならず」というけれど「エンパシーも人のためならず」なのだと思う。
そして、人の気持ちに寄り添うのは、結局は、叶わない夢であっても、そして途中で諦めることになったとしても、自らが努力した経験こそが生きてくる。その意味で、無駄な努力なんてない。だから叶わなかった他人の努力に同情する必要もないのだ。
自らの問題を諦めずに取り組みつつ、日々のニュースや読書の中で、できるだけ色々な人の立場になって、物事を考えるようにしていきたい。

まとめ

と、色々と書きましたが、小ネタ(黒豆茶、おーいお茶、タッチアップ、進研ゼミ、人生は送りバント、矢野のスイング、血吐いてた、腹から声…)や伏線も多く、密度の高い内容で、とても楽しめた映画でした。俳優も皆良くて、元の高校演劇のバージョンや、浅草九劇のバージョンも観てみたいです。また、関東大会と全国大会の関係の話や、「贋作マクベスは高3で書いた」話など、高校演劇そのものについても、改めて興味を持ちました。

コロナ禍の「しょうがない」

とはいえ、今年の夏は、本当に特別で、帰省や旅行(春+夏)、プールや美術館巡りを、すべて「しょうがない」で諦めてきているわけです。
何が正解かは未だに全くわからないまま、延期になった五輪や夏祭りのことを思えば、自分一人(もしくは家族4人)のことなんて、大したことはない、と言い聞かせているところです。
状況も対応も人それぞれだからこそ、やっぱり、自分のこと以外には「しょうがない」を簡単に使えないな、という気持ちです。自分の「しょうがない」とどう折り合いをつけるかは目下の課題です。